セックスレス、不倫、仕事がつらい…誰にでも訪れる「中年の危機」に、BLが効く意外な理由

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1996年に河合隼雄が『中年クライシス』を書き、今に至るまで問題であり続けている「中年の危機」。仕事や私生活が落ち着いた中年期に、「自分の人生はこれでよいのか」と思い悩む現象を指す。

多くの人が経験するこの問題の「処方箋」となるような作品を発表し続けているのが、2024年7月に直木賞を受賞した一穂ミチさんである。一穂作品の大ファンでもある文筆家・ひらりささんが、一穂ミチ作品がいかに「中年の危機」を解決する糸口になるか解説する。

「中年の危機」に寄り添う作家、一穂ミチ

なんという快挙だろう。とても誇らしい。

言っておくが、大谷翔平の話ではない。

11年追いかけている小説家が今年、直木賞をとったのだ。

その名は一穂ミチ。8月に行われた授賞式で大きなマスクをしていた女性の姿を覚えている人も多いだろう。

広くエンタメ文学の作家に贈られる直木賞だが、ノミネート対象は「単行本」に限定される。ゆえに、ライト文芸のような文庫レーベルで活動する作家は自然と除外されている。一穂は作家として17年のキャリアを築いているが、単行本として小説を刊行したのは、2021年の『スモールワールズ』が初めて。ここでいきなり直木賞にノミネートされた。そして今回、1年ぶり三度目のノミネートで受賞に輝いた。

ファンとしては「とるべくしてとった」感でいっぱいだ。一穂はある文芸ジャンルのトップランナー。私は一穂作品と出会った当初から「今年の直木賞受賞作より全然おもしろいじゃん!!!」「なぜこの本が直木賞にノミネートされないんだ!」と歯ぎしりしていた。今回の受賞についても予想の範疇ではあった。

そんな一穂がこれまでメインフィールドとしてきた、とある文芸ジャンル。いわば、大谷翔平における日本野球。それが、「ボーイズラブ小説」である。

男性同士の恋愛を扱ったジャンルである「ボーイズラブ」に馴染みの薄い読者もいるだろう。Netflix発のリアリティ番組「BOYFRIEND」がヒットし、番組で生まれたカップルが雑誌の表紙を飾るなど、現実の男性同性愛そのものへの偏見は、以前よりは和らいでいると感じる。

フィクションとしてのBL作品も、ドラマ化されるケースが増えた。マンガ界ではよしながふみ、ヤマシタトモコ、小説界では凪良ゆうなど、社会全体で評価を得ている人気作家もどんどん増えている。

それでも、「BLって、一部の愛好者が楽しむためのものでしょ」という先入観はまだまだ根強いと思われる。実際、主に女性の書き手が創作して女性の読者が消費しているジャンルだし、性描写ありきのジャンルでもある。

だからこそ言いたい。

「BLというだけで食わず嫌いするのはもったいない」「一穂ミチの書くボーイズラブに、あなたの人生のヒントがある可能性は高い」と。

大人の男性にこそ一穂ミチのBL小説が必要だ、と私は言いたい。

というのも一穂は、BLというジャンルのなかで、働く大人が直面する人生の悩みや葛藤を丁寧に描き、読者をエンパワメントしてきたからだ。ずばり、「中年の危機」に寄り添う作家なのである。

「中年の危機」とは何か

中年の危機は、英語圏で生まれた「ミッドライフ・クライシス」を輸入した表現である。中年期特有の心の不調をさすが、その内容は多岐にわたる。

たとえば……管理職になり、年々増す責任に重圧を感じるようになった、昔のようには趣味や物事に心動かないことに悲しみを覚えた、人生の折り返しを意識して「違う人生があったのではないか」と現在の自分に絶望を感じた、などだ。

具体例を聞くと、ドキッとする読者も多いだろう。9月に放送されたNHK クローズアップ現代「中年の危機」特集にも、視聴者の悲痛な声が多数寄せられていた。

コロナ禍がひと段落し、表面上は、切迫した健康リスクが去った今日この頃。長距離マラソンとしての人生に改めて向き合うなかで、己の足場に感じるぐらつきは、35歳を迎えた筆者もわかる。自分の能力と努力次第で望む職業や立場を得られるという建前のもと運営されている現代社会。「自分の人生を納得いくように生きられたかどうか?」という問いかけが、過去のどんな時代よりも憂鬱な重さを持っている。

また、ソーシャルメディアの普及も、中年の危機の落ち込みを深めているのではないかと私は思う。あり得たかもしれない人生が無限に可視化されてしまう世の中だからだ。20代、30代前半まではなんとか「今から頑張ろう」と思えるかもしれない。しかし30代後半、40代と進んでいくと、すでに選んでしまった人生に「これでよかったのか?」と自問自答するしかなくなる。

ダメだからどうにかしたい。そう結論づけても、180度の方向転換をするには、体力や機会がもうないと思ってしまう。何より、「やっぱり、この人生も違う」「前のほうがマシだった」と思ったら? 打開策がないままに毎日を送る中で均衡を崩していく。これまで「中年」を経験したどんな世代よりも、メンタルリスクにさらされているのが、令和の中年たちといえよう。

働く男たちのアイデンティティ・クライシスを描く

一穂ミチは、働く男たちのアイデンティティ・クライシスを描くのが非常に巧みな作家である。

普通は、ボーイズラブと聞くと、うら若き男子中高生たちの、少女漫画のような恋愛模様をイメージするだろう。あるいは、アラブの富豪がオークションで美少年を落札、といったイメージも頭に浮かぶだろうか。実際そのように、読者にファンタジーを見せてくれるような内容も人気だ。最近は「異世界もの」の波もやってきていると聞く。

しかし「職業もの」「サラリーマンもの」というのも、長い定番ジャンルの一つである。ディテール細かに珍しい職業を書くものから、ごく普通の会社員の葛藤を描くものまでいろいろあり、確固とした人気を誇っている。職場というのは男同士のプライドがぶつかりあい、愛が生まれる最高の場所だからだ。

一穂ミチは、職業もの一筋の作家である。60冊近くのBLを世に送り出しているが、アラブの富豪が美少年を落札する話や、メインカップルのラブラブシーンに紙幅を割いて会社描写はコピー機でコピーとる程度、な話はない。

8年のイギリス駐在を終えた商社マン、整理部で淡々と勤め上げてきた新聞記者、公営カジノに出向している公務員……。

エンタメ文芸としての性質上「普通」と言い切るには特殊な職業の男たちではある。しかし、どの作品のキャラクターも、細部まで手を抜かない職業描写とともに「現実にもいそうな男性」として描かれる。恋愛体質の男ヒロイン、みたいなキャラクターは出てこない。話の核心にあるのは、彼らの、プロフェッショナリズムや葛藤、不安だ。現実を生きる「普通」の男性にとって、人生の中心にあるべきものは、仕事だから。

やりたかった仕事につき、真面目に仕事に取り組み、お金にも人との繋がりにも困っていない。一生懸命働き、周囲に誠実に暮らしていたら、女性の恋人や配偶者も得ることができた。他人から見れば、充実した人生を送る一人前の男性だ。

しかし、「充実した」と言い切るには、何かひっかかるものがあるのを本人が感じている。運が良ければ今の状態を維持できる程度ではあるが、不安要素がある。

たとえば、年々薄れていく仕事への情熱。たとえば、パートナーとの関係に感じる冷たさ。たとえば……自分が歩んできた人生の道筋に対するちょっとした後悔。

このまま目を背けて人生を続けることもできる。でも、それでいいんだっけ。そんなときに背中を押してくれる「男」と出会ったり、再会したりする。その男と関係が築かれ、アイデンティティががらりと崩れていく中で、仕事や人生に対しても向き合わざるを得なくなる。

一穂ミチのBLにおける恋愛は、「この人生このままでいいんだっけ?」に対する処方箋として、あるいはショック療法として男たちにふりかかり、男たちに変化を促す。男たちは一人の男を愛することを決め、同時に、人生や仕事上の「決断」や「賭け」に出る。読むと、萌えると同時に、自分の人生に対する「これでいいんだっけ?」が炙り出されて、ジェンダーやセックスを問わず「人間はいくらでも変わることができる」と背中を押される。ものすごく勇気づけられる小説ばかりなのだ。

女性とのセックスレスに悩むBL…⁉

どの作品も面白いのでとりあえず手にとって読んでください!という気持ちだが、まず一冊おすすめしたいのは、初期の名作『ふったらどしゃぶり』。女性と同棲中の男性が主人公、しかもその女性とのセックスレスに悩んでいる、という設定は当時のBLでは衝撃的なものだった。

「同棲をはじめたおととし、ふたつのベッドは完全に密着していた。そこにいつの間にか鉛筆一本ほどの溝ができ、そうとはわからないほどじりじり広がり続け、とうとう先月テーブルがかまされてしまった…(中略)…どれくらい前から、ひとりで雨をやり過ごすようになったのだろう?」(『ふったらどしゃぶり』より)

主人公の一顕は、恋人のかおりと同棲して2年経つ営業マン。周囲の友人からは二人がいる場で「いつ結婚するんだ」と聞かれるくらいの仲で、一顕がプロポーズをすれば話は進んでいくだろう、と一顕は思っている。日常的な会話もあるし、スキンシップも、愛情もある。しかし一つだけ一顕の心を重くしていることが、セックスレスだ。かおり本人には正面から言えないまま一人で処理をし続けている一顕だったが、貴重な相談相手ができる。自分に送るつもりだったメールを誤送信したあと、なんとなくやりとりが続いている相手だ。

『女を、「◯◯する女」と「しない女」に分けるとしたら、どんな言葉を入れますか?』

『電車で化粧する女としない女』

(『ふったらどしゃぶり』より)

「他人にだけ言える事情」を言い合う関係になっていく二人だが、実は同じ会社の親しくない同期で……というストーリーだ。

他人から得られる「男性性」「女性性」をよりどころにした生き方が行き詰まったときに人はどうなるのかの描き方が秀逸で、人間関係に悩むと、何度も読み返してしまう傑作だ。

中年の新聞記者たちを描く『off you go』

もっとはっきり「中年」の話が読みたい!という方にすすめたいのが、『off you go』。

新聞社シリーズという、新聞記者やそれをとりまく人々を題材にした作品群の一冊で、「お仕事もの作家」としての一穂ミチの魅力がいかんなく発揮されている。『off you go』で主人公となるのは、大手新聞の発行元・明光新聞社に勤務する整理部記者・良時。セックスレスに悩む頃をとうに過ぎた43歳の良時は、20代の頃に結婚した妻・八重と離婚したばかりだ。原因は、八重側の不倫と妊娠。しかし、良時のなかに怒りや悲しみはあまり存在していない。最初の地方赴任先だった金沢で知り合った八重は旅館の一人娘。婿養子に入って八重の家を継ぐつもりだった良時だが、八重とのあいだに子どもをもうけることができず、次第に心と体の距離が離れた夫婦になっていたのだ。

「自分ひとりが「部外者」なんだなとはっきり思い知らされた。あの瞬間がいちばん苦しかったかもしれない。怒りでも悲しみでもなく、俺がいなきゃ丸く収まるんだろうなという目に見える実感」

諸々を清算し、あとは独りで余生を生きるのみ。その事実を静かに受け入れ淡々と生活をこなしていた良時。しかし、そこに闖入者が現れる。幼馴染であり、会社の同期でもあり、妹・十和子の夫でもある密だ。外報部という花形部署に在籍し、世界各地を飛び回ってきた傍若無人な密が、ついに十和子から離婚を言い渡されたのだという。

“「毛布か何かくれ」

「寝るんならベッド行けよ」

「夫婦のダブルベッドにか?」

「ないよ」

「男くさい一方の寝床なんて尚更いやだね。それに俺、このソファ好きなんだよ。」

ああ、ずっと昔にそんなことを言っていたな。ナツッジの白い革張りの。“

(『off you go』より)

十和子に家を追い出された密は、なぜか良時の家に居座ることに。人生のかなりの期間を共に過ごし、しばらく離れていた密と生活をともにすることになった良時は、二人の出会い、そして自身の半生について回想し、自分の感情を向き合っていくことになる。

本心を隠すことに慣れてしまった大人たちが、少しずつ素直さを取り戻していく過程には、読み手の心まで洗われるようなデトックス効果がある。ビターで前向きな人生讃歌だ。

「中年の危機」に寄り添う処方箋としてのBL小説。BLなんて、という人にこそ、固定観念を手放して読んでみてほしい。

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