都はるみ登場時の瞬間最高視聴率は「84.4%」!? 80年代の『NHK紅白歌合戦』と漫才ブームの余波

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巷のワイドショーやインターネットは、飢えたピラニアのように「事件」という生肉へ喰らいつくが、「歴史」という骨までは語りたがらない。そんな芸能ゴシップ&サブカルチャーの「歴史」を、〈元〉批評家でコラムニストの時代観察者が斜め読む!

漫才ブーム! 1980年『NHK紅白歌合戦』の裏番組

1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』裏番組は、日本テレビが18時30分から桂三枝(現・六代目桂文枝)、B&B、沢田亜矢子の司会で『輝け!!“特別生放送”笑いは日本を救う!?』というワイド特番、TBSは21時から横山やすし、西川きよしの司会で『笑ってサヨナラ'80東西BEST漫才』と、一気にバラエティ色が強くなった。

あからさまに「漫才ブーム」の影響だが、やすきよは日本テレビで漫才を披露し、そのままTBSへ移動して司会を務める慌ただしさだった。

もっとも、ザ・ぼんち、紳助・竜介、阪神・巨人、レツゴー三匹、春やすこ・けいこ、今いくよ・くるよ、太平サブロー・シローなど、出演者の多くが両番組を掛け持ちしていたのだが、最大のスターは「毒ガス漫才」のツービートだった。

怒涛のように襲来する大阪のどぎつい漫才師たちに、東京勢はほとんどツービートだけで対抗する構図になっていたのだが、レツゴー三匹のどぎつい定番ネタ「ルーキーに貸した金返せ!」は、この年の3月、レツゴー正児の兄であるルーキー新一がアルコール中毒で亡くなったため、封印されていた。

東京の視聴者はルーキー新一が吉本興業に叛逆し、徹底的に干されて金銭トラブルを繰り返した陰惨な事件を知らないから、このネタではそもそも笑えなかったのだが。

なにはともあれ、ここでようやく東京と大阪の笑芸の壁が消滅し、吉本興業が本格的に東京へ再進出していくことになるのだが、ようやく全国的にウケた理由は、浅草出身の非吉本芸人なのに、吉本芸人よりもどぎついツービート……ビートたけしが迎え撃つ構図にあった。

コント55号……萩本欽一のサイコパスで偏執的な芸風と違い、たけしの毒舌だがあっさり流す芸風は、大阪勢と絡みやすかったのだ。

『ドラえもん』のあとは松田優作主演映画の大晦日!?

実際、この年の10月から始まった『笑ってる場合ですよ!』や、1981年5月開始の『オレたちひょうきん族』(共にフジテレビ)でもこの構図を最大限に利用していた。

しかし、フジテレビの『NHK紅白歌合戦』の裏は、竹村健一、フレデリック・フォーサイス、ヘンリー・キッシンジャーなどをメインに据えた『'80大晦日スペシャルドキュメント 1983年何かが起こる? “悪魔の選択・日本の選択”』という、モスクワオリンピックのボイコット問題で湧き上がった反共ブームに乗る怪しげな政治討論番組を放送していた。

あの異様な動物番組『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』の第1回は、この2日前、1980年12月29日に放送されていたが、有名な「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズが作られたのは翌1981年で、1980年は長く続いた「母と子のフジテレビ」時代の最後だった。

そりゃ、『笑ってる場合ですよ!』でツービートが『全日本勝ち抜きブス合戦』なんて始めたら、「母と子のフジテレビ」なんて呑気なフレーズは吹っ飛んでしまうのだが。

テレビ朝日は『'80大みそかだよ!ドラえもん』から、松田優作主演のハードボイルドアクション映画『最も危険な遊戯』で、やっぱり温度差がひどいのだが、同局の大株主は東映なので、大晦日は東映のスター映画を放送するという方針だったのかも知れない。

翌1981年にテレビ東京への局名変更を控えていた東京12チャンネルにも変化があった。17時スタートの懐メロ&演歌番組だった『年忘れにっぽんの歌』をリニューアルし、『日本レコード大賞』開始前に松田聖子、田原俊彦、もんた&ブラザーズなどを出演させたのだ。

77年から放送していた音楽バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』が定着したことで余裕が生まれたのだろうが、肝心の紅白裏は力尽きたのか、1979年1月2日に全6部を12時間ノーカット放送して好評だった、1959年の映画『人間の條件』第3部と第4部をまた放送していた。

もっとも、年明けの1月2日から初の『12時間超ワイドドラマ』として萬屋錦之介主演の『それからの武蔵』を放送しているので、その露払い的な意図があったのかもしれない。

吉川晃司が大暴れ! 1985年の『NHK紅白歌合戦』

1984年の『第35回NHK紅白歌合戦』は引退表明していた、都はるみのラストステージだったこともあり、視聴率78.1%を記録した。

都はるみ登場時の瞬間最高視聴率は84.4%だったが、翌1985年は演歌系のヒット曲が乏しかったため、『第36回NHK紅白歌合戦』ではアイドル、バンド枠を増やすことになった。

初出場は石川秀美、吉川晃司、テレサ・テン、C-C-B、松原のぶえ、鳥羽一郎、安全地帯、原田知世だったが、紅組の石川秀美に続いて白組トップバッターを務めた吉川晃司は、1985年10月2日に放送された『夜のヒットスタジオDX』でアン・ルイスと『六本木心中』をデュエットしつつ疑似セックスを演じたことで物議を醸していた。

なので、「紅白でも何かやらかすのでは?」と思われていたのだが、案の定、この年のカネボウ・夏のキャンペーンソングだった『にくまれそうなNEWフェイス』を歌いながら、持ち込んだシャンパンをぶち撒け、最後はギターにオイルを振りかけて燃やすイキリっぷりだった。

カメラには映らなかったが、3曲目の河合奈保子の持ち時間にまで食い込む暴走っぷりにステージの清掃が間に合わず、4曲目で登場したシブがき隊の布川敏和はシャンパンの残滓で足を滑らせ、2回転倒していた。

このため、筆者の家では吉川晃司と『ザ・ベストテン』(TBS)や『オールナイトフジ』(フジテレビ)で、度々テレビカメラを破壊していたとんねるずが同じハプニング芸人枠として認識されてしまった。

吉川本人も広島在住の姉から「姉弟の縁を切るよ!」と怒られたが、パフォーマンス自体は現場スタッフと事前に打ち合わせた「演出」だったと、『舞いあがれ!』の番宣で出演した2022年12月9日の『あさイチ』(共にNHK)で謝っていた。

なので、以後の紅白出場こそなかったが、のちの長渕剛とは違い、NHK自体は出禁になっていない。転倒した布川も吉川の夜遊び友達だったから、笑って済ませていた。

「いわくつき」シブがき隊の『NHK紅白歌合戦』出場

有力歌手やマネージャーの独立が相次ぎ、沢田研二もこの年に独立するなど、弱体化しつつあった渡辺プロダクションの秘蔵っ子で、渡辺晋が最後に陣頭指揮を執った切り札だったから、事務所も必死に守ったのだろうが、独立後の現在も大河ドラマや連続テレビ小説の常連俳優であり、『フランケンシュタインの誘惑』(NHK-BS)のナビゲーターも務めている。

ちなみに、シブがき隊は紅白の時点でレコード発売前の新曲『スシ食いねェ!』を歌っていたのだが、何でそんなことが許されたのかというと、ちょうど『みんなのうた』1985年12月の曲だったからだ。

1984年の吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』に次ぐ、日本語ラップ草創期の歌謡曲で、Run-D.M.C.の1stアルバムと二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船』を組み合わせたハイセンスな曲だが、どちらも当時の少年少女はまず知らないし、これをいきなり児童向けの『みんなのうた』に登用するあたり、NHKも相当に無茶である。

翌年2月の発売後にヒットしたから良かったが、結局、シブがき隊はこれが最後のヒット曲となり、1986年の『第36回NHK紅白歌合戦』で歌ったのも『スシ食いねェ!』より先に発売された『トラ!トラ!トラ!』だった。

シブがき隊もこれが最後の紅白出場となったのだが、これも12月29日に北島三郎と山本譲二が稲川会の新年会に出席していたことから急遽降板となり、補欠の鳥羽一郎も辞退したことから、前日の12月30日に補欠の補欠で出場が決定した「いわくつき」だった。

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