日テレは実写版『ゴルゴ13』で対抗!? オールスター勢揃いの1979年『紅白歌合戦』! 裏番組の奮闘劇

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巷のワイドショーやインターネットは、飢えたピラニアのように「事件」という生肉へ喰らいつくが、「歴史」という骨までは語りたがらない。そんな芸能ゴシップ&サブカルチャーの「歴史」を、〈元〉批評家でコラムニストの時代観察者が斜め読む!

豪華絢爛! 1979年の『NHK紅白歌合戦』

前回記事ではヒット曲が多数生まれた、1979年の歌謡曲と芸能界について紹介してきたが、そんな芸能界の地殻変動を反映してか、1979年の『第30回NHK紅白歌合戦』は記念大会でありながら、初出場歌手が多かった。

初登場は石野真子、渥美二郎、大橋純子、サザンオールスターズ、金沢明子、さだまさし、金田たつえ、ゴダイゴ、ジュディ・オング、小林幸子で、大橋からジュディ・オングまでは初出場歌手が7人連続で歌う構成になった。

当時の番組構成は前半が若手のポップス系、後半がベテランの演歌、歌謡曲系と完全に分かれていたため、初出場の歌手はほとんど前半にまとめられていた。

なので、28曲目の山口百恵『しなやかに歌って』以降、大トリ(48曲目)の八代亜紀『舟唄』まで、出場回数5回以下は石川さゆり(3回)と小林幸子(初出場)だけで、ほかは全員、演歌系のベテランだった。

演奏時間を5分も越えたら大ブーイング?

その中でさだまさしが歌ったのは大ヒット曲『関白宣言』だったが、7インチアナログレコード盤で5分50秒の曲をフルで歌うのは、当時の『NHK紅白歌合戦』ではご法度だった。

1990年、『第41回NHK紅白歌合戦』に初出場した長渕剛が、ベルリンからの特別中継とはいえ16分で3曲フルで歌う暴挙をやらかし、大ベテラン・植木等の持ち時間を大幅に短縮することになったことから、視聴者からも大顰蹙を買ったのは、現在でも語り草になっているが、この頃は5分超えでも大顰蹙だった。

この年のひばりも特別枠で『ひばりのマドロスさん』『リンゴ追分』『人生一路』の3曲メドレーだったが、昔の歌謡曲はフルでも3分前後で収まるように作られており、メドレー用に編曲すれば、3曲でも5分強へ収めることができたからだ。

もっとも、さだは1977年の『第28回NHK紅白歌合戦』にも出場を打診されていたが、この年の持ち時間はさらに短く、2分30秒だったため、歌える曲がない、という理由で辞退していた。要は三顧の礼で招いたひばりの持ち時間を超えるのが、ご法度だったのだ。

なお、ひばりの3曲目は『人生一路』だが、この曲はかとう哲也の作曲で、NHKへの意趣返しでもあった。

結局、さだの持ち時間問題に悩んだ番組スタッフは、当のひばりにお伺いを立てることになった。

この経緯はさだ自身も何度か語っており、直近では20年の『行列のできる法律事務所』(日本テレビ)でも話している。「ひばりさんが歌詞を読みながら聴いてくださって。『これは削れないわね』って。それでスタッフも『さだくん、全部歌っていいよ!ちょっとテンポ上げて』って言われて」と。

実際には普段より早口にして間奏を省略するなど、5分1秒に収める強引な編曲を行い、無事に放送された。

もっとも、当時の映像を観ると審査員席の若山富三郎、ミヤコ蝶々、菅原文太、大原麗子というドスの利いた面々が次々と結婚式の親族のように映るのでかなり怖いし、サゲのところでは翌年の結婚引退を示唆していた山口百恵をアップで映すあざとい演出もあったのだが。

空前の『NHK紅白歌合戦』出演拒否ブーム到来!?

1970年代から80年代にかけて、吉田拓郎、南こうせつ、アリス、松山千春、井上陽水など、ニューミュージック系の人気歌手の間では「『NHK紅白歌合戦』という番組は国民的ナショナリズムの象徴だから、出場しないことこそが反体制的で格好良い」という風潮があり、ほとんど誰も出場しない空前の出演拒否ブームが続いていた。

前述の長渕剛が16分も歌ったのも、この偉大な先輩たちに強いコンプレックスを抱いていたからで、「先輩たちには絶対できないことをやって勝つ」「先輩たちが反体制を気取るなら、俺はナショナリズムを体現して国民的歌手になる」という逆張りだった。そんな私怨に巻き込まれたスタッフと長渕ファン以外の視聴者はまったく災難としか言いようがなかったのだが。

1979年7月26日19時から翌日朝4時まで62曲を歌った吉田拓郎「アイランド・コンサート In 篠島」の前座で大プーイングに遭ったトラウマを克服するため、さらに長く大規模な「ALL NIGHT LIVE IN 桜島 04.8.21」や「富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015」を実行した長渕だ。良くも悪くも思想は一貫している。

なので、さだまさしが持ち時間の件をクリアするだけで出場してくれたことにNHKは強く感謝していた。

さだは翌1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では映画『二百三高地』の主題歌だった『防人の詩』を歌ったので、いよいよナショナリズムに魂を売ったと批判された。確かに『二百三高地』のヒットから、80年代の邦画は戦争大作映画プームになるのだが、脚本の笠原和夫が戦中派だったこともあり、この作品はむしろ、不条理と死屍累々の厭戦映画だった。

さだもその意図を理解したうえで主題歌を提供していたのだが、団塊の世代=全共闘世代の人気を得るため、教条的に反体制のポーズを取っていた同業者たちと違い、さだと長渕はほんの少しナショナリズムへ寄せることで、幅広い年代層から支持される大衆性を獲得することができた。

さすがに長渕の蛮行は許されず、2003年の第54回で再出場するまでNHK自体出入禁止となったのだが、さだとNHKの関係性は2023年で通算23回となる『NHK紅白歌合戦』出場だけでなく、『今夜も生でさだまさし』、『鶴瓶の家族に乾杯』の番組企画、連続テレビ小説『舞いあがれ!』のナレーションなど、ニューミュージック系歌手の中でも別格扱いの太いパイプを築いている。

なお、この年のトリは熾烈な賞レースを繰り広げた五木ひろしと八代亜紀がそれぞれ『おまえとふたり』『舟唄』を歌い、視聴率は前年の72.2%を上回る77.7%。ニールセン瞬間最高視聴率は、関東地区が78.3%、関西地区が80.8%だった。五木と八代の「五八戦争」は翌1980年の『ふたりの夜明け』『雨の慕情』でピークに達する。

そして、1979年の『NHK紅白歌合戦』は前々回記事で触れた通り、ジャニーズ事務所からの出場歌手がなかった。

1976年まで7年連続出場したフォーリーブスは、1978年8月に解散していた。

フォーリーブスの代表曲と言えば、後年、『ジャニーズカウントダウン』で若手グループの定番カバー曲にもなったゴムベルトアクションの『ブルドッグ』だが、意外なことに紅白では歌っていない。落選した1977年のヒット曲だったからだ。

1979年の白組トップバッターを務めた郷ひろみも1975年、ジャニー喜多川が「十二指腸潰瘍」の病名で入院した隙にバーニングプロダクションへ「強行移籍」していた。あのメリー喜多川も、浜田幸一や北島三郎の用心棒……もとい、運転手を務めていた「ドン」周防郁雄には勝てなかった。

なので、3年連続でジャニーズ事務所からの出場はなかった。

翌1980年の第31回でようやく、『3年B組金八先生』(TBS)で人気となった田原俊彦が出場するのだが、1979年の時点では、川崎麻世が『レッツゴーヤング』(NHK)のサンデーズメンバーとして出演していた程度で、ジャニーズ事務所は冬の時代だったのだ。

欽ちゃん復活! 1979年『NHK紅白歌合戦』の裏番組

裏番組へ目を向けると、ピンク・レディー人気凋落の原因を作った日本テレビは、新宿コマ劇場からの中継で『欽ちゃんの紅白歌合戦をブッ飛ばせ! 第1回全日本仮装大賞・なんかやら仮そう』を放送していた。

タフで芸達者な坂上二郎が『カックラキン大放送!!』(日本テレビ)、『明日の刑事』(TBS)など、ピン仕事が多くなったこともあり、素人いじり路線へ転じた萩本欽一による視聴者参加型番組だった。

これが「大将めっけ」こと萩本欽一最後の冠番組として、現在まで残る『全日本仮装大賞』の第1回なのだが、大晦日の生放送ということで、現在のように家族や仲良しグループによるコント仕立ての仮装は少なかった。

『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)の素人参加コーナーの延長線上で、『新春かくし芸大会』(フジテレビ)の素人版を狙っていたのだろうが、実際、それらの素人参加コーナーで物真似芸を披露していた竹中直人が4組目で登場し、「松田優作のドラキュラ」なる仮装(?)を演じて、番組初の不合格になっていた。

審査員は青島幸男、桐島洋子、富島健夫、鈴木義司、沢たまき、樹れい子、江夏豊、岡田眞澄、青木雨彦、所ジョージ、山本晋也、里中満智子、谷啓という、いかにも井原高忠や斎藤太朗の番組らしい面子なので、合格しそうな気もするのだが、仮装というよりは物真似だし、題材からして欽ちゃん好みの素人っぽさがなかったのだろう。

肝心の視聴率は4.8%で、前年の8.2%からかなり落ちたが、予想とは違った手応えがあったのか、お茶の間向けの視聴者参加型バラエティ番組として企画修正され、1980年5月3日、『土曜スペシャル』枠の19時へ繰り上げた第2回が放送されると一気に人気番組となった。

ところで、広島東洋カープ初の日本一に貢献した江夏豊が『日本レコード大賞』ゲストからの遅れ参加で審査員に入っていたのだが、監督の古葉竹識は『紅白歌合戦』の審査員で、衣笠祥雄、高橋慶彦、木下富雄、萩原康弘といった主力選手たちも何故か「元祖ハンバーグ師匠」菅原洋一の応援要員に駆り出されていたので、江夏はつくづく一匹狼だったんだな、と感慨深いものがあった。

そして、その江夏の前で「広島東洋カープ優勝の瞬間」の仮装(?)を演じた無名の素人はさぞ緊張したことだろう。

歌番組は『NHK紅白歌合戦』だけではない!

TBSは通常編成の『月曜ロードショー』枠で映画『ウエストサイド物語』だったが、フジテレビは『スーパージャム'79〜'80』という音楽特番を組んでいた。

フジテレビとニッポン放送の共同企画で山本コータローが司会を務め、松任谷由実や森山良子のスタジオライヴ、日本青年館での吉田拓郎コンサート、北海道足寄町での松山千春コンサートをリレー生中継するニューミュージック系特番だった。

現在の目で見ても豪華な企画だと思うのだが、視聴率は2.6%と伸び悩んだ。

テレビ朝日は「80年への狙撃!! 紅白だけが祭りじゃない!!」と銘打ち、浅草国際劇場で行われた内田裕也主催の『ロックフェスティバル'79』を中継した。

のちの『ニューイヤーロックフェスティバル』なので、柳ジョージ、桑名正博、ジョー山中、アン・ルイス、宇崎竜童、ジョニー大倉、近田春夫というおなじみの面子だが、視聴率は1.4%。

以後、紅白の裏番組として中継されることはなかったのだが、この年に裏番組として放送されたのには理由がある。

カネボウ化粧品・秋のCMソングとして歌った桑名の『セクシャルバイオレットNo.1』が10月に入って人気爆発、『関白宣言』のオリコン11週連続1位を阻止し、そのまま3週連続1位となったからだ。

10月11日の『ザ・ベストテン』(TBS)ではゴダイゴ『銀河鉄道999』の8週連続1位も阻止していたので、当然、紅白歌合戦にも出場する……かと思いきや、ヒットの時期が遅かったからか、1977年の大規模な芸能界麻薬汚染事件で逮捕され、まだ執行猶予中だった桑名の本物すぎる不良性感度がNHK的にまずかったのか、内田裕也への恩義を優先したのか、結局、一度も紅白に出場することはなかった。

実際問題、この年の紅白のロック系歌手は西城秀樹と沢田研二を除くと、ツイスト(2年連続)、サザンオールスターズ、ゴダイゴなので、ロック系の不良性をかなり警戒していたのが見て取れるし、敷居もかなり高かった。

東京12チャンネル(現・テレビ東京)は『年忘れにっぽんの歌』とワンセットの懐メロ特番『年忘れなつかしの歌声』だが、それでも『日本レコード大賞』との兼ね合いで直接対決を避けていたTBS以外は、ようやく『紅白歌合戦』に対抗する構えを見せ始めた。

その分、手前の『日本レコード大賞』の裏番組は古い名作映画を流して体裁だけ装う、やっぱりどうにもやる気のない編成だったのだが、時間帯が早い分、子ども向けを意識していたのか、名作とも言い難い謎のチョイスになっていた。

日本テレビは19時から通常編成の『ルパン三世』第116話「108つの鐘は鳴ったか」だが、続く映画『地底巨大生物の島 驚異!!地底湖に棲む大恐竜・大海亀・キングゴリラの恐怖!』は、1961年のハリウッド特撮映画『SF巨大生物の島』とはまったく関係なく、ジュール・ヴェルヌの『地底探検』が1976年にスペインで映画化されたものだ。新聞のテレビ欄には(77年伊)と記されていたが。

フジテレビの『ゴジラ対ガイガン』もたいがいだが、テレビ朝日の18時30分からの『ゴルゴ13 九竜の首』は、もはや正気の沙汰とは思えない。一時期、関根勤が千葉真一の大袈裟な物真似シリーズで演じていたが、誰かに怒られたのか、いつの間にか封印されていたアレだ。

というか、千葉真一はさておき、『ゴルゴ13』の時点で子ども向けですらないし、テレビ朝日版『ドラえもん』はこの年の4月から、10分間の帯番組(18時50分)として始まっており、既に人気番組となっていた。

80年代以降の大晦日は1995年以外、現在に至るまで『大みそかだよ!ドラえもん』頼みだったから、それを差し置いてわざわざ『ゴルゴ13』というのは、かなり意外な感じがする。

なお、その唯一の例外だった1995年のテレビ朝日は、日本での放映権を獲得したビートルズの公式ドキュメンタリーTVシリーズ『The Beatles Anthology』を18時から5時間30分一挙放送したが、視聴率は通しで3.3%だった。

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