流行歌の連発で賞レースが荒れに荒れた70年代! 『紅白歌合戦』の視聴率は毎年70%超え!?

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巷のワイドショーやインターネットは、飢えたピラニアのように「事件」という生肉へ喰らいつくが、「歴史」という骨までは語りたがらない。そんな芸能ゴシップ&サブカルチャーの「歴史」を、〈元〉批評家でコラムニストの時代観察者が斜め読む!

1955年の『NHK紅白歌合戦』裏番組は?

前回記事では史上最高視聴率を記録した60年代の『NHK紅白歌合戦』と裏番組について振り返ったが、それ以前……まだ『NHK紅白歌合戦』が怪物番組となる前の1950年代は、民放も積極的に裏特番を仕掛けていた。

初のテレビ放送が行われ、開催日も大晦日に固定された1953年の第4回に続いてテレビ放送を強く意識していた1954年の『第5回NHK紅白歌合戦』は、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「元祖三人娘」……トップアイドル勢揃いで評判となったが、これに対し、1955年4月1日に開局したラジオ東京テレビ(のちのTBSテレビ)は大晦日の20時50分から『オールスター歌合戦』を21時15分開始の『NHK紅白歌合戦』の裏番組として企画した。前述の『オールスター大行進』の前身番組である。

当然、出演歌手の引き抜き合戦となったが、美空ひばりや淡谷のり子を『オールスター歌合戦』に引き抜かれた穴を埋めるべく、NHKはトニー谷や黒柳徹子(当時はNHK専属で、ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』に出演していた)による応援合戦を企画し、それまでにはなかったバラエティ色を導入する。

賑やかな毒舌家である大泉洋や有吉弘行が司会を務める系譜は、この年のトニー谷が十八番のそろばん漫談を披露したことから始まっており、これを奇貨として『NHK紅白歌合戦』が一気に引き離していく。

東京と大阪の笑芸が大きく異なった時代

そのため、後継番組である『オールスター大行進』も、1957年は19時から23時までの放送だったが、重複時間の視聴率が伸び悩んだことから次第に短縮され、1963年は21時までの放送で棲み分ける形になっていた。

その後、紆余曲折を経て70年代前半の大晦日の夜は『日本レコード大賞』と『NHK紅白歌合戦』の2大番組体制となったのだが、エンタテインメントへの価値観が多様化していくにつれ「歌謡番組以外で裏番組を編成すれば良いのでは?」という発想が生まれてくる。

明確にその意思が表れたのは、1975〜1977年の日本テレビ『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』だった。

芸人によるバラエティ番組は開局以来、日本テレビの大きな武器だったが、東京と大阪の笑芸が大きく異なることから、それまでは全国ネットの大型特番を組みづらいという事情があった。

確かに60年代、日曜の18時は大阪の『てなもんや三度笠』(朝日放送)がTBS、18時30分は東京の『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が読売テレビでネットされており、どちらも人気番組だったが、両者は完全に棲み分ける構図になっていた。

なので、このときも19時から『テレビ三面記事 ウィークエンダー』の年末特番である読売テレビの『大晦日スペシャル イヤーエンダー'75』を放送し、俗悪爆笑路線のセット売りで21時から放送された。

萩本欽一と坂上二郎のコント55号は当然、東京の笑芸を代表する存在で、それも浅草の軽演劇出身だったから、公開収録も浅草の松竹演芸場で行われた。

結果、1975年はビデオリサーチ6.4%、ニールセン9.5%と、前年の1.2%から大きく伸ばし、『紅白歌合戦』裏番組の中では最高の視聴率になったが、10%に達することはなかった。

美空ひばり復活! 1979年の『NHK紅白歌合戦』

1979年の『第30回NHK紅白歌合戦』は記念大会と銘打ち、美空ひばりが特別出演で復帰することが話題となった。

歴代最高視聴率を記録した1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』から、ひばりは10年連続でトリを務めてきたが、1973年、弟のかとう哲也が三代目山口組系益田組の舎弟頭となり、逮捕されたことが問題となり、『第24回NHK紅白歌合戦』に落選。以後、NHKとは絶縁状態になっていたからだ。

1973年と言えば、東映の『仁義なき戦い』シリーズが大ヒットした年だが、ヤクザ映画が陰惨な実録路線に転じたのも、1972年のあさま山荘事件で学生運動が沈静化した代わりに暴力団が社会問題となっていたからだ。

そのため、官憲側は社会的影響の強いスターを晒し上げることで、暴力団排斥の風潮を形成しようと考えたのだが、三代目山口組組長・田岡一雄が後見人を務めていた美空ひばりは格好の標的だった。

結局、紅白不出場となった1973年は紅白トリの真裏になる23時から45分間、NET(のちのテレビ朝日)からのスタジオライプで『美空ひばりワンマンショー』を放送し、翌年からの4年間も、大晦日の新宿コマ劇場公演をNETが生中継していた。

しかし、1978年に入ると、4月に『ひるのプレゼント』へ3日間出演し、12月26日には『NHKビッグショー』にも出演するなど、現場レベルでの手打ちはすでに行われていた。

そして、直前に放送された『第21回日本レコード大賞』では、ジュディ・オング『魅せられて』が大賞に輝いていた。

流行歌がいくつも誕生した「1979年」

この年は歴史に残るヒット曲が続出し、賞レースは荒れに荒れていた。

五木ひろし『おまえとふたり』と八代亜紀『舟唄』の「五八戦争」に、小林幸子『おもいで酒』の大ヒット、沢田研二、山口百恵、岩崎宏美、西城秀樹などの賞レース常連なアイドル歌謡曲組、さらにアリス、ゴダイゴ、さだまさし、サザンオールスターズなどのニューミュージック&ロック系が入れ乱れる状況で、女優が本職のジュディ・オングが日本レコード大賞に輝いたのは、本命だった西城秀樹『YOUNG MAN』がヴィレッジ・ピープルのカバーだったため、審査対象から外されたことが大きかった。

年間シングルチャートは渥美二郎『夢追い酒』に次ぐ2位だったが、『夢追い酒』は前年に発売されていたため、やはり審査対象から外されていた。

もっとも、『魅せられて』が巷に知られたのは、ワコールのCMソングとして頻繁にお茶の間に流れていたからで、CMソングの影響力の強さがクローズアップされるきっかけにもなった。CM自体は映画『エーゲ海に捧ぐ』からの映像流用で、イロナ・スターラ(のちのチッチョリーナ)がフロントホックブラに包まれた美乳をアピールするアダルトな内容だったのだが。

荒れた賞レースは『NHK紅白歌合戦』の選考にも影響を与え、和田アキ子とピンク・レディーが落選した。

日本テレビ「出禁」を喰らっていた和田アキ子

和田アキ子は『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)の「ゴッド姉ちゃん」で人気を博していたが、現代で喩えれば松本人志のような愚連隊のボス猿キャラだったことから、本業の歌手活動に支障が出ており、1978年3月に自主降板していた。

その後は裏番組の『翔べ!必殺うらごろし』(朝日放送)に出演しつつ、浜田省吾が作詞・作曲したアーバンな主題歌『愛して』を歌い、1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』でも、2年連続で『北国の春』を歌った千昌夫との対戦で名曲『コーラス・ガール』を歌うなど、歌手としては円熟期に入っていくが、ヒットには繋がらず、自主降板の報復で日本テレビを1980年3月の『西遊記II』のゲスト出演まで完全出禁になるなど、タレントとしては冬の時代に突入していた。

和田が復活するのは、1983年に当時の業界暴露本ブームに乗って出した『和田アキ子だ!文句あっか!』(日本文芸社)が120万部の大ヒットとなり、ボス猿キャラを確信犯的に演じるようになってからで、現在の「芸能界のご意見番」イメージもこの本から始まっている。

とはいえ、41年も経過すると、さすがに威光も減退するようで、1985年スタートの冠番組『アッコにおまかせ!』(TBS)はパリオリンピックでの北口榛花への失言から終了を取り沙汰されているが。

その一方で、和田は10月8日放送の『ワルイコあつまれ』(NHK)の「子ども記者会見」にゲスト登場し、歴代の紅白歌合戦出演映像が流れていたが、実は紅白再出場も1986年の『第37回NHK紅白歌合戦』で、1979年の落選から8年のブランクが空いていた。

紅白の常連歌手だったイメージがある和田だが、歌手としてもっとも脂の乗っていた時期には出場していなかったのだ。

『NHK紅白歌合戦』を出場辞退したら大バッシング!?

ピンク・レディーは1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』を出場辞退し、日テレの裏番組でチャリティー歌謡ショー形式の『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演していた。

日テレは3年続けた『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の1977年度視聴率が6.2%で伸び悩んでいたことから、代わりに人気絶頂だったピンク・レディーを一本釣りしたのだが、『第29回NHK紅白歌合戦』の72.2%に対し、視聴率は8.2%。

善戦ではあったが、引き抜きの代償まで考えると見合わない数字だった。裏番組に出演するために『NHK紅白歌合戦』を出場辞退したことが「前代未聞」だとバッシングされたからだ。

TBSがラジオ東京テレビだった頃の『オールスター歌合戦』で歌手の引き抜き合戦があったように、過去にはいくつも起きていたはずだが、国民的番組となっていたこの時代の『NHK紅白歌合戦』を辞退したことは、かねてから企画していた海外進出も相まって「日本国民への重大な反逆行為」として捉えられた。

つまり、『NHK紅白歌合戦』が国民的ナショナリズムを体現する存在にまでなっていたのだが、そうした風向きを読み違えたピンク・レディーの人気は1979年後半になると凋落し、紅白も落選した。

結局、ピンク・レディーは1980年9月1日に解散を発表する。

1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートはスタンドに空席が目立ち、同じく1978年に後楽園球場で開催され、2日間で約7万人を動員した『’78ジャンピング・サマー・カーニバル』と比べるとかなり寂しいものだった。

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