市中引き回し、ためし斬り、陰茎切り…「江戸時代の刑罰」は「身分」によってどう違っていたか

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江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。

この「犯科帳」を読むと、江戸時代の犯罪者がどんな刑罰を受けていたのがが詳細にわかる。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

「死罪」は、辱めを受けるかどうかの二種類

江戸時代の刑罰は、武士や百姓など、身分によって異なった。もっとも全国一律の体系としての整備にまで至らず、実際には地域差、時期差があったことが知られている。したがって刑罰の序列を正確に示すことはむずかしいが、長崎の場合には以下のような刑罰があった。

まず極刑である死罪だが、市中引き回しの有無、死体が人目に晒される、あるいは様〈ためし〉斬りの材料にされるという辱めを受けるか、それとも牢内での斬首に止まるかで大きく二つに分けられていた。

■磔罪人の両手足を十字に組んで架柱に縛り付けて槍で突き刺し殺す刑で、主〈あるじ〉殺しや関所破りなどの罪状に科された。これに引き回しが付加されることもあった。

■火罪キリシタン弾圧が厳しかった時代には信者への刑として用いられることもあったが、後に放火、もしくは放火未遂に対してこの刑が処されることが一般的だった。

■獄門晒し首。上記の刑では首が獄門台に晒され、引き回しが付加されることもあった。

■死罪庶民に対する斬首刑で、死体は様斬りにされたりした。

以上の刑は、基本的には屋外の刑場で衆人環視の下、執行されることになっていた。そしてこの場合には、田畑、家屋敷、家財が闕所〈けっしょ〉(没収)となった。

このほか、

■斬罪(刎首)斬首だが、死体の様斬りはない。

■下手人(解死人)庶民が斬首にされたが、様斬り、闕所、引き回しを付加されなかったことから他の斬首より軽いものと見なされた。

浅草、品川…江戸時代の刑の執行場所

刑の執行場所は、江戸では浅草と品川にあった。

長崎の場合、磔・獄門が港内の裸島で行われたこともあったが、享保元(1716)年、長崎奉行大岡清相が編纂した『崎陽群談』の「御仕置者之事」には、「一、磔并死罪ハ西坂ニ場所有之候事」とある。すなわち、磔と死罪の執行場所は西坂であった。

しかし安高啓明の整理によると、実際には牢屋などでも行われていた(『近世長崎司法制度の研究』)。例外として、長崎で抜買(密貿易)した日本人が唐人との間の取引であれば唐人屋敷前で、阿蘭陀人との間であれば出島前で磔が行われたこともあった(「前々唐方ニ而抜ケ買仕候者ハ唐人屋敷の前、阿蘭陀方ニ而ぬけ買仕候者ハ出島前ニ而、磔に行ひ候事も有之候」『崎陽群談』)。

追放刑には「重」「中」「軽」の三段階

この時代には追放刑というものがあり、それには重追放・中追放・軽追放の三つの段階があった。

重追放は、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、大和、和泉、肥前、甲斐、駿河、東海道筋、木曽街道筋への立ち入り禁止。中追放は、武蔵、山城、摂津、大和、和泉、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道筋、木曽街道筋、日光街道筋への立ち入り禁止で、重追放と中追放ともにこれ以外の国の居住者の場合には、自身の居住する国を追放され、他国で悪事を働いた場合は当然、その国からも追放された。

また重追放の場合には、田畑、家屋敷、家財の闕所(没収)などが加わることもあった。中追放では田畑屋敷は闕所となったが家財の没収はなかった(「長崎町乙名手控」)。

加えて軽追放があり、江戸一〇里四方、京、大坂、東海道筋、日光道中、日光が立ち入り禁止の対象であった。これは全国の幕領に適用されるものであったので、当然、長崎も含まれた。

この他、長崎から追放される「払」があり、種類として、長崎追払(市中・郷中の払)、長崎一〇里四方払、市中・郷中払があった。

遠島〈えんとう〉(流刑・流罪など)は「公事方御定書」に、「江戸より流罪之ものハ、大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島、右七島之内江遣、京・大坂・西国・中国より流罪之分ハ、薩摩五島之島々・隠岐国・壱岐国・天草郡江遣ス」とあるように、刑の執行場所によって流刑地は異なっていた。日本を東西に分け、江戸町奉行所と大坂町奉行所から遠島地へ送られたのだった。

長崎の場合は、長崎代官であった末次平蔵茂朝が隠岐に流されたことはあるが、通常は五島・壱岐・薩摩などに流されることが多かった。

享保元年の「長崎奉行所にて仕置申付候心得の覚」(『通航一覧』第四巻)によると五島への流罪対象者は、犯罪を未然に防ぐ意図もあってか、生所が長崎で罪を犯してはいないが、長崎に留めることはできず、他国へも出せない者、遠国奉行支配下・御料(幕領)支配下の者で長崎において吟味したものの犯罪が立証されなかったが、生所へ戻すのも問題があるとされた者、流罪の対象であるが軽科の者であった。

流罪のうち重科の者、そして九州・四国・中国筋の船乗りで、死罪にまでは値しないが本国に戻すのが問題である者は壱岐への流罪に処せられた。これには五島が唐船往来の場所であることから、彼らが流罪先でも抜荷など密貿易に関与することを予防する意味があった。

身体を傷つける耳鼻そぎ、陰茎切り、小指切り、入墨といった刑罰も当時はあった。これらは見せしめの効果をねらったものであった。このうち鼻そぎは死なない程度そがれていたという。

清水克行はアイヌ人の現存する古写真から「鼻の梁骨を残して小鼻と鼻頭を切り落とすものであった」ことを参考に日本の中・近世も同様であったと推測している。ただこの刑は「公事方御定書」によって排され、その代わりとして入墨刑が本格的に導入されるに至った(清水克行『耳鼻削ぎの日本史』)。入墨は地域、藩によって場所と形が異なったが、主に腕に行われ、前科者の目印ともなった。

「身分の移動」による刑罰

身分制の社会には、身分の移動に関する刑罰も存在した。非人手下〈ひにんてか〉と奴婢である。

非人手下は、平人から非人へと身分を切り替えられるもので、町から相対で非人手下へ引き渡すこともあった。町からの場合、元文元(1736)年までは町から一人につき五貫文が添えられ、これ以後は一〇貫文となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)356頁)。

奴婢とは、同一犯罪に対して科す刑罰に男女差がほとんど見られなかった時代にあって、例外的に女性のみに科される刑罰であった。奴隷刑であり、乞う者に下し婢となる者や年季なしの女中奉公をする者などがいた。

ほかに地役人であれば役儀放免、商人であれば株の取り上げといったものも行われた。

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