いまや十数名となってしまった「元零戦搭乗員たち」の「生の証言」が映し出す「80年前の現実」

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8月26日に発売された『決定版 零戦最後の証言3は、『決定版 零戦最後の証言1』『決定版 零戦 最後の証言2』と同様、私がこの30年のあいだに直接インタビューを重ねた元零戦搭乗員たちが、戦争をいかに戦い、激動の戦後をいかに生きてきたかを、本人の「証言」と戦中、戦後の写真とともに解き明かしたものである。登場人物は各巻8名で計24名。本シリーズはこれで完結となる。

「俺はまだまだ死なんぞ」

平成11(1999)年、私は『決定版 零戦 最後の証言』シリーズの「原型」とも呼べる『零戦 最後の証言』(光人社)を上梓した。同書は、もとは写真週刊誌の報道カメラマンだった私が、終戦50周年を機に「元零戦搭乗員が振り返る戦中、戦後」をテーマに取材をはじめ、その成果を書籍化したものである。

当事者の戦中、戦後の姿とともに、現代からの目線で戦争体験を回想するスタイルの本はそれまで類書がなく、タイトルの「最後の証言」とともに多くの後追い本が出た。そういう意味では、書籍の一つのジャンルのパイオニアになったと自負している。

ただ、いまだから言えることだが、当時、知恵を振り絞り、練りに練ってつけた『最後の証言』というタイトルは、取材を受けた当事者からはきわめて不評だった。

その頃、元零戦搭乗員は、航空隊の飛行長経験者から訓練中に終戦を迎えた人まで約1000人が存命で、

「『最後』とはなんだ。俺はまだまだ死なんぞ」

と、意気軒高でなおかつ元気な人が大勢いたからだ。

だが、「時間」は戦争より確実に人の命を奪う。1000人いた元零戦搭乗員が、それから四半世紀のときが過ぎたいま、名簿上、わずか10数名を残すのみとなってしまった。令和6年9月現在、存命が確認できている元搭乗員の最年長は107歳、最年少が95歳である。もはや、筋道立った新規の取材は不可能と言っても過言ではない。当事者が私のインタビューに語った言葉が、ほんとうに「最後の証言」になってしまったのだ。

「生きた証」を残したい

四半世紀の歳月はそれ以外のさまざまなことも変えた。

著者である私自身も例外ではない。「戦後50年」で零戦搭乗員の取材を始めた当時、31歳の青年だった私が、いまや還暦を超え、映画がシニア割引きで見られるようになった……のはいいとして、その間にも零戦搭乗員のみならず、さまざまな立場の旧軍人、そして遺族にまで範囲を広げて取材を継続してきたために、歴史上の出来事と出来事がつながって、ものごとがより立体的に見られるようになった。そのぶん、自分が過去に書いた本に物足りなさを感じるようにもなった。その最たるものが、『零戦 最後の証言』である。

だから、この本を書き直し、「決定版」としてふたたび世に出すことは、私の宿願だった。

今回、『決定版 零戦 最後の証言』全三巻を世に出す決心をしたのは、第一線に投入されたうちの8割が戦死したほどの未曾有の激戦を、零戦を駆って戦い抜いた人たちが、この世に「生きた証」を、より完成度の高い形で残したかったことに尽きる。

人がほんとうに死ぬのは、その存在が誰からも忘れ去られたときだ、と思う。来年(令和7年)は戦後80年。帝国海軍が存在した期間(73年)よりもはるかに長い時間が過ぎた。「80年」といえば、人が何かを忘れ去るには十分な時間だ。しかし私は、縁あってインタビューを受けてくれたかつての戦士たちの記憶を、誰かの心のなかに刻むことができれば、という思いでこれらの本を書いた。

今回の三部作は旧『零戦 最後の証言』とは少々文体が違う。そして、新たなエピソードが入っていたりもする。これはその後、さまざまな本を出してきたなかで学んだことと、取材ノートを見返して、四半世紀前の自分が気づかなかったエピソードを再発見したことなどによる。一度本にしているのに、改めてノートを開くと「この人、こんなことも言っていたのか」という新たな発見が少なからずあった。私自身の興味の持ちようも変わってきたのだろう。なのでそこは、著者の成長の跡として見ていただければ幸いである。

意外なものが執筆を後押し

25年といえばほぼ一世代ぶんに相当する時間でもある。当事者(=元零戦搭乗員)の子供世代でさえも高齢化が進み、四半世紀前の親の年代と重なりつつある。

そしていま、読者層も代替わりし、零戦搭乗員をはじめ旧軍人の孫や曾孫にあたる世代で、戦争中を生きた人たちに関心を持つ人が増えてきたという実感がある。じっさい、近年、SNSを通じて、「おじいちゃんのことが知りたい」「曾祖父のことが知りたい」などと、若い親族の方から問い合わせや連絡をもらうことが目立って増えてきた。

「祖父が亡くなったときまだ小さくて話が聞けなかった」「曾祖父は私が生まれる前に亡くなり、写真でしか知らない」「戦死した大叔父の名前があなたの本に出ていたので、わかることを教えてほしい」……。

元零戦搭乗員から体験を聞き、多くを教えられてきた私が、いつの間にか、その話を「近い子孫」である親族に伝える立場になった。だから今回は、従来、戦記の本に慣れ親しんできた世代よりも、当事者の孫、曾孫に語りかけるような書き方を心がけた。

そして、思わぬところで本シリーズ執筆の後押しをしてくれたものがある。

大ヒットして話題にもなったのでご存知の方もいるだろう。2023年9月から24年3月にかけて放送されたテレビアニメ「葬送のフリーレン」。零戦にも海軍にもまったく関係ないファンタジーだが、たまたまネット配信で見始めたこのアニメのストーリーと劇中のセリフ、主題歌の歌詞に、こころのなかで眠りかけていた何かが触発されたのだ。

「葬送のフリーレン」は、1000年以上生きているが見かけは少女のままのエルフの魔法使いフリーレンが、80年前に魔王討伐の旅をともにした勇者ヒンメルの死に直面し、もっと人間を知りたいと願うようになる。そしてかつての仲間が育てた弟子らとともに、ヒンメルたちと旅した道のりを回想しつつ辿り、また人間を脅かす魔族と戦いながら、死者の魂と対話できるとされる最果ての地目指す、という物語である。

記憶を「未来」へつなげる

劇中、「もう80年以上も前になります。人間にとって、何かを忘れ去るには十分すぎる時間です」という、先ほど私が書いたのと同じセリフがあった。また、「記憶は私が未来に連れて行くから」という一節もあった。

――不意に入ってきたそれらの言葉が私の心の琴線に触れた。「80年」という設定が、戦後80年を来年に控えたいま、絶妙にマッチしたこともある。私の胸に、脳裏に、顔も声もありありと残っている元零戦搭乗員たちの記憶を、いま私が未来につなげていかなければ永久に忘れ去られてしまう、あるいは全く別のものにされてしまう、と改めて焦燥に近い危機感を抱いたのだ。

私のほかにも、戦争体験者の記憶を継承する活動をしている知人の何人かが、「葬送のフリーレン」を見て同じような感想をもらしていた。記憶を継承する=人が生きた証を残そうとする思いの普遍性を物語るものなのかもしれない。

『決定版 零戦 最後の証言』全3巻の登場人物24名は、それぞれが私にとって忘れ得ぬ人たちだ。少し長くなるが、各人の概要を紹介しよう。

1巻は、三上一禧、黒澤丈夫、藤田怡與藏、中島三教、岩井勉、中村佳雄、吉田勝義、土方敏夫の各氏。

三上一禧(かつよし)氏は、昭和15(1940)年9月13日、重慶上空で零戦が初めて実戦デビューしたときの13名の搭乗員のうちの1人。今回のシリーズ中唯一存命(107歳)の人である。戦後、教材販売会社を営んだ三上氏は、平成10(1998)年、零戦初空戦のさいに撃墜した中華民国空軍のパイロット・徐華江氏と東京で奇跡的な再会を果たした。

黒澤丈夫氏は、太平洋戦争の開戦劈頭、真珠湾攻撃とともに行われたフィリピンの米軍基地攻撃に参加、連合軍機を圧倒した零戦隊の名指揮官(最終階級少佐)として知られる。戦後は郷里・群馬県上野村の村長となり、昭和60年8月12日、乗員乗客524人を乗せた日航ジャンボ機が村内の御巣鷹の尾根に墜落したさいには、自らの経験を生かして救難活動を支えた。

空飛ぶパイロットたち

藤田怡與藏氏は真珠湾攻撃で初陣を飾り、機動部隊とともに各地を転戦、ミッドウェー海戦では味方の対空砲火に撃墜され海を漂流、九死に一生を得る。その後も激戦地を第一線の指揮官(最終階級少佐)として渡り歩いた。戦後は日本航空に入り、日本人初のジャンボジェット(ボーイング747)機長として世界の空を飛んだ。

中島三教氏は、知る人ぞ知る戦闘機の名パイロットだったが、ガダルカナル島攻撃の途中でエンジン故障のため不時着水し、助けてくれた現地人に売られて米軍の捕虜となった。戦後も長く、捕虜になったことを恥じて表に出ることはなかったが、同年兵の原田要氏の紹介で私のインタビューに応えてくれた。

岩井勉氏は、昭和15年、零戦のデビュー戦に参加、太平洋戦争では空母瑞鳳零戦隊の一員として戦い、昭和19(1944)年10月の比島沖海戦では空母瑞鶴から飛び立った。22機もの敵機を撃墜しながら自らの機体には1発の敵弾も受けなかったその技倆は、教官として受け持った予備学生たちから「ゼロファイター・ゴッド(零戦の神様)」と呼ばれた。

中村佳雄氏は、ガダルカナル島の攻防戦がたけなわだった昭和17(1942)年10月から19年1月にかけ、激戦地ラバウルで戦い続けた。搭乗員の平均寿命3ヵ月と言われた最前線で百数十回にわたって出撃し、何度か重傷を負いながらも戦い抜いた稀有な搭乗員である。

吉田勝義氏は、昭和18(1943)年、オーストラリア上空でイギリスの誇る名機スピットファイアを圧倒。東南アジアから太平洋の広大な戦場で戦った人である。セレベス島で慰問に来た女優の森光子からマスコットをプレゼントされ、その縁で戦後、歌番組で森光子と感動の再会をした。昭和20年8月15日には、玉音放送の直前、関東に来襲した英軍戦闘機を撃墜している。知られざる歴戦の搭乗員だった。

土方敏夫氏は、師範学校を卒業して海軍予備学生を志願。零戦搭乗員となり、大戦末期の沖縄戦、九州上空の邀撃戦で獅子奮迅の戦いをした。海軍兵学校や予科練出身の、いわゆるプロの軍人とは一味違う、学窓から海軍に身を投じた予備士官としての誇りを感じさせる人だった。戦後は成蹊学園中学、高校の教頭となり、故安倍晋三元総理の恩師でもある。

戦後の生き方は人それぞれ

2巻は、進藤三郎、日高盛康、羽切松雄、角田和男、原田要、小町定、大原亮治、山田良市の各氏。

進藤三郎氏は、昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦の指揮官で、真珠湾攻撃でも空母赤城戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊(零戦隊)を率いた。戦記に必ず名前が出てくる著名な指揮官(最終階級少佐)ながら、本人は心を許した相手以外、戦争の話をすることを最後まで好まなかった。

日高盛康氏も、取材に応じないことで有名な指揮官だった(最終階級少佐)。昭和17年10月26日、日米の機動部隊が激突した南太平洋海戦での日高大尉の決断―攻撃隊の直掩任務を放棄して、味方艦隊の攻撃に向かう敵機に戦いを挑んだ―は、戦場で指揮官が直面した究極の場面での決断として、戦後、航空自衛隊の幹部教育にも取り入れられるほどの教訓を残した。

羽切松雄氏は、日本海軍の名パイロットの1人として知られた存在だった。中国・成都で敵飛行場に着陸、地上の敵機に放火するなどの破天荒なふるまいと、テストパイロットとしての緻密な頭脳と技倆。空戦で二度、重傷を負うが、戦後、役所からの傷痍軍人恩給申請の勧めを、この通り体は動くから要りません、と断ったという。

角田和男氏は、ソロモン、硫黄島、フィリピンの激戦を戦い抜き、フィリピンでは特攻隊員に組み込まれ最後まで特攻隊の戦果確認、直掩機として出撃を続けた。「誰よりも戦った搭乗員」として、搭乗員仲間からも一目置かれる存在だった。戦後は開拓農家となるが、自分の生活は二の次にしてまで戦没者の慰霊行脚に生涯を捧げた。

地獄を潜り抜けた選りすぐりのパイロット

原田要氏は、真珠湾作戦以来、機動部隊で各地を転戦。ミッドウェー海戦では母艦を失い海面を漂流、ガダルカナル島では敵戦闘機と相打ちになって椰子林に不時着、重傷を負い、九死に一生を得た。戦後は幼稚園を経営、幼児教育に後半生を捧げた。

小町定氏は、機動部隊で珊瑚海海戦をはじめ主要な海戦に参加、さらにラバウル、トラック島での激戦を戦い抜く。昭和20年8月18日、日本海軍最後の空戦で、米軍爆撃機に有効弾を与えた。戦後は釘の行商から身を起こし、蒲田駅前でビルのオーナーになる。「零戦搭乗員会」の事務局は、長く小町氏のビルに置かれていた。

大原亮治氏は、戦死率8割のラバウルで1年以上にわたって戦い、内地帰還後は横須賀海軍航空隊で各種テスト飛行に任じつつ、本土上空の邀撃戦にも参加した。戦後は海上自衛隊から航空振興財団。操縦技量は「天才的」と言われ、自衛隊では「教官を教える教官」スタンダード・パイロットの資格を持っていたという。いかにも戦闘機乗りらしい精悍な人だった。

山田良市氏は、紫電改で編成された第三四三海軍航空隊戦闘第七〇一飛行隊分隊長。戦後は航空幕僚長となる。昭和39(1964)年の東京オリンピックのさいは、国立競技場上空で五輪の輪を描くブルーインパルスの地上指揮官をつとめた。

部下を率いて戦った者たち

3巻は志賀淑雄、鈴木實、田中國義、佐々木原正夫、渡辺秀夫、宮崎勇、長田利平、笠井智一の各氏。

志賀淑雄氏は、真珠湾攻撃やアリューシャン作戦、南太平洋海戦で零戦隊を率い(最終階級少佐)、その後は空技廠飛行実験部で紫電改や烈風など、新型機のテストに任じた。紫電改の第三四三海軍航空隊飛行長として終戦を迎える。「戦果は部下の手柄、失敗は自分の責任」を貫き、戦後も旧部下からの敬愛を集めていた。

鈴木實氏は、中華民国空軍やオーストラリア空軍を相手につねに一方的な勝利を収め続けた零戦隊指揮官(最終階級中佐)。戦後は全く畑違いのレコード業界に身を投じ、日本人歌手を世に出すのみならず、カーペンターズやローリング・ストーンズなど多くの海外アーティストを日本に紹介、ヒットさせ、洋楽ブームの「仕掛け人」となった。

田中国義氏は、難攻不落を誇った米軍のボーイングB-17を2機同時に撃墜するなど、卓越した技倆をもつ戦闘機乗りだった。前述の志賀淑雄氏は、田中氏を「海軍最高の戦闘機搭乗員」と評している。戦後は自動車板金工場を営む。

佐々木原正夫氏は、真珠湾作戦以来、機動部隊の主要海戦に参加。射撃の名手で、特に零戦が苦手とする側方からの長距離射撃で撃墜を重ねた。予科練同期の戦闘機搭乗員21名のうち19名が戦没している。戦後は森永製菓に勤務。

渡辺秀夫氏は、士官搭乗員が相次いで戦死するラバウルで、下士官ながら零戦隊を率いて戦った。米戦闘機との空戦で被弾、顔半面を吹き飛ばされる重傷を負うも基地に帰還、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将より「武功抜群」と墨書された白鞘の日本刀を授与された。

命を懸けて戦った若者が遺した「想い」

宮崎勇氏は、水兵として練習艦に乗り組み、ヨーロッパに行くなどの貴重な体験をしたのち戦闘機搭乗員になり、ラバウル、マーシャル、硫黄島、フィリピンと激戦地を転戦。多数の敵機を撃墜するが、あるときを境に「空戦が怖くなった」と述懐する。

長田利平氏は、特攻を志願しなかったのにもかかわらず特攻隊に組み入れられ、4度出撃するも敵艦と遭遇することなく奇跡的に生還した。終戦時19歳。戦後は神奈川県警刑事。

笠井智一氏は大戦末期、訓練不十分なまま実戦部隊に配属され、海軍有数の「撃墜王」杉田庄一上飛曹や菅野直大尉とともに戦う。第三四三海軍航空隊では紫電改を駆って戦果を挙げるが、杉田上飛曹の最期をまのあたりにした。終戦時19歳。

――このシリーズが完結したことで、私のなかでは一つの区切りをつけることができた。だが、肩の荷が降りたわけではない。頁数の都合で収載できなかった人がいるし、私の取材ノートと2000時間におよぶ録音テープのなかには、優にあと数冊分の戦争体験者の「証言」が残っている。完結させたことでむしろ、やり残した仕事のテーマが浮き彫りになったように思う。

終戦時生存し、日本復興の礎になった海軍戦闘機搭乗員は3906名。そして彼らの人生の向こうには、不幸にして、戦後の日本を見ることなく戦火に散った4330名の戦没搭乗員がいた。

戦争を語るとき、「無名戦士」という言葉がよく使われるが、これは英語の「Unknown Soldiers」(知られざる兵士たち)の誤訳である。じっさいには「無名戦士」など一人もいない。皆、名前があり、それぞれの人生があり、守るべき家族や生活があった。本書の登場人物の「証言」から、そんな「命の重み」にも思いを馳せていただけたら幸いである。

80年前、欲も得もなく、ただ大切なものを守るためと信じ、大空で生命を賭して戦った若者たちが確かに存在した。このことを、次代を担う世代にこそ知ってほしい。――彼らの記憶を未来にまで繋いでいくために。

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!