純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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株価が上がった、下がった、とは、どういうことか。食品や家電のような消費財の値上がり、値下がりとどう違うのか。経済学の初歩では、需給曲線で、一括して説明してしまうが、これはかえって誤解を招きやすい。というのも、有限財の価格は、その財貨の直接有用性の多少を表示せず、所有権移転に伴って買い手側が負担する社会的コストにすぎないからだ。

株は有限財だ。単純化して、百区画の新興住宅地のようなものをモデルに考えてみよう。不動産会社が開発し、発売と同時に全区画が1000万円で売れた。しかし、後から聞いて、1100万円でも欲しいという外の人も出て来る。このとき、中に、それなら譲ってもいい、という人がいれば、売買成立だ。

ここで第一に重要なのは、価格ができる、ということは、じつは、つねに、その価格なら高いと思う中の人と、その価格なら安いと思う外の人の両方がいる、ということ。みんながみんな、もっと上がる、と思っていたら、中の人で売る人はおらず、売買は成立しない。

そして、第二に重要なこと。最初に買った人たちが払った1000万円百区画、10億円は、売った不動産会社が持って出ていったので、住宅地の中には一銭も残っていない、ということ。同様に、その後に、外の人が1100万円で買ったとしても、その1100万円は売った中の人が持って出ていってしまうので、やはり住宅地の中には一銭も残らない。つまり、価格がいくらであれ、住宅地の中にカネは無い。それでいて、住宅地そのものの直接有用性は、価格が上がっても下がっても変わらない。つまり、価格は、その所有権交代のために、それだけのカネを費やした外の人がいた、というだけのこと。

また、いずれにせよ、買った人は、それだけの価値があると思ったから買ったわけで、ふつうは、それより上がらないかぎり、売らない。それゆえ、売買が成立せず、価格も付かない。このために、有限財の価格は、基本的には上がっていくに決まっている。しかし、ときに、離婚したとか、ローンが払えないとかで、買った価格より下げても売りたい、という中の人が出て来ることがある。こんなとき、これをお買い得と思う外の人がいれば、売買が成立する。

だが、ひょっとすると、その下がった価格でも、それでほしいと思ってカネを準備できる外の人がいないかもしれない。この場合、中の人はみな、それでは安すぎる、と思っており、それゆえ、中の人でカネに余裕のある人が、いずれ転売するつもりで、もう一区画を買い増すだろう。こうして、ふつう、価格は、すぐに元のところまで回復する。

とはいえ、広く浅く、売りたい人、買いたい人が、どちらにも偏らず多様にいてこそ、健全に市場は流動性を確保して安定する。外に買いたい人がいないのに、価値があると思いこんでいる中の人が買い増しているだけだと、価格は維持されるが、目に見えないかたちで市場の流動性は失われていっている。これは、価格が維持されても、じつはその財貨の価値を低減し、保有リスクを増大していっている、ということだ。

それゆえ、第三に重要なこと。価格は、財貨の価値(直接有用性)とは関係が無く、過去の売買費用、所有権交代の社会コストにすぎず、したがって、あしたの売買も保証しない、ということ。価格がいくらであれ、外からカネを持って買いに来る人がいるとはかぎらない。また、いかに安くても、だれかその所有権交代の社会コストをカネとして実際に準備できるか、が問われる。現金を持っていればともかく、ほかから資金を調達してくるとなると、時間差を生じ、その間に暴落する危険性がある。

高度経済成長期、団塊の世代に向けて、日本中で住宅地が開発された。バブル期には、山奥の崖地までが別荘地として売り出された。彼らは、これを「資産」だと思った。しかし、そんな人里離れた住宅地や別荘地は、維持費ばかりがかかり、買い手もつかず、無人の廃屋だらけになって、いよいよみんな逃げ出して、山野に戻っていってしまっている。そして、その同じ愚を、いま、そのジュニア世代が株で繰り返している。