出産という新たな命が芽吹くときに知った、自分へのステージ4のがん宣告。生まれる命と死に向かう恐怖に立ち向かった経験をもつ海野優子さんに話を聞きました。(全3回中の2回)

【写真】「嬉しすぎるし泣けてくる」出産後、離れ離れだった赤ちゃんと対面したときの1枚 ほか(全12枚)

出産と同時にがんが発覚「絶望の中で…」

海野優子さんとご家族

── 34歳のときに、出産と同時にがんが発覚したそうですね。当時の状況を教えていただけますか?

海野さん:妊娠が判明した当時は、メルカリに転職してまだ間もない時期でした。“産んだらすぐ帰ってきます!”と宣言し、産休に入ったのですが、その前後から、どんどん足腰が痛くなり、歩くことすらできなくなってしまったんです。起きていても、横になってもつらい。あまりの痛みに夜も眠れないほどでした。お医者さんには、妊娠による骨盤への負担により、ヘルニアを併発しているかもしれないと言われ、そういうこともあるのかなと思っていました。ただ、妊娠中なので、レントゲンが撮れず、痛み止めも打てない。結局、原因がわからないまま、出産を迎えました。

── 大変な妊婦生活だったのですね。移動に車いすや松葉づえを使うほどだったとか。

海野さん:そうでしたね。出産では分娩台に上がれる状態ではなかったので、予定していた無痛分娩をやめて、帝王切開で産みました。その際に「左腹部に腫瘍のようなものがあったので詳しく調べたほうがいい」と言われて。でも、“取れば済むだろう”と、さほど深刻に受け止めていなかったんです。

ところが、検査の結果、告げられたのは悪性腫瘍。しかも、どこからがんが発症したのか特定できない「原発不明の後腹膜悪性腫瘍がん」で足の痛みは、がん細胞による神経圧迫が原因でした。希少ながんなので、効果的な治療法もよくわからない。しかも、すでに背骨に浸潤していて、手術で取ることができず、手の施しようがない状態。ステージ4相当の末期がんだと宣告され、頭が真っ白になりました。

生まれた病院にて娘さんと。「お母さんなのに、身近でお世話ができないことがつらかった」

── 本来なら、出産で幸せの絶頂のはずが、がんの宣告とは…。それまで、足腰の痛み以外に、体に異変はあったのでしょうか?

海野さん:いえ、足腰痛み以外は、どこも変わったところはなかったんです。がんを宣告されたときは、“私はこの子の未来を見ることができないんだ”と絶望感でいっぱい。4年前に父をがんで亡くしていたので、その怖さも知っていました。産後は、弱い鎮痛剤で体をなんとかごまかしながら授乳をしていたのですが、だんだん痛みがひどくなって耐えきれなくなり、1か月で断念。やはり授乳というのは、お母さんにしかできない初めてのイベントですし、子どもとの絆が感じられる特別な時間ですから、なかなか諦めることができなかったんです。

そんな私の背中を押してくれたのは、夫でした。がんに関する文献を読み漁り、最新治療を調べ上げて、“少しでも生きられる可能性があるなら、やれることは全部やろう”と励ましてくれました。お医者さんからも、“きちんと鎮痛剤を使って痛みをやわらげ、気持ち的に負けないようにすることも、がんと闘うには大事なことだから”と言われ、治療に向き合うことを決意しました。その後は、抗がん剤、放射線治療、最新の免疫治療と、さまざまな治療を試みました。

絶望しながら生きるモチベーションを保てた理由

── しばらく、周りの誰にも病気のことを明かさなかったそうですね。

海野さん:母親以外には、1年間、誰にも言えませんでした。じつは夫の両親にもどうしても伝える気になれず、私からはいっさい話していないんです。

── どういう思いがあったのでしょうか?

海野さん:“どうせ死んでしまうのだから言ってもしかたない”と思っていたんです。“未来がない自分が何を話しても意味がない“と感じていて、誰にも会いたくないし、病気のことも言いたくない。SNSもその時期はいっさいやめていました。いま振り返ると、“死ぬかもしれない“と口にすることで、それが現実になってしまうのが怖かったのでしょうね。死が目の前に迫っていることを認めたくなかったから、その事実をできるだけ遠ざけたくて、全力で見ないフリをしていたんだと思うんです。ですから、エンディングノートをつけたり、“死ぬまでにあれをやっておこう”といった終活の発想には、まったくならなかったですね。

闘病中、夫の存在が大きな支えに。「夫が希望を見出してくれたから乗りきれました」

── 闘病中、何をモチベーションにされていたのでしょうか。

海野さん:末期がんを宣告され、“自分には未来がない”と思いながらも、じつは、死ぬことを100%受け入れたタイミングは一度もありませんでした。ずっとどこかで、「もしかしたら“ワンチャン”あるんじゃね?」と思い続けていた気がします。

大きかったのは、やはり夫の存在です。彼は会社を経営していて、かなり忙しかったのですが、私の治療を最優先に考えて行動し、前向きな言葉をかけ続けてくれました。こんなに頼りがいがあって献身的に支えてくれる夫が力を尽くしてくれているのだから、もしかしたら一発逆転あるかもしれない。それを信じ、生き残る可能性に賭けたんです。

治療に耐えられたのは「夫の献身とユーモア」

── 夫の献身的な支えが大きな力になったのですね。

海野さん:「ほぼ助からない」とお医者さんに言われ、極度の精神状態のなかで過酷な治療に耐えられたのは、彼が諦めずにいてくれたからだと思います。ひとりだったら、途中で心が折れて、闘えなかったかもしれません。

神経が腫瘍に圧迫されたことで歩けなくなり、落ち込む私に、「来年にはきっと歩けるようになっているから、ここに旅行しよう」と提案してきたり、抗がん剤の影響で髪の毛がごっそりと抜けてしまったときも、昔、坊主頭にしていたタレントのICONIQさんになぞらって、私を「YUKONIC」と呼んで「かわいいじゃん!」と明るく接してくれたり。食事の気力をなくしていた時期には、大好物のスイカを持ってお見舞いに通ってくれました。前向きな言葉をかけ続けてくれたことで、希望を見出すことができたんです。

── そのおかげで「一発逆転あるかもしれない」と前を向くことができたのですね。

海野さん:もともと私は自分にとって都合のいいほうに思考が向くタイプ。娘もまだ0歳でしたし、お母さんの思い出も何もないまま、いなくなるのは忍びない。もしもこの先、自分の生きがいだった仕事を手放すことになったとしても、家族と過ごすことができれば、もうそれでいいやと。そこから、私の人生の最優先事項は「生き延びること」になりました。

── その後、奇跡的な回復を遂げられました。

海野さん:過酷な状況を脱した後も薬の副作用で腸閉塞になるなど、つらい経験をしましたが、1年近く経ったころから、だんだん治療がうまくいき始め、“もしかしたら助かるかもしれない”という一筋の光が見えてきたんです。そこから、仕事への復帰を考えるようになりました。病気のことを周りに報告したのもその頃です。これまでの経緯を、友人や仕事関係の人たちにひとりずつ話すのは大変なので、ウェブサイトのnoteに綴って報告したのですが、思った以上に反響が大きく、いろんな方からたくさんの励ましの言葉やサポートをいただいて、本当にありがたかったです。そして、治療から1年後の2019年9月に、念願の仕事復帰を果たすことができました。

末期がんを宣告され、死の淵にいた私が、こうして再び働けるようになったのは、まさに奇跡だと思っています。手放したものは多かったけれど、自分の人生にとって、本当に大切なものがクリアになりました。それは、家族と一緒にいられる時間、そしてワクワクする仕事。ある意味、病気になり、自分の人生と本気で向き合うことになったからこそ、気づくことができたのだろうと思うんです。

PROFILE 海野優子さん

うみの・ゆうこ。1984年生まれ。理系の大学を卒業後、IT企業に就職。ザッパラスで女性向けウェブメディア「ウートピ」を立ち上げた後、メルカリに転職。2018年、34歳で出産直後、末期の原発不明がんが見つかる。治療の過程で車いす生活に。2023年より、福祉実験カンパニー・ヘラルボニーで働く。

取材・文/西尾英子 画像提供/海野優子