静かなる支配〜戦争が奪った未来/永嶋 泰子
家族がスパイ?!
想像できるでしょうか。
自分が思ったことを、たとえ家族にも言えない現実を。誰もみないであろうノートに思ったことを書くことすら、命懸け。誰にも本音を話すことのできない社会を。
「まさか、そんなことあるわけないでしょ」と思いますよね?
私も、そう思っていたのでした。
恐怖政治の実態〜ルーマニア
しかし、いまから35年前のルーマニアでは、確かに現実として「本音」を家族にすら言えない時代があったのです。
35年前(1989年)は東西冷戦。
ルーマニアは旧ソ連の衛星国として、共産主義政権が国を牛耳っていました。厳密には、チャウシェスクという独裁者がルーマニアを支配していたのです。
彼は、巧みな外交で共産国でありながら西側諸国を味方につけ、国内では諜報員制度を使って国民を監視させ、家族でさえも信頼できない社会を築き上げました。
まさに恐怖政治。
その後、東欧諸国で自由化を求める流れがおき、ルーマニアの独裁政治は四半世紀で終止符を打ちました。
その後、自由を手にしたルーマニア国民は幸せになったのか、といえばそうではなかったようです。
ハッピーエンドにならない革命
何より、諜報員制度によって家族関係すらもズタズタに引き裂かれた中で多くの人が身も心も傷を負ったのでした。
小説『モノクロの街の夜明けに(原題は『君を裏切らなくてはならない』)』には当時のことが詳しく書いてあります。フィクションではありますが、著者のルータ・セベティスは綿密な取材を経て、17歳の少年がスパイとなったプロセスを描いています。
特に衝撃的だったのは、彼女が小説を書くにあたって取材に応じた一般市民の人が「名前を出さないでほしい」と言ったということでした。
取材は、革命から四半世紀経ってから行われたはずにもかかわらず。
四半世紀を超えてもなお、当時のことを語るにはあまりにも重すぎる十字架を背負っている人々がいる。
この現実に、私は愕然としました。
「自由」を失うということ、そして人と人との信頼を引き裂くという行為に時効はなかったのです。
現実を生きるということは、時に想像を絶した闇に直面するということなのかもしれません。
そして、この日本で自由に想いを発することができるのはどれほど幸せなことなのだろうか、と私は思うのです。
自由は空気のように見えずに、当たり前に存在しています。
けれども、全く当たり前ではなかったことが、たった35年前のルーマニアでも起きており、さらには80年前の日本でも起こっています。
戦争が奪った若き芸術家たちの夢
そう、第二次世界大戦です。
国民は、戦争には勝ち続けていると信じ込まされ続けて、全く勝ち目のない戦争に突き進んでいきました。
さらに、「お国のため」という大義名分のもとに亡くなっていった若い男性たち。
本当は、戦争ではなく自分の好きなことをして生きたかったはず。
学校も行きたかっただろうし、お腹いっぱいご飯を食べたいと思っていたと思います。
それでも、「お国のため」という大義名分に押しつぶされそうになりながらも、懸命に命をかけていった男性たち。
そうした男性たちの中で、特攻隊員として出撃しなければならなかった戦没画学生の絵の展覧会に行ったことがありました。
大学への進学率が著しく低かった時代に、彼らは大学で絵を学ぶことができるエリートでした。
しかし、「お国のため」に命を国に渡さなければならなかった彼ら。
彼らの絵は、差し障りのない風景画や穏やかな日常を描いているものでした。
絵だけを見れば、戦争に翻弄される運命にある人とは思えませんでした。
ただ一つ、色彩が暗いということを除いては。
もしかしたら物資が足りずに明るい色を使うことができなかったのかもしれません。
しかし、街中の至るところの看板でさえもカラフルに彩られている現代からすれば、違和感を抱くには十分なものでした。
本当はもっと絵を描きたかっただろうに。
誰にも言えない将来の夢もあったはず。
平和だったら、もっとたくさん絵の具を使って、もっともっとたくさんたくさん絵を描きたかったはず。
絵を見ながら、涙が止まりませんでした。
「なんで、罪のない若い人が命を奪われなければならないんだろう」「なんで、絵を描きたいという小さな夢すらも絶たれなければならないんだろう」
当時は、国家権力がそれを許さなかったのです。
そして、他人事として片付けられるのだろうか、と思うのです。
戦前と現代の日本に共通する自由の喪失
確かにいまの日本は憲法で「言論の自由」は保障されています。
しかし、一方で「閉塞感」や「生きづらさ」を感じる人が増えているのは、奇妙ではありませんか。
いまの日本は「あるべき姿」が一つに定型化されていて、それから外れることをよしとしないような、大っぴらには言わないけれども、自由が少しずつ失われているような気がするのです。
人間は本来は千差万別な存在です。
一人一人、顔が違うように、一人一人持っている性質も異なっています。
それを定型の「あるべき姿」に固定化したがっているように、私には映るのです。
自由というのは、先人の方々が獲得してくれた権利です。
その裏には、多くの犠牲があったことを私たちは忘れてはいけないし、そして次世代に繋いでいく必要があリます。
個性を尊重する社会へ
自由は空気のように見えない。
けれども、空気がなくなったら呼吸できずに死んでしまうのと同じで、自由がなくなってしまえば、人の心も死んでしまいます。
そして、たった80年前に我が国で起こった、命を差し出させるだけの無意味な戦争を引き起こしかねないとすら思うのです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
何かの参考になれば幸いです。
▼参考図書
『モノクロの街の夜明けに』
ルータ・セペティス作・野沢 佳織 訳
https://www.iwanami.co.jp/book/b631506.html