清濁併せのむ人柄で人気を博した田中角栄氏

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 法律的に問題があるのは間違いない。しかし田中角栄元首相と「カネ」にまつわるエピソードは、昨今の「政治とカネ」関連のそれとはまったく異なる。振り返って語る当事者たちもどこか大政治家を懐かしむトーンが強い。渡した金額以上に相手を魅了した角栄流の「札束の配り方」はどこが違うのだろうか。

【写真を見る】大いなる野望を胸に秘めていた「若き日の田中角栄」

 貴重な証言の数々を聞いてみよう。

【前後編記事の後編】前編「逮捕から48年、田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は『俺が運んだのは1億円』」では、実際に1億円を運んだ人物による貴重なエピソードを紹介している。

「受け取ってくれてありがとう」

 角栄は自身はもとより、使いの者が札束を渡す時の言葉遣いや物腰にも徹底的に気を使っていた。

清濁併せのむ人柄で人気を博した田中角栄氏

 かつて“田中派七奉行”の一人に数えられた渡部恒三元衆議院副議長によれば、

「オヤジは“間違ってもくれてやるというような態度は見せるな。金というのは受け取る方が一番辛いし、切ないんだ”と繰り返し言っていた。だから俺はいつも“オヤジの金を受け取ってくれてありがとう”っていう気持ちで渡していたよ」

 一方、実際に角栄から金を受け取った経験を持つ福田派の元代議士秘書は、いまも当時のやりとりが忘れられないと振り返る。

「角さんがロッキード事件で逮捕されてから4度目となる、昭和58年12月の総選挙を控えて、私は福田派の事務所に選挙資金を受け取りに行きました。すると、電話中だった福田(赳夫)先生の秘書は私を一瞥するだけで電話を切ろうともせず、“ほれ、持ってけ”と言わんばかりに片手で茶封筒を突き出してきた。封筒には100万円が入っていましたが、あの時は“ふざけるなこの野郎!”と本当に腹が立ちました」

使いの者が札束を渡す時の言葉遣いや物腰にも徹底的に気を使っていたという

 対照的だったのが、角栄事務所の対応である。

「人づてに角さんに資金パーティーへの出席をお願いすると、すぐに秘書があいさつに見えました。“この度はおめでとうございます”と頭を下げ、50万円が入った熨斗(のし)袋まで持参してくれました。その上、“うちのオヤジは何を喋ればいいでしょうか。先生はどんなことを話してほしいとお考えでしょうか”と、微に入り細にわたってこちらの要望を聞いてくれたのです」

 その後、詳細なメモを片手に事務所を辞した角栄の秘書を見送った途端、複雑な感情に襲われたという。

「福田先生は派閥の長ではありますが、金の渡し方はまるで施しでもするようでした。ところが角さんは、わざわざ秘書を出向かせた上、スピーチの内容まで気にかけてくれました。頂いた額こそ福田先生の半分でしたが、ありがたみは何十倍にも感じましたね」

100万円が必要なら300万円渡す

 単に金を渡すだけでなく、相手に親身に寄り添うことで、角栄は何倍もの費用対効果を得ていたことになる。しかも、角栄はこうした配り方を党派や派閥に関係なく、あらゆる人々に行っていた。改めて渡部氏が言う。

「オヤジのもとには、子飼いの新聞記者や田中派の秘書軍団などを通じて、与野党議員の女性スキャンダルや金銭トラブルなどの情報が入って来た。だから、“あの議員が愛人に脅されている”なんて話を聞くと、オヤジは向こうから助けを求めてくる前に渡しに行く。党派も派閥も関係ない。あるのは“困っているなら力になるよ”という気持ちだけ。国会でオヤジを金権だの何だのと批判していた野党の大物のところに持って行ったこともある。解決に100万円が必要なら300万円、300万円が必要なら500万円という具合に、いつも多めに渡すのもオヤジの流儀だったな」

 分け隔てをしないのは、幹事長時代に配った選挙の際の裏金も同様だった。30年以上にわたって自民党幹事長室長を務めた、奥島貞雄氏の証言。

「あの当時、角さんはまだ佐藤派の所属でしたが、ライバルの福田派や三木派、中曽根派が推した候補者にも渡していました。苦しい選挙戦の最中だけに、こうした“実弾”はどの議員も助かったはず。でも、こういう気遣いができた方は、私が仕えた22人の幹事長の中で、後にも先にも角さんだけでしたね」

 派閥や政党にこだわらず、札束を配りまくった角栄には、どんな狙いがあったのか。30年以上前に角栄の番記者を務めた新潟日報社の小田敏三社長(66)は、次のようにその意図を推し測る。

「角さんは常々“味方は2人でいい。広大なる中間地帯を作れ。敵は1人でも少なくしろ”と言っていました。その意味は“人は何か事を為そうとする時ほど、味方を増やそうとする。ところが、そういう奴に限って敵も増やす”というものです。日頃から、少しでも自分に好意を持つ中間層を増やしておくことが大事だと言いたかったのでしょう。与野党を問わず金を介した“お付き合い”をしたのは、そういう意識があったからではないでしょうか」

 角栄に限らず、永田町で最高権力者の座を目指す議員にとっては、同じ党の同僚とて、決して「味方」とは言い切れない。ましてや、角栄が生きた当時は「三角大福中」と、角栄率いる田中派をはじめ、三木派、大平派、福田派、中曽根派などの各派閥が死闘を繰り広げた時代である。

「角さんの金は負担にならない」

 昭和51年(76年)7月にロッキード事件で角栄が逮捕・起訴された後も、一貫して角栄の無罪を主張した石井一元自治相(81)は、こうして角栄が醸成した“中間地帯”の賜物を目の当たりにしたことがある。

「オヤジの逮捕後に行われた昭和54年の総選挙の後、衆議院の議院運営委員だった私は本会議場のオヤジの席を替えようと思い立った。すでに離党していた関係で、オヤジの席は議長席から見て左手の最前列に近い場所。本来、そこは無所属の陣笠議員らが座る場所だったから、そんなところに総理経験者のオヤジを座らせておくのは余りに忍びなかったんだ」

 当時の議運のメンバーは11人。亀岡高夫委員長(故人)以下、6人が自民党で社会党が2人。残りは公明党、民社党、共産党の各1人だった。

「亀岡さんは“そんな難しいことができるのか?”と懐疑的でした。ところが、野党の理事たちは私の意図をすんなり理解してくれた。誰一人として“党本部に持ち帰る”なんて面倒なことは言い出さない。いま思えば、野党の理事たちもオヤジと何らかの付き合いがあったんだろうな」

 彼らと角栄にどんな関係があったのか、もはやその有無も含めて知る術もないが、政治評論家の小林吉弥氏は次のように指摘する。

「政界では“角さんの金は負担にならない”と評判でした。それは、とにかく角さんは口が堅く、札束を渡した相手については一度も口外することがなかったから。金のやりとりは当事者双方が黙っている限り、外に漏れることはありません。国会議員は殊更に評判や外聞を気にする人気商売。角さんは、そういう議員の心理を熟知していたのです」

 秘密の共有は、時に人間関係を強固なものにする。札束を配る機会とは無縁の我ら庶民だが、その行為を「田中角栄」というフィルターを通してのぞいてみれば、自ずと学ぶべき点が見えてくるのである。

 前編「逮捕から48年、田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は『俺が運んだのは1億円』」では、札束の角を丸めるという角栄流の細かい気配りの秘密にも迫っている。

(本記事は、「週刊新潮」別冊 創刊60周年記念/2016年8月23日号に掲載された内容を転載したものをもとにしています)

デイリー新潮編集部