この記事をまとめると

■空いている駐車場だと気になる「トナラー」だが混んでいる駐車場では気にならない

■人間には必要とされる「公衆距離」がありこれは状況や関係性によって変わる

■トナラーを嫌う心理には人間のパーソナルスペースの広さが可変式なことが影響している

「トナラー」に不快感を覚える理由

 ガラガラあるいは比較的空いている状態の駐車場であるにもかかわらず、なぜか自車のすぐ隣にクルマを停める、俗に「トナラー」と呼ばれている人々。その存在を不快に感じているドライバーは多いはずであり、なかにはトナラーからドアパンチを受け、「……なぜ、こんなにも空いている駐車場でドアパンチ被害を受けなければならないのだ! 理不尽すぎる!」との怒りに震えた経験をおもちの人もいるかもしれない。

 だがここで不思議なのは、混んでいる駐車場に停める際、人はすぐ隣の枠にクルマが停まっていてもとくに不快ではないのに(もちろんドアパンチ等の不安は感じるだろうが)、空いている駐車場でトナラーが現れると、なぜいきなり不快感を覚えるのだろうか──ということだ。

 いや、話の流れを作るために「だがここで不思議なのは」と申し上げたが、じつはこれは不思議でもなんでもない、ごく当たり前のことである。混んでいる駐車場では気にならない「すぐ隣のクルマ」が、空いている駐車場ではいきなり「気に触る存在」へと変化する理由は、「人間のパーソナルスペースは可変式だから」である。

 パーソナルスペース(Personal space)とは「対人距離」とも呼ばれるもので、他者が自分に近づくことのできる限界、要するに「心理的な縄張り」のことだ。

 人間も動物と同じように、自分の縄張りに他者が勝手に侵入してくると不快感を覚え、防衛本能が働く。そしてその縄張り=パーソナルスペースの範囲は「相手との関係性」によって変化する。

 講演会などの公式な場で話す側と聞く側に必要とされる「公衆距離」は3.5m以上であるとされ、会社の同僚や上司などと接する際の「社会距離」は1.2〜3.5m。そして親しい友人などとの「個体距離」は45cm〜1.2mで、家族や恋人などのきわめて親しい間柄の人が入ることを許される「密接距離」は、0〜45cmであるといわれている。

 また、そのほかのさまざまな要因によってもパーソナルスペースの広さ(狭さ)は変化するわけだが、当然ながら「状況」によってもそれは変化する。いや正確には、人が感じるパーソナルスペース自体は状況によって変化せず、「不快なものは不快!」と感じるのかもしれない。だが、状況に応じて「我慢できる範囲」は変わっていくのだ。

人間のパーソナルスペースは可変式

 たとえば朝の満員電車は、隣のまったく知らないおっさんと「密接距離」になってしまうため、明らかに不快ではある。だがそこで「不快です! 離れてください!」というわけにもいかないため、人は仕方なく我慢する。そして我慢しているうちに、完全にではないが、ある程度はその状況に慣れていく。

 そして駐車場における「隣のクルマを不快に感じるかどうか」というのも、これとほとんど同じである。

 満車に近い状態の駐車場であっても、パーソナルスペースとドアパンチの可能性の観点から、できればすぐ隣に停まってほしくないとは思う。だが「まぁ混んでるんだから仕方ないよね」という心理からパーソナルスペースは一時的にギュギュッと縮まり、結果として「自分が停める枠のなか」だけがパーソナルスペースになる。だから、隣にクルマが停まっていても不快には思わない(もちろん、こちら側の枠ギリギリに停めてくるクルマに対しては「ちっ!」と不快に感じるが)。

 だが空いている駐車場においては、無意識のうちに自分と愛車のパーソナルスペースは広くなる。いや本当は、そこは「自分のスペース」ではなく「イオンやドン・キホーテなどの土地」なのだが、空いている駐車場においてはおおむね下記ぐらいの範囲を、人は自分のパーソナルスペース=縄張りであると認識してしまうものだ。

●超ガラガラの駐車場:「フロア全体が俺のもの! 他のクルマは別フロアに行きやがれ!」
●ガラガラの駐車場:「まぁ少なくともこのあたりの10枠分ぐらいが俺のスペースだよな」
●比較的空いている駐車場:「空いてるんだから、せめて3枠分ぐらいは向こうに停めてね」

 個人差および状況差はあると思うが、おおむねのレベル感はこんな感じだろう。

 そしてそんな“パーソナルスペース”に、なぜか「……よっこらしょ」みたいな感じで知らないクルマがいきなり侵入してくるのだから──人はそれを不快に思わないはずがないのだ。当たり前の話である。