堀江翔太インタビュー前編

日本代表としてラグビーワールドカップ(W杯)に4度出場した希代のフッカー、埼玉ワイルドナイツの堀江翔太(38歳)。今季限りで、惜しまれながらもブーツを脱いだ。帝京大学時代はフランカーやナンバーエイトとしてプレーしたが、ニュージーランドへの挑戦と同時にフッカーに転向。そこから年々レベルを上げて、機動力、スキルも高く、フッカーとしてセットプレーの安定にも貢献。日本人のFW選手としては初のスーパーラグビープレーヤーにもなった。

桜のジャージーを着ては2015年W杯では南アフリカ代表を下し、2019年W杯ではベスト8に大きく寄与。ワイルドナイツでは年間MVPを3度受賞するなど、日本ラグビーを常に先頭で引っ張ってきた選手のひとりだった。「勇気なくして栄光なし」が座右の銘だった堀江さんに15年のプロラグビー生活を振り返ってもらいつつ、引退後のセカンドキャリアについても聞いた。


インタビューに答える堀江翔太 photo by Saito Kenji

――リーグワンのプレーオフ決勝は、 ビデオ判定の末、堀江さんのパスがスローフォワードとなり敗戦してしまいました。

 勝負のアヤというか、巡り合わせというか......。僕らも調子が良かったので、最後はホンマ運の部分があったかな。ただ僕がスローフォワードで終わってよかった。若い後輩があれをやってしまってへこむより、僕が引退で持っていった方が、全部僕のせいに持っていける(苦笑)。 後輩たちは、ひとつ、ふたつとレベルを上げるための負けだったかなと感じてくれていると思います。
 
――やはり、優勝して引退したかった?

 漫画みたいに勝って引退したかったし、チームとしては非常に残念だけど、印象に残るようなゲームができたことは良かった。何かしらこう見えない、神様からもっと頑張れよってチームに言われてるよみたいな感じで。もう一回チームとしてはゼロから優勝に目を向けて頑張ってほしい。僕としては次のキャリアに向けて、うまく行かない、そんな順風満帆にいかないという教えをもらった感じで、次に進みたい。ファンからは「面白い試合だったので次も頑張ってほしい」みたいな言葉がすごく多くて、応援してくれる人が増えた感じでした。もし勝っていたら「おめでとう!」だけで終わっていたかもしれない。引退後の人生の方が長いので、セカンドキャリアを応援してくれる方が僕的には嬉しいですね!
 
――ワイルドナイツの後輩たちにはどんな言葉を残したのですか?

 納会で、後輩たちに「ここからまたチャンスは絶対来ると思うので、チャンスを掴むための準備は常にしとかないとまた取り逃してしまう」という話をしました。次のチャンスを取るための準備は常にしておかないといけないし、ボーッとしていたら取り逃がしてしまう。チームには波があるし、僕も長年やってきて、下がったことも、下がりきらずになんとか踏ん張ったこともあった。 チャンスが来たときには頑張れるようにしてほしいです。

――パナソニックの前身、2009年に三洋電機時代にワイルドナイツに入った最後のプレーヤーでしたね。

 今年で16年目、まるまる15年ですね。コリー(ホラニ龍コリニアシ)さんも含めて、みんなコーチになっていますよね。10歳からラグビーを始めましたが、三洋電機で過ごして、1年目はラインアウト放れない、スクラム組めない、ただボールを持って動けるだけの選手。そんな自分が日本代表に行けたので感謝しています。運良く、いい人たちと知り合って、いいラグビー人生を送れたかなと思います。

――1年目からプロ選手でしたね。

 ホンマに社会人になって、すぐにプロ選手になりました。初め、普通に会社員をしながらプレーしようと思っていろいろ探していました。(帝京大の)キャプテンをやっていて真面目だったので、あるチームに会社の説明をされて、そういうことをしないとあかんのかと思いながらいろんなチームを回っていた中に、帝京大に来ていたコーチの流れでニュージーランドのカンタベリーアカデミーから誘いがあり、2年間プレーしました。そしてレンタル移籍という感じで、カンタベリーのつながりでサニックスか三洋電気(現パナソニック)を提示されて、開幕数週間前によくわからない僕を(三洋電機)の飯島(均/現GM)さんが採ってくれて、そのままプロ選手となりました。感謝しています。

――ところで、海外挑戦した一番の理由は?

 海外に行くのはめちゃくちゃ大嫌いでしたが、僕は誰よりも負けず嫌いだったので、同期に負けたくないという思いが最初にありました。どんな相手にも絶対に勝てるような自信、スキル、技術を身につけたいということがモチベーションでした。大学の同期には早稲田大の五郎丸(歩)、権丈(太郎)、畠山(健介)、慶應義塾大の山田章仁とか、早慶明の選手が有名で、僕は二番手、三番手くらいで、まあまあラグビーがうまいくらいの選手でした。(大学時代まではバックローでしたが)上を目指すなら、絶対フッカーじゃないとあかんと思っていましたし、妥協したらあかんという思いもあって、失敗しても日本代表に返り咲けるので、オールブラックスも目指していましたね。ミスっても一生懸命うまくなろうとすればおつりがある。

――まるまる15年、移籍せずにワイルドナイツ愛を貫きました

 ホンマに、移籍したいと思ったことはなかった。試合に出られないという思いがなかったところが一番大きいかも。僕らの世代は2015年、2019年W杯の頃のラグビーバブル世代とは違い、ラグビーがガーンって上がることはなかった。もしかしたら20代で、破格の額を提示されたら移籍したかもしれないですけど、2011年W杯の後に、(NZの)オタゴやスーパーラグビー(のレベルズ)にも行かせてくれたという恩義もありました。実は、ワイルドナイツは僕がNZに行っているときも契約してくれていて、少し減りましたがお金を出してくれた。日本でまったく試合に出なかったらお金を出さないチームもあるので、ありがたかったです!

――15年間プレーしたワイルドナイツに残せたものは?

 ワイルドナイツでは先輩も含めて、選手たちがラグビーをすごく楽しんでいる。そのベースは忘れてほしくないですし、ラグビーの前に人としてちゃんとしないとあかんという文化があります。僕は言葉を多くしゃべるより、常に行動で後輩のしっかりとしたモデルになろうと思っていました。そのあたりは後輩たちがうまく掬い取ってくれていたら嬉しい。だから、恥じない行動をすること、そして先に何かを言う前に、自分がまずやるという部分はピッチ内外で残せたかなとは思います。

――ワイルドナイツの若い選手に聞くと「堀江選手は怖かった」という人が多いです。

 みんなそう言います(笑)。1年目の選手に僕が喋ってもビビるだけだし、どっかのタイミングで喋る機会があれば話すようにしていました。あとは周りを、チーム全体を結構見ていて、ラグビーできる、できないではなく、人として見ています。そして言わなければできない人には言うようにしていました。

――ワイルドナイツ、サンウルブズ、日本代表でもキャプテンを歴任した堀江さんはリーダーとして前に出て、引っ張っていくタイプではなく、気遣いの人というイメージがあります。

 キャプテンシー、ないんですよね(苦笑)。マジで全然なくて、中間管理職みたい。でもそれがリーダーかなと言われれば、リーダーです、となっていました。先頭に立って後ろを引っ張るというイメージではなく、いつも選手の中心にいるという感じ。みんなで、しっかりやっていこう!というのが僕のキャプテンシーかなと思います。
 
――堀江さんはワイルドナイツでトップリーグとリーグワンを通じて、最多となる年間MVPを3回受賞しましたね。

マジで、もっとそれを言ってほしいですよね! 引退する時に、後輩が僕の経歴がいろいろ書いてあるTシャツを作ってくれた。それを着た後輩の背中を見たら、「ベスト15」とかMVPとか、いろいろすごいなと思いました! だから、やっぱりもっと称えられてもいいんじゃないかなと思っています(笑)。

中編>>堀江翔太、歴代指揮官との関係性を明かす

後編>>堀江翔太が現役引退を決めた理由

■Profile
堀江翔太(ほりえしょうた)
1986年1月21日生まれ、大阪府吹田市出身。帝京大学ラグビー部では4年時に主将を務め、2008年卒業後、三洋電機ワイルドナイツ(現パナソニック ワイルドナイツ)に所属し、翌年には日本代表で初キャップを飾ると、トップリーグでもベスト15に選出されるなど活躍。2011年ラグビーワールドカップから2015年大会、2019年大会と3大会連続で日本代表に選出される一方、2013年にはスーパーラグビーのレベルズに入団するなど、海外でも活躍の場を広げた。2022年にはパナソニック ワイルドナイツがジャパンラグビーリーグワンの初代王者となり、MVP、ベスト15、そして選手が選ぶプレーヤー・オブ・ザ・シーズンを受賞した。2024年6月22日の試合をもって現役を引退した。