甲斐の虎・武田信玄を6度も退けたもう1人の虎!「上州の黄斑」と呼ばれた武将・長野業正の勇姿を紹介

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戦国時代には、虎や龍、鬼といった馴染のあるあだ名が武将たちにつけられましたが、中には黄斑という珍しいあだ名が付けられた武将がいました。

その人物は長野業正(ながの-なりまさ)、上州の黄斑(虎の別名)とあだ名付けられた人物です。

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業正自体、あまり馴染み深い人物ではありませんので、どのような活躍をしたか知らない方が多いかもしれません。

そんな人物ですが、実は武田信玄の侵攻を6回も退けた隠れた名将でありました。

この他にも業正の活躍は数多くありますので、生涯を追いながらご紹介します。

実は名前が不明な人物

箕輪城跡/Wikipediaより

業正は延徳3年(1491)に産まれます。父に関しては未だ不明で、長野憲業と長野信業、長野方業の3人が挙げられています。

当の本人も史料には長野信濃守しか確認できず、業正が実名である根拠は未だ確認されておりません。

長野氏は上野国(現在の群馬県)西部に勢力を持っており、箕輪城を拠点とした箕輪長野氏と厩橋城(後の前橋城)を拠点とした厩橋長野氏と居城によって分かれていました。

当の業正は箕輪長野氏で周辺の豪族や国人と婚姻関係で固めつつ、集団として取りまとめていました。ちなみに、その集団は箕輪衆と呼ばれています。

山内上杉氏に仕え、子を失う

北条氏康/Wikipediaより

そして、業正は関東管領の山内上杉氏に仕え、業正の甥で白井長尾家の長尾景誠が暗殺された際に白井長尾家の実権を握ったことで、山内上杉氏での地位を向上させました。

そして天文16年(1546)には、山内上杉氏の憲政(のりまさ)と扇谷上杉氏の朝定、古河公方の足利晴氏の連合軍に北条氏康が夜襲を仕掛けた河越夜戦が勃発。

業正もこの戦いに参戦しましたが、16歳の長男・長野吉業を失う悲劇に見舞われました。

これ以降山内上杉氏は徐々に衰退していき、憲政は天文16年(1547)に起こった小田井原の戦いに、業正の忠告を聞かずに出陣するも武田信玄に惨敗。

そして、山内上杉氏の居城である平井城が後北条氏に攻略されると、天文21年(1552)に業正は憲政のもとを去りました。

信玄の侵攻を6度も退ける

武田信玄/Wikipediaより

憲政から独立後は、後北条氏に従わずに西上野で独自勢力を築きました。

しかしながら、弘治3年(1557)には川中島の戦いに並行して信玄が西上野に侵攻を開始。業正は瓶尻(みかじり)にて箕輪衆を含めた2万の軍勢を率いて迎え撃つも敗れてしまいます。

瓶尻の戦いと呼ばれたこの戦いで、業正は殿として武田軍の追撃を撃退する活躍をし、無事に役目を果たしました。

その後は永禄2年(1559)に起こった若田原の戦いを含め、6度も侵攻を繰り返した武田軍を奇襲戦法で全て撃退した活躍をしました。

業正の勇猛さに信玄は「業正が生きている限り、上州には手が出せない」と嘆いたと言われています。

信玄から上野国を守り抜いた業正ですが、病に勝てず永禄4年(1561)に71歳で病没しました。

業正死後、一気に衰退した長野氏

長野家元家臣・上泉信綱/Wikipediaより

業正死後は長野業盛が家督を継ぎ、西上野に侵攻を繰り返す信玄に抵抗します。

しかし、業正という求心力を失った箕輪衆は徐々に弱体し、父に劣らぬ武勇を持った業盛でも信玄の侵攻を防ぎきれませんでした。

そして、永禄9年(1566)に2万の兵の総攻撃を受けたことで箕輪城は落城。業盛も23歳の若さで一族郎党と共に自刃し、箕輪長野氏は滅亡しました。

こうして西上野は信玄の領地となり、長野氏の旧臣たちは信玄に仕えるも、長野一本槍として長野家に仕えた剣聖・上泉信綱は、新陰流を普及させるための旅に出たと伝わっています。