光源氏の内に混在する「亡き人への情」と「浮気心」
粗末な板塀に白い花がひとつ、笑うように咲いている(写真:yasu /PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第4帖「夕顔(ゆうがお)」を全10回でお送りする。
17歳になった光源氏は、才色兼備の年上女性・六条御息所のもとにお忍びで通っている。その道すがら、ふと目にした夕顔咲き乱れる粗末な家と、そこに暮らす謎めいた女。この出会いがやがて悲しい別れを引き起こし……。
「夕顔」を最初から読む:不憫な運命の花「夕顔」が導いた光君の新たな恋路
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夕顔 人の思いが人を殺(あや)める
だれとも知らぬまま、不思議なほどに愛しすぎたため、
ほかの方の思いが取り憑いたのかもしれません。
五条の宿を思い出しては
静かな夕暮れだった。空の景色もしみじみとしていて、枯れはじめた庭の草木から、鳴き嗄(か)れた虫の音が細く聞こえてくる。紅葉(もみじ)も次第に色づきはじめている。絵に描いたようなみごとな庭を眺め、思いがけなく高貴な宮仕えをすることになったと右近はしみじみ思い、あの夕顔の咲く、五条の宿を思い出しては恥ずかしくなる。竹藪(たけやぶ)の中で家鳩(いえばと)という鳥が野太い声で鳴くのを聞いて、光君は、あの家でこの鳥の声を女がひどくこわがっていたのを、ありありといとしく思い出す。
「あの人の年はいくつだったの。ふつうの人とはなんだか違って、今にもすっと消えてしまいそうだったのは、長くは生きられないからだったのかな」光君は言う。
「十九におなりでございました。わたくし右近は、女君の乳母の子でございました。その母がわたくしを残して亡くなりましたので、女君のおとうさまである三位の君がわたくしをかわいがってくださいまして、女君のおそばで育ててくださいました。そのご恩を思い出しますと、女君は亡くなったのに、わたくしがこの先どうして生きていかれましょう。女君とあれほど親しくさせていただいたことが、悔やまれるほどでございます。見るからにか弱い女君を、ただ頼りにして長年過ごして参りました」
「か弱い人のほうがずっといい。賢すぎて我の強い女性はまったく好きになれないよ。この私がしっかりしていないからかもしれないね。素直で、うっかりすると男にだまされそうで、それでいて慎み深く、夫を信頼してついていく女性がいちばんいい。そういう人にあれこれと教えながらいっしょに暮らして、成長を見守っていけば、情も深まるに違いないだろうね」
その光君の言葉を聞いて、
「まさに女君はそのようなお方でございましたのに、本当に残念なことでございます」
「夕顔」の人物系図
胸がふさがれる思い
右近は泣き出してしまう。空が曇ってきて、風が冷たく感じられ、光君はしんみりともの思いに沈む。
見し人の煙(けぶり)を雲とながむればゆふべの空もむつましきかな
(恋しい人を葬った煙があの雲になったと思うと、夕方の空も親しく思えてくる)
と独り言のようにつぶやくが、右近は返歌もできない。自分がこうして光君のおそばにいるように、女君も生きていらして、お二人が並んでいらっしゃったのならどんなにすばらしいだろうと、胸がふさがれる思いである。
あのちいさな宿で、うるさいと感じた戸外の砧の音も思い出すと恋しくなり、光君は「八月九日正(まさ)に長き夜 千声万声了(や)む時なし」と、白楽天(はくらくてん)の詩を口ずさみながら横たわる。
さて、伊予介(いよのすけ)の家の小君(こぎみ)が参上することもあるが、光君はとくに以前のような言伝(ことづ)てをするわけではない。きっとあの女はもうだめだと、あきらめてしまわれたのだろうと胸を痛めているところへ、光君がお患いになっていると耳にし、女(空蟬(うつせみ))はさらに悲しい気持ちになった。夫とともにいよいよ遠方の地に下るのもさすがに心細く、本当に自分のことはお忘れになったのだろうかと試みに、
「ご病気と伺って心配しておりますが、口に出しては、とても……
問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
(私からはとてもご様子を伺えませんのを、なぜかとお訊きくださることもなく月日が過ぎます。どんなに私は思い悩んでいることでしょう)
『ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田の生けるかひなき(拾遺集/じゅんさいを繰る、苦しいという人よりも私のほうがもっと生きる甲斐もない)』という古歌は、まさにこの私のことでございます」
と、文をしたためた。女のほうから手紙が来るなど、今までにないことだったので、けっして彼女のことを忘れていたわけではない光君は、さっそく返事を書く。
逢おうという気持ちはなかったけれど
「『生きるかひなき』とはどちらのせりふでしょう。
空蟬(うつせみ)の世はうきものと知りにしをまた言(こと)の葉(は)にかかる命よ
(この世はつらいものだと思い知ったのに、またもお言葉にすがって生きようと思ってしまいます)
あなたのお手紙に命をつなぐとは、頼りないことです」
まだ筆を持つ手も震える光君の乱れ書きは、かえっていとしさをそそる手紙となった。
自分の脱ぎ捨てたもぬけの殻の小袿(こうちき)を、光君がまだ忘れていないのだと読み取り、恥ずかしく思いながらも、女は心をときめかせるのだった。逢おうという気持ちはなかったけれど、こうして心をこめた手紙は送る。冷淡で強情な女だと源氏の君に思われたくなかったのである。
もう一方、あの時碁を打っていたもうひとりの女は蔵人少将(くろうどのしょうしょう)を婿にもらったと光君は伝え聞いた。女が処女でないのを少将はどう思うかと気の毒であり、また、あの女の様子を知りたくもあって、光君は小君を使いに出すことにした。
「死ぬほど思っている私の気持ちはおわかりでしょうか。
ほのかにも軒端(のきば)の荻(をぎ)をむすばずは霧のかことをなににかけまし
(たった一夜の逢瀬ですが、もし結ばれていないのであれば、何にかこつけても恨み言など言いませんけれど)」
女の背が高かったのを思い出し、わざと丈の高い荻に文を結びつけ、「目立たないようにね」と光君は小君には言ったが、もし小君がしくじって少将に見つかったとしても、相手が私だと気づけば大目に見てくれるだろうと思っていた。……光君のこういううぬぼれは、まったく困ったものですこと。
そんな姿も憎めないと思う
小君は少将の留守に文を届けた。女は、光君を恨めしく思ってはいたが、思い出してもらったことで舞い上がり、返事はできばえよりも速さだとばかりに、小君に託す。
ほのめかす風につけても下荻(したをぎ)のなかばは霜にむすぼほれつつ
(あの夜をほのめかされるお手紙、とてもうれしいですが、下荻(したをぎ)の下葉が霜でしおれてしまうように、私は半ばしおれております)
字はうまくもないのに、それをごまかすように洒落(しゃれ)た書き方をしていて、いかにも品がない。いつだったか、灯火の光で見た女の顔を光君は思い出す。あの時、慎ましやかに対座していた小君の姉の様子は、今でも忘れることができないが、この女はなんの深みもなく、たのしそうにはしゃいでいたなと思い出すと、そんな姿も憎めないと思うのだった。……と、なおも性懲りなく、浮き名を流しそうな浮気心が残っているらしく……。
次の話を読む:死出の道に向かった女と、新たな旅路へ向かう女(4月7日14時公開予定)
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
(角田 光代 : 小説家)