2024年3月28日、韓国の総選挙が始まった。ソウル市で韓国与党「国民の力」の支持者たち(写真・共同)

韓国の総選挙は2024年3月28日に公式の選挙運動が始まり、4月10日に運命の投開票日を迎える。日韓のメディアには、尹錫悦政権を審判する選挙との意義付けが目立つが、実際には審判どころか、任期の折り返しすら迎えていない尹政権を骨抜きにしかねない大型選挙である。

今回もまた、与野党とも党の主導権争いや公認選びをめぐって離合集散を繰り返し、なかなか選挙構図が決まらなかった。その過程では互いに多くのアラが見えてきた。

とりわけ尹大統領の受けたダメージは大きい。総選挙で与党が敗北すればもちろんのこと、仮に善戦したとしても、尹政権は今後、いばらの道を歩むことになりそうだ。

両刃の剣の医療大改革

韓国の人たちは世論調査が大好きだ。中小まで合わせると、数え切れないほどの調査会社があり、毎日のように結果が発表され、そのたびに一喜一憂する。

日本の世論調査の専門家からすると、理解しがたい手法を使っているところもあるが、少なくとも上り調子か下降気味かという傾向はとらえているのだろう。

それらの調査をみる限り、長く劣勢が伝えられていた右派の与党「国民の力」は2月後半あたりから追い風を受け、同時に政権支持率も上向き、にわかに活気づいた。

世論調査の数字の信頼性はともかく、明らかに変化してきたのは政権の支持理由だった。それまでトップだった「外交」に代わり、「医学部定員の拡大」を挙げる人が最多となった。

韓国政府は医師不足の解消などを理由に、大学の医学部定員の大幅な増員方針を決定。これに医師団体は猛反発し、勤務医らが集団で辞表を提出すると、政府はさらに医師免許停止の強硬策に打って出て、正面から衝突する形となった。

歴代政権は何度も医療界の改革を試みてきたが、そのたびに強い抵抗を受け、事実上、挫折してきた。だが尹政権が免許停止という強権を発動し、改革に強い意欲をみせたことが評価され、世論的には既得権益の象徴のような存在だった医師側の利己的な対応への反発が強まった。

医療改革の前に、与党内で公認選びをめぐる整理が順調に進んだことも大きかった。やはり既得権益を独占しているといった批判から、とかく多選議員が敬遠される韓国社会にあって、保守地盤でもある南東部・釜山周辺選出のベテラン議員をいかに交代させるかが与党執行部にとって大きな悩みだった。

現職議員の4割が不出馬変化

韓国では現役の議員を新顔に代えたり、別の選挙区に送り込んだりすることを、田んぼの水の入れ替えにたとえて「ムルガリ」と呼ぶ。ムルガリが進めば進むほど、多く得票する傾向がある。ちなみに今回の総選挙には、現職国会議員の約4割が立候補を見送った。

そのような中、2023年12月、尹大統領の最側近で釜山を地盤とする有力国会議員が「私を踏み越えて総選挙で勝利し、尹錫悦政権を成功に導いてほしい」と述べて、早々と不出馬を表明。他の重鎮たちに勝手な行動をさせない流れを作り、公認選びの負担を減じた。

現有で過半数の議席を占める巨大野党「共に民主党」が公認選びで大混乱したことも、政府・与党の追い風になった。かつての自治体首長時代の背任や収賄の罪で在宅起訴されたまま党代表を務める李在明氏が剛腕をふるう形で、自身と距離を置く人物にことごとく公認を与えず、離党や新党に移る現職が相次いだ。

李在明氏は2022年の大統領選で、ほんのわずかな差で尹大統領に敗れた。この時は尹氏を嫌う無党派層の票をかなり得たとされるが、李氏に批判的な野党議員の1人は「公認選びをめぐる騒動に嫌気をさした無党派層が離れ始めている」と懸念を口にする。

これらの動きを受け、順風満帆にみえた与党側だが、3月中旬あたりから徐々に風向きが変化してきた。

その原因の1つは、これまで政権支持率を押し上げる主要因ともされた医療改革の反動である。

医師団体側の徹底抗戦の構えに変化はなく、現場の医師は職場を離脱。医学部生は授業をボイコットする中、時間が経つにつれて生死がかかわるような深刻な治療から定期検診にいたるまで、十分な処置が受けられない実害が出始め、市民らの不満が高まってきた。

医師団体ではさらに、トップに医学部生の定員増ではなく、定員減を主張する「最強硬派」が就任。尹大統領は医学部の教授らに対話を呼びかけるなどしているが、基本的には強硬一辺倒の姿勢を改める気配はない。

患者側をとりまく切実な状況は、明確な打開策を示せない政府・与党側への批判を高め、潮目が変わりつつある。

スター政治家が登場したものの…

そうしているうちに、韓国軍兵士の殉職事件に関連し、職権乱用の疑いで捜査を受けていた前国防相が、出国禁止措置を受けていたにもかかわらず、政権がそれを解除させ、駐オーストラリア大使に赴任させたことも反発を招いた。

韓国政界では、自分に甘く他人には厳しいという姿勢を「ネロナンブル」と言って揶揄(やゆ)される。韓国語で「自分がやればロマンスだが、他人がするのは不倫」という言葉を短縮した造語で、朴槿恵政権や文在寅政権の身勝手ぶりを指摘する際に使われた。

検事出身の尹大統領はこれまでやたらと「法とルールの順守」を強調してきたが、批判勢力や少数派の自由を制約するかのようなケースが目立ってきており、前国防相に対する特別な扱いも象徴的な出来事ととらえられている。

前国防相はオーストラリアに赴任直後、すぐにとんぼ返りで帰国し、対し任命からわずか25日でついに辞意を表明するハメになった。それは、事実上の「国民の力」代表である韓東勲・党非常対策委員長が求めた結果だとされる。

検事出身の韓東勲氏は、尹大統領から政権の初代法相に抜擢された経緯などから、大統領のアバター(分身)などと指摘されてきた。

一方で、国会答弁などで野党議員の厳しい質問に舌鋒鋭く反論したり、わかりやすく説明したりする姿勢から、早くも次期大統領にふさわしい保守論客と注目される。

その韓東勲氏が、尹大統領の判断を覆す形で前国防相を呼び返したことで、その存在感と発言力の大きさを改めて印象づけることになった。

「改めて」というのは、この騒動の前にも韓東勲氏は尹大統領と対立し、完勝した前哨戦があったためだ。それは尹大統領の夫人、金建希氏をめぐる「事件」だった。

金建希氏は夫が大統領に就任後、知り合いから高級ブランドのバッグを受け取ったとされる映像がネット上に流出。違法行為だと攻勢を強める野党に対し、尹大統領や政府は長く放置したままやり過ごしていたが、韓東勲氏は2024年1月、「国民目線に合った」対応の必要性に言及した。

総選挙が近づく中で、このままでは劣勢を強いられるとの判断からの発言とみられるが、大統領側は強い不快感を抱いた。

発言後、日本で言えば官房長官的な役割を担う大統領秘書室長が、事実上の党のトップに就いたばかりの韓東勲氏に直接会い、辞任を要求。これに対して韓東勲氏は辞任を求められた事実とともに、一蹴したことを報道陣の前で暴露した。

つきまとう「大統領夫人リスク」

大統領のアバターどころか、名実ともに与党の主導権の完全掌握を狙うかのような韓東勲氏の単独行動に、韓国メディアでは政府との対立は避けられないとの観測も流れたが、尹大統領側がそれ以上の圧力をかけるのをやめたため、事態はいったん沈静化した。

高い人気を背景にする韓東勲氏と一戦交えることになると、総選挙に惨敗し、自ら死に体化を招きかねないとの判断があったためだろう。

しかし、政治のプロではないだけでなく、互いに検事出身という政権と与党のツートップのしこりは確実に残っているとされる。総選挙で野党が再び、単独過半数をとることになれば、尹政権は手足がしばられた状態に陥るが、与党が善戦したとしても韓東勲氏が救世主として信頼を集め、現在以上に次期リーダーとして脚光を浴びることになろう。

総選挙の選挙戦が始まるやいなや、「共に民主党」は全国の各候補に対し、金建希・大統領夫人の高級ブランドバッグ授受疑惑に焦点をあて、それぞれの選挙区で訴えるよう指示したと韓国メディアは報じている。

総選挙の結果にかかわらず、早くから尹大統領の最大の弱点と言われ続けてきた夫人問題に再び光が当たるのは避けられそうにない。そうなった時、「国民目線」という言葉を多用する韓東勲氏が今度はどう対応するのか。

スキャンダルが浮上しなくとも、尹政権の発足以来の2年間は、政府内の人事起用をめぐる不満が高まっている。

各省庁とも生え抜きの人材を重用せず、検事出身者をはじめとする司法関係者を要職につけていることへの批判である。政権のグリップが弱まれば、これらの不満はさらに顕在化し、足元から不安定さが増してくる可能性が高い。

「タマネギ男」新党も変数

総選挙で対峙する野党側は、「共に民主党」のお家騒動もさることながら、尹大統領や韓東勲氏と激しく対立する元法相で、前政権で「疑惑のタマネギ男」と揶揄された者国氏が立ち上げた新党が勢いづき、比例でそこそこの議席を獲得するのではないかとみられている。

現段階では、もともとの「共に民主党」の支持層の一部が者国氏の新党に乗り換えるケースが目立ち、すそ野が広がっているとは言えないものの、投開票日までにどんな風が吹くかは誰にもわからない。

尹政権は北朝鮮政策を最重視し、強硬一辺倒を続けてきた。だが、これとて11月に控える米大統領選の結果次第では、大きな政策変更を余儀なくされることもありうるだろう。

4月10日の総選挙は尹政権の命運がかかる。しかし、その後も尹政権の内憂外患は続く。

(箱田 哲也 : 朝日新聞記者)