そんなに昭和に戻りたいのか…セクハラとパワハラが問題視される令和をあえて笑った「ふてほど」の消化不良
■「おっパン」「ふてほど」中年男性ドラマが2本同時に
ともに「おじさん」を描きながら、真逆の展開をたどった2本の連続ドラマがある。「不適切にもほどがある!」(TBS系)と「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(フジテレビ系、東海テレビ制作)だ。
前者は略して「ふてほど」、後者は「おっパン」。それぞれ、阿部サダヲと原田泰造という1970年生まれの俳優を主演にすえて「中年男性が令和の価値観についていけない」という時代とのギャップを描いた点で共通する。では、評価の分かれたポイントはどこだったのだろうか?
「ふてほど」は映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』そして『時をかける少女』を下敷きにしたと思われるタイムスリップ・コメディだ。主人公の体罰体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)が、1986年から2024年に旅して、毎回、セクハラ、コンプラ、SNS炎上といったテーマに悩まされる現代人を「まあまあ」となだめ、「乱暴で野蛮な昭和」と「潔癖で息苦しい令和」の中間の落としどころを探るドラマだ。
脚本は、朝ドラや大河ドラマも手がけた宮藤官九郎。X(元ツイッター)などのSNSやドラマ評でも「さすがに面白い」と評価する声も多い。しかし一方、過去にここまで批判されたクドカン作品もないだろう。
最初はSNSで違和感のつぶやきレベルだったものが、最終回が近づくにつれ、新聞のドラマ評などでも識者によってしっかりと批判される状況になってきている(朝日新聞「『不適切にもほどがある!』への違和感 すっぽり抜け落ちたものとは」など)。原因のひとつに、取り上げるテーマに対する「解像度の粗さ」が挙げられる。とにかく問題認識がざっくりしているのだ。
■「男らしさ」の呪縛から自由になっていった「おっパン」
もう一方の「おっパン」、主人公の沖田誠(原田泰造)は「男は男らしく」という古い意識の中年男性だ。会社でも「愛嬌は女性の武器だろう」「嫁に行きそびれるぞ」と偏見をまき散らし、部下からも敬遠される管理職。息子は不登校、飼い犬も自分にはなつかない。
一見、バラバラに見える家族だが、実はそれぞれが自分の「好き」を持っている。娘の萌(大原梓)はBL(ボーイズラブ)の同人作家活動にいそしみ、妻(富田靖子)はアイドルの推し活に夢中。ひきこもる息子(城桧吏)は「カワイイもの」が好き。
そんな家族と向かい合う中で、硬直していた誠の価値観も変わり始め、自分が変わると周囲との関係性も変わっていく、というストーリーだ。
■不登校を「待つ」おっパン、「発達障害」と語るふてほど
例えば、同じ「不登校」というテーマを扱う場面でも、「おっパン」と「ふてほど」ではかなりトーンが違う。「おっパン」もハートフルコメディであることは忘れず、深刻すぎてはいないのだが、家族の焦りやためらいが丁寧に描かれ、それがセリフにも表れている。
ひきこもる息子に登校を急かそうとする父に対し、姉の萌は「世間が待ってくれないから、家族は待ってるフリをするんじゃないの?」と話す。子どもを「世間」に合わせようとして、立ち上がる力を奪うのではなく、タイミングがくるまで待とう、というアップデートされた価値観が提示される。
一方の「ふてほど」では、令和の社会学者というサカエ(吉田羊)が、不登校について「ASD、ADHD、SLDなどが原因」とまくし立てる。しかし不登校の原因はなにも発達障害だけではない。続けて「学校の授業や集団生活についていけない子ども」と語るのだが、この表現も正確だろうか。その子にとっては集団で学ぶことがベストではない、というケースもある。
何より社会学者がそのような認識の甘い発言をするだろうか、とツッコミたくなるのだが、「ふてほど」での吉田羊は、理性(=学んで身につけたフェミニズム)と感情や本音が相反して「女としての自分」に気づかされる、という道化的な役回りなのである。
「ふてほど」ではギャグとして、毎回「この主人公は1986年から時空を超えて来たため現在では不適切な発言を繰り返します」とテロップが入る。しかしそれがない場面でも「えっ、これって不適切ギャグ? 単に間違いでは?」と思わされる言葉の誤用やミスリーディングが多いのだ。茶化しているのか、単なるミスなのかがわからないから、たちが悪い。
■「ふてほど」は、あえてミスリーディングを誘ったのか
パワハラやフェミニズムの理解も、セクハラやルッキズムの語義も、すべて「本来の意味とはズレたもの」を提示してから、それを批判して取り下げさせる。しかし、ドラマ内で示される「そもそもの言葉の定義」が間違っているのだから、知っている人は「どういうこと?」とモヤモヤするし、知らない人にとっては新たに「誤解」や「間違った概念」が植えつけられてしまう。
例えばLGBTQ、また性加害、それから新しい職業であるインティマシーコーディネーター(映画やドラマでの性的表現を伴う撮影現場で、俳優の尊厳を守る役割)など、それに関する正しい知識の普及に苦心してきた人にとっては、多くの人が見るドラマで間違った解釈がわざわざ放送されて、やるせない思いになる場面もあったのではないか。
■「ふてほど」は男性の同性愛を女性蔑視と結びつけて炎上
存在しないものを提示して「ポリコレやコンプラも大事だけど、ここまで潔癖にするのは行き過ぎ」とたたく。そのズルさに気づいた人が「ふてほど」を批判している。クドカンの過去作を愛する元ファンほど、失望も大きいのだ。
例えば同性愛の扱いも「おっパン」は丁寧だ。壊れそうなものを絶妙なバランスで描こうとする手つきが見られる。子どもの友人(中島颯太)が同性愛者であると知り、主人公の沖田は「ゲイが(自分の子に)うつったら困る」と反射的に言い放ってしまう。
ところがその子は落ち着いて「大丈夫。ゲイはうつったりしませんよ」と答える。最低な発言をした相手を否定はしない。それでいて、ああ、きっと長い時間このことについて考えてきたのだろう、という老成ぶりが伝わるセリフだ。
対して「ふてほど」では、あえてかもしれないが「オカマちゃん」という言葉が何度も登場する(女性装と同性愛は別物だが)。またフェミニスト学者のはずのサカエの次のセリフには何重にも誤りが含まれており、SNSでも炎上した。
「あなた、自分が女にモテないからと言って女性を軽視している。女性蔑視、あなたそういうところがある。ミソジニーの属性がある、昔っから。そういう男に限って、ホモソーシャルとホモセクシャルを混同して同性愛に救いを求めるの。女にモテなくて男に走っているの、わかる? あなた中2病なの」
■恋愛だけじゃない、いろんな「好き」を描いた「おっパン」
「おっパン」には、親密な関係をなぜ性愛と結びつけるのか、という根源的な問いさえ登場する。「どうして誰かと仲良くしてると、すぐに好きとか、つきあってるとか考えるの?」。このドラマには恋愛感情だけでなく、推しのアイドルや趣味など、さまざまな「好き」が登場し、それぞれの人生を支えている。
一方の「ふてほど」では主人公が女子高校生である娘に「なにィ!もうチョメチョメしたのか?」と連発する。男女がいれば性愛が発生するはず、でも未成年で娘のお前にはそれを認めない、という中年男性の強い意志が一貫して描かれている。
それでいて子どもの名前は高校生が「純子」で中学生が「キヨシ(潔)」、二人あわせて「純潔」だ。大人の男たるものアダルトビデオとエロ本が大好きなはず、でも子どもは純潔な存在であるべき。この強烈なオブセッションはどこからくるのだろう。
■「タイムスリップもの」なのに時代考証が粗い
「ふてほど」の市郎は昭和10年生まれの設定だが、昭和7年生まれの祖父たちの姿を思い出して、当時の人がここまでセックスについて公言していたとは思えない。フィクションとはいえタイムスリップものであり、世代・時代のリアリティの欠如は気になる。
東京の市外局番が変わる前なのに「東京(03)」が登場し、「薄毛」という言葉の誕生以前に「ハゲ」ではなく「薄毛」と連呼し、「なめ猫」が流行っていた時代に1990年代の「三丁目のタマ」の置物があり、マンガなど読まなかった世代のおじさんが「少年ジャンプ」に夢中、という設定だ。
朝ドラ「あまちゃん」では小道具も含めて「過去」を非常にうまく再現していたので、これが単なる時代考証のミスなのか、それともあえて過去を捏造(ねつぞう)しているのか(だとしたらなんのために?)、この点もやや残念に感じた。
■「ふてほど」が狙うのは令和へのバックラッシュか
もちろんセリフの掛け合いは巧みで、出ている俳優はみな芸達者だ。人情話として見ればおもしろいのだろう。クドカンは、「あまちゃん」で東日本大震災を描き、大河ドラマ「いだてん」では関東大震災を、「ふてほど」では阪神淡路大震災を絡めている。震災での死が運命づけられた父娘――SNSを見ると、そこで涙を誘われた視聴者もいたようだ。
市郎はこう語る。
「今の時代、俺みたいな『異物』が混入してないとダメだと思うんだよな」
「異物?」
「そう、不適切なやつ。世の中が多少マシになって(中略)若い連中が幸せになるまで見届けねえとさ」
市郎は、令和の「世直し」をしているのだ。やれセクハラだ、やれ不倫で謹慎だ、部下を叱ればパワハラだと、「かわいそうな男達」がとっちめられているように見えるのかもしれない。それを昭和からきた市郎が「まあまあ」となだめて、なぜか丸く収まる現代人。そこに論理はないので、唐突なミュージカルシーンになる。
■昭和の「男は男らしく」という呪いから解き放たれて
でも考えてみてほしい。昭和と令和を足して2で割って「平成」くらいに薄めて、それが正解だろうか。部活で殴られない令和。同性愛を隠さず生きられる令和。学校にいかなくても他の場所もある令和。セクハラの減った令和。こっちのほうが、少なくとも女性のわたしにとってはずっと居心地がいい。
市郎が令和の男たちに同情するのは、おそらく昭和ではまだ男達が「下駄」を履かされていたからだ。「おっパン」の誠がいう「男は男らしく」に、呪われつつも守られていたのが昭和の男性ではないか。令和になって下駄を脱がされ、「息苦しい」というのは違うだろう。
これはドラマだ、ムキになるな、といわれるかもしれない。ただ「ふてほど」が茶化した数々のテーマは、いずれもこの40年近く、多くの人が戦いながら一歩ずつ進めてきた変化の足跡だ。どうかバックラッシュ(揺り戻し)を誘うようなことをしないでほしい、と願う。
■アップデートしたほうが、きっと男性も楽に生きられる
すでに最終回を迎えた「おっパン」ラストカットでは、「誠のアップデートはまだまだ続く」というテロップがあった。「ふてほど」最終回の予告編では、第1話では野球部の顧問として体罰を連発していた市郎が、令和から昭和に戻ると、ケツバットをためらうようにと変化している。サブタイトルは「アップデートしなきゃダメですか?」。
アップデートしなきゃダメですよ、とは思わない。でもきっと、アップデートしたほうが楽しいですよ、とは思う。ドラマ内で吉田羊は「PTA」と自嘲し、戯画的なフェミニスト女性として描かれていたが、たぶん現実にはそんな人は少ない。「おじさん」と敵対したいのではなく、男性が変わるのを待っている女性は多い。
「おっパン」の初回と最終回で比べると、誠の顔つきはまったく違う。これが俳優の演技というものなのだろうが、内面の価値観が変わると、こんなにも人はイキイキとするのか、と思い知らされる。これが「アップデート」のもたらす変化なのだろう。
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藤井 セイラ(ふじい・せいら)
ライター・コラムニスト
東京大学文学部卒業、出版大手を経てフリーに。企業広報やブランディングを行うかたわら、執筆活動を行う。芸能記事の執筆は今回が初めて。集英社のWEB「よみタイ」でDV避難エッセイ『逃げる技術!』を連載中。保有資格に、保育士、学芸員、日本語教師、幼保英検1級、小学校英語指導資格、ファイナンシャルプランナーなど。趣味は絵本の読み聞かせ、ヨガ。
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(ライター・コラムニスト 藤井 セイラ)