純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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ケーキが腐って崩れた、など、結果でしかない。三分の一の不良品を出して、原因不明という無責任。全社まるごとグルになって検査不正をしていた複数の自動車メーカー。それどころか、自分でわざわざ車をぶっ壊して修理代を取っていた、とか、トンネルを作ってコンクリが入っていない、とか、芸能事務所の王様に下っ端が総出で生贄を貢いでいる、とか、政治家がインチキパー券で裏金を作って選挙のたびにばらまいている、とか、今年一年で発覚した問題だけでも、もはや想像を絶している。

かの総理が死んだせいだ、という人もいるが、それも半分は当たっているだろう。捕まらないようにしますから、ということで、お友だちの馴れ合いなあなあの無責任で、問題を隠蔽し、悪化拡大してきた。しかし、隠蔽する以前に、ずっと前から日本人のモラリティが実態として腐って崩れてしまっていたのも、また事実だ。バブルを引き起こした団塊世代が、なんの責任も取らず、自分たちの延命安泰のために、そのツケを若いジュニア世代に回した。彼らは就職も結婚も子育ても絶望的状況のまま放置される一方、団塊世代の一部は、社会の上層に居残り、法外な年金で遊び呆けた。おまけに、自分たちの懐古趣味で、オリンピックだ、万博だ、建設開発だ、と、いままだバカ騒ぎを続けようとする。

この四半世紀、それでもなんとか日本が持ってきたのは、きちんとまともに仕事をやり遂げようとするまじめな人々の地道な努力のおかげだ。しかし、それももはや限界だろう。彼らに乗じた口先ばかりの連中が増えすぎた。人々の上に登り、管理という名で細かな規則ばかり作って、カネはもちろん、やりがい、生きがい、働きがいまで搾取。あほくさくて、やってられねぇ、と、逃げ出す人ばかりなのに、いまだに、人手不足だ、などと寝ぼけたことを言っている。人望の無いあんたたちがいるから、人が集まらないだけだよ。

江戸時代末期、やはり日本は腐って崩れていた。いや、平安末期も、室町末期もそうだった。どうもこの日本は、同じことを繰り返している。平安時代は武士団が力尽くで叩き壊した。室町時代は庶民まで武装して足軽となり、戦国乱世となった。もちろん、江戸時代も、最後は戊辰戦争という内戦になったが、諸外国の植民地として喰い荒らされる前に、それをくい留めたのは、攻める側、守る側のモラリティだろう。武家に限らず、商家や庶民まで、幼少から寺子屋や道場でしっかりした人格者たちから人の道を説いて聞かされ、めざすべきところとしてのコンセンサスがあった。

しかし、今の時代、学校になにか期待できるだろうか。そもそも先生たちからして不祥事だらけ。そうでなくても、先生は御立派であるべきだ、などという金科玉条の下、モンスタースチューデント、モンスターペアレントのわがまま放題の鬱憤のはけ口にされて、言い返すことも許されず、疲れ切って、辞めていく人ばかり。残っているのは、自分自身ではなにもしないくせに、ただ偉そうなことを言っているだけの教育ゴロ。どのみち、みんな人間的に不幸そうで、学生たちも、尊敬どころか、ああだけはなりたくない、と思っているだろう。

安定の政権与党から大企業中心の経済、ろくに勉強しなくても、推薦で進学できる有名学校。見てみろ、テレビや新聞で雁首を並べ、口角泡を飛ばし、もっともらしいきれい事を言い立てるが、裏では人に言えないことばかり重ねている政財界、文化人の空虚で醜悪なブヨブヨの自己肥大連中を。そして、そんな腐って崩れたやつらにおべんちゃらの限りを尽くす卑屈なマスコミ連中を。こんなアンシャンレジームが続く限り、日本は静かに沈んでいく。さいわい、いまさら武装してそれを破壊し革新する勢力も無く、これが壊れるとすれば、外国の侵略か、国内の災害くらいしかあるまい。なんとも平和で喜ばしいことだ。

だが、それでも私はリンゴの木を植える。それは、世の中を良くしよう、日本を変えようなどという大志とはほど遠い。むしろ自分ひとりの保身だ。いくらカネが稼げても、いくら地位が得られても、こんな腐って崩れた時代の風潮に流されて、貴重な一度限りの一生、自分自身を腐らせ崩して、生ゴミのようにムダに費やすことだけはしたくない。どのみち、自分は世間より先に去って行く。そして、いつかだれかが木になったリンゴを見て思うところがあれば、というのが、ほんのわずかの、小さな望みか。