松永浩美が語る山田久志 中編

(前編:山田久志が「悪魔みたいだった」場面とは?>>)

 かつて阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)などで活躍した松永浩美氏に聞く山田久志氏とのエピソード。その中編では、自身の成長につながったというマウンド上での会話や、阪急の身売りが告げられた日、山田氏の現役最後の試合での裏話などを聞いた。


1989年3月、オープン戦で引退試合を行なった山田久志(左)と福本豊 Kyodo News

【マウンドでの「帰れ!」「来い!」に戸惑い】

――サードを守っていた松永さんが、マウンドにいるピッチャーに声をかけにいくシーンはよく見ましたが、山田さんに声をかけにいくこともあったんですか?

松永浩美(以下:松永) ありましたよ。マウンドに近いということもあるし、間をとった方がいい時などは、先輩・後輩も抜きにして「タイムをかけてマウンドに行け」とベンチにも言われていましたから。

 ある試合で、山田さんがフォアボールを出した時にマウンドに行ったことがあったのですが、その時に「来なくていいんだよ! 帰れ!」と言われたこともありました。本来であれば、山田さんがフォアボールを出すようなバッターじゃなかったので、「間をとったほうがいいかな」と思ったのですが......。基本、山田さんは機嫌の良し悪しがない方なんですが、そのことがあって以来、しばらく会話する機会は少なくなりました。

――山田さんに怒られてシュンとしてしまった?

松永 いや、どちらかというと、頭にきたのは私のほうです。「せっかくタイムをかけてマウンドへ行ったのに......」と思っていましたから。それからだいぶ経ったあと、試合中に山田さんが私のほうを見て「来い!」とマウンドに呼ばれたんです。そうしたら今度は、「ここはタイムかける場面だぞ!」と。ただ、ロジンバッグを手に取った山田さんに「もう帰れ」と言われましたけどね。

――山田さんにはどんな意図があったのでしょうか。その後に話をしましたか?

松永 その試合後に聞きましたよ。山田さんは「前に『帰れ!』と言ったのと、今日『来い』と言ったのでは意味が違うんだ。マツはフォアボールを出した時にタイムをかけてきたけど、あれは必要のないタイムなんだよ」と。その理由を聞いたら、「あれはわざと出したフォアボールなんだ」と言うんです。

 フォアボールを出した時は一死・二塁の状況だったのですが、山田さんとしては、対峙しているバッターよりも次のバッターのほうがゲッツーで打ち取れると考えていたようで。実際、次のバッターを思惑通りゲッツーに打ち取っているんです。

 一方で、私をマウンドへ呼んだことに関しては、普通に「苦しい状況だったから、間をとってほしかった」とのことでした。

――大エースである山田さんだけに、その違いを見抜くのは難しかったんじゃないですか?

松永 最初は迷うこともあったのですが、山田さんのマウンド上でのしぐさを観察しているうちに、なんとなくわかるようになってきたんです。本当に苦しくてフォアボールを出しているのか、気持ちに余裕があって戦術的にわざと出しているのか。その違いが徐々に理解できるようになって。なので、マウンドに行ってピッチャーに声をかけに行くタイミングは、山田さんに教わったと言ってもいいですね。

【エラーが続く松永に「お前、勘違いしてないか?】

――山田さんが試合中に教えてくれたことは、他にもありますか?

松永 私が22歳ぐらいで試合に出始めた頃だったんですが、山田さんが投げる試合で緊張してしまい、よくエラーをしていたんです。そんな時に「お前、勘違いしてないか? 俺が投げる時にはエラーをしてはいけないって思ってないか?」と言われたことがあったんです。

 それで私が「当然じゃないですか。山田さんはエースですし、山田さんが投げる時は絶対に勝たなきゃいけません」と返したら、「マツ、プロに入って何年目だ?」と。「お前のミスぐらい、俺はいくらでもカバーできる。ミスは計算に入れているから、俺が投げている時のエラーは気にしなくていい」と言ってくれて。父親が自分の子供を見守っている感じというか......。

 おそらく半分は本当で、半分は違ったんじゃないかと。単純に、私の気持ちを楽にさせてあげようという狙いもあったんじゃないかと思います。ただ、「マツが成長して、マツよりも若いピッチャーが投げている時のエラーは、若いピッチャーにはこたえるよ」とも言われました。それから、エースよりも、若いピッチャーが投げている時のほうが守っていて緊張するようになりましたよ。

――山田さんが投げる時の試合では、楽に守備ができるようになりましたか?

松永 ものすごく楽になりました。「エースが投げるからミスしちゃいけない。勝たなきゃいけない」という力みがスッとなくなりましたから。山田さんと意思が通じる感覚もあって、すごく成長できた実感がありました。私は内野にコンバートされたばかりで、内野の守備にそれほど自信がない時でしたし、山田さんのひと言でかなり変われたと思います。

 昔は、同じチームでも投手と野手が交流する機会はほとんどありませんでしたが、そこからは山田さんに話を聞きにいくことも増えました。例えば、「ランナーがスコアリングポジションにいる時、どんな球から投げますか?」など、ピッチャー心理に関する質問をすると、山田さんが「こういう球から絶対に入らなきゃいけない。オレだったらこういう球から投げる」といった話をしてくれました。

 打者として同じようなシチュエーションになった時、それがほぼ当たっていたんです。山田さんとの会話で勉強になったことは本当にたくさんあって、そのひとつひとつがプロ野球選手としてのレベルを高めるきっかけになりました。

――松永さんがベテランになってからも、山田さんからの教えは生かされた?

松永 若いピッチャーが不安そうに投げていたら、パッとマウンドに行って「俺のところに打たせろ。ゲッツーとってやるから」と声をかけたり、野手も含めて若手に対しては不安を払拭するための言葉を意識していました。

【引退登板の試合が、阪急の最後の試合に】

――山田さんの現役最後の試合(1988年10月23日、西宮球場でのロッテ戦)でも、松永さんはサードを守っていましたね。

松永 内野陣でボール回しをしたあと、いつもはブーマー(・ウェルズ)などファーストの選手からピッチャーの山田さんにボールを渡していたのですが、この現役最後の試合では私から渡したんです。その際に、「今日は勝負関係なく、このマウンドをゆっくり楽しんでください」と伝えました。

――山田さんは何か言っていましたか?

松永 「マツ、ありがとう」とニコッと笑ったんですよ。あの時の山田さんとの会話、表情は今でも忘れられません。

――山田さんの現役最後の登板は、奇しくも阪急としての最終戦でもありました(同年10月19日に、現オリックスのオリエント・リースが阪急を買収)。

松永 そうなんですよね。ご自身の引退はもちろん、阪急の身売りの件も重なって......。なので、試合開始のタイミングで私がかけた言葉なんて、覚えていないと思いますよ。その後にお会いした時も、「マツ、最後に言葉をかけてくれたよな」なんて会話は一切したことがありませんから(笑)。

――阪急の身売りを知った時、山田さんはどんな反応でしたか?

松永 あれは、確か1988年10月19日だったのですが、私たちは練習日でした。球場のロッカーに行ったらすごくザワついてて、球場の外にはいつもと違って車が多かった。そのうち、誰かが「身売りらしいですよ」と言ったので、私は「ロッテが?」と聞いたんです。そうしたら「うちですよ」と言うもんだから「はっ⁉」となって。

 周囲を見たら、山田さんと福本豊さんの姿がなかった。監督室に行って、阪急の身売りの話を聞いているとのことで、ロッカーに戻ってきた山田さんたちに「身売りなんですか?」と聞くと、山田さんは肩をがっくりと落としていて......。あぁ、本当なんだなと察しました。

 近鉄とロッテが「10.19」で劇的な試合をやっている日の発表でしたし、そういう試合に水を差すようなタイミングで、「なんでこの時期なんだ」という思いもありました。信じられなかったですね。

――阪急の"顔"だった山田さん、福本さんの現役最後の試合も、阪急の最後の試合と重なったんですね。

松永 そうですね。ただ、チームが弱くて、状態がガタガタになったから身売りしたというわけではなく、強い阪急のままで終われた。それは、今思えばよかったのかなと思います。

(後編:山田が清原和博を「痛めつけていた」理由 一方で松永は、阪急の大エースに「頭付き事件」を起こしていた>>)

【プロフィール】
松永浩美(まつなが・ひろみ)

1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。2019年にはYouTubeチャンネルも開設するなど活躍の場を広げている。