タクシー不足と人権問題:なぜ在日だらけだったのか/純丘曜彰 教授博士
マスコミも在日だらけだから、このことを知らないわけがあるまい。だが、みんなだんまりを決め込んでいる。しかし、それでは根本的な解決にはなるまい。まして、12月4日からは人権週間だ。古くて今も続くこの問題の背景を考える必要がある。
梁石日原作、崔洋一監督の『月はどっちに出ている』(小説1981、テレビ・映画93)にあるように、既存タクシー会社、とくに都市部の多くは在日系だった。その運転手にも、かつて在日を多く取り込んでいた。もちろん、あれから数十年を経て、いまや在日も、三世、四世となり、日本国籍に帰化している場合も少なくないだろう。が、いまでもマスコミ同様、おたがいいまだになにか暗黙で理解できるところがあり、微妙になにかわかるところを隠し込むらしい。たとえば、2013年に大当たりした朝の連ドラの『あまちゃん』のピンクベストの父親が個人タクシーの運転手で、それもそのタクシーが日本では珍しいヒュンダイの高級車だったりする。
タクシー業界に外国人が多いのは日本だけではない。ヨーロッパでもトルコ系などが多い。これは、タクシーがモータリゼーションのニッチであったというだけでなく、「運転手」というものを、「家政婦」などと並んで、カネで雇えば言うがままに使えるパートタイムの「使用人」のようなものと見なしてきたからだろうか。実際、現在の日本でも、タクシー運転手の年収は、国の免許資格を取得している専門技術者であるにもかかわらず、平均年収に較べてかなり低い。これは、会社そのものに余裕が無い、という場合もあるだろうが、また、会社自体も、運転手たちを下に見て、労働分配率を低いままに留めてきた、と問題もあるだろう。
在日差別は、表向きは以前よりはだいぶ薄らいだことになっている。公の場で、あからさまに彼らに差別的な言動をする者は、かなりの問題人物だろう。だが、映画の『紳士協定』(1947)や『招かれざる客』(1967)にあるように、表から消えても裏には残る。私も、以前、人権問題などを扱う報道番組の制作に係わったことがあったせいか、下衆の勘ぐりで「在日」とかってに決めつけられ、さんざんな目にあったことがある。某編集者にも、わけのわからない陰湿な暴言をずいぶんねちねちと浴びせられたが、後で知ると、彼自身の方こそ、じつはむしろモノホンの在日だった。彼らの間ではかくも問題は過酷で複雑なのか、と、番組制作当時では思いもよらなかった実態の深刻さをあらためて思い知らされた。
まして、タクシーは密室だ。酔っ払いなどの厄介な客も多い。『月は』のエピソードにも出て来るように、そんな差別や暴言にいちいちまともに取り合うこともなく、受け流すようにもなるだろうが、それでもそれが毎度のこととなれば、メンタルにはキツかろう。きょうび、半島国籍のままでも、むしろ暗黙に優遇される面さえあるようなマスコミを含めて、いろいろ仕事が選べるのに、わざわざ給与も安い、へたをすれば同じ在日同士でも社内の上下差別があるかもしれないタクシーの運転手に新規になりたがる若者は多くあるまい。それで、ひたすら高齢化。だから、いくら在日世襲の経営者にしても、これでは先が見えず、廃業するところも出てきている。
一方、訪日外国人の増大とともに、じつはすでに「白タク」が横行。営業許可を受けていない白い自家用車用ナンバープレートのままで駅や空港、観光地から人を運ぶ違法商売。これも、さまざまな外国人がやっている場合が多いという。言葉がわからないから、傍目には知人の迎えなのか、客引きなのか、判別できない。訪日外国人からすれば、英語も半端な日本の正規タクシーより、ネイティヴで言葉の通じる同胞の方が都合がいい。これを政府は「ライドシェア」と言い換えて、オープンに解禁しようとしている。かつて強固な既得権益となっていた在日タクシー業界も、もとよりもはや需要を賄える運転手数を揃えられないのだから、譲歩するかもしれない。
だが、冷静に考えてみろ。安全性がどうこう以前に、まともなタクシー会社の安価なLPガスの車、その効率的な無線分散配車ですら、もはや採算が合わないのだ。ライドシェアがタクシーと同等料金なら、日本の高額なガソリンや高速道路を使って、シロウトの片手間でペイするわけがない。可能性があるなら、ヒッチハイクの有料版で、もともと自分が行く予定だったところに、ついでに人を乗せて、割り勘にする、という程度のこと。現在の白タクも、それに近い、同一目的地への詰め込みで、むしろ身元の知れる同胞しか乗せていないだろう。
また、タクシー業界が許容しても、事故や事件の際の乗客の安全性の問題から反対する人々もいる。それもさることながら、私はむしろ乗せる側が心配だ。以前、家の近くの住宅地のまんなかで、タクシーの運転手がナイフで刺されて死んでいた。車は、密室だ。あれだけタクシー会社が現在位置を無線その他で把握し、ドライバーシートの裏に鉄板を入れる、催涙ガスやスタンガンを携行する、などの防犯対策をしていても、『自転車泥棒』(1948)のように、乗客側に土地勘があって仲間が待機しているところに引き込まれれば、いいように犯罪に巻き込まれる。
自分のその一人とはいえ、私は、外国人以上に、この国の人々のモラルを信じていない。おもてづらはいいが、裏では何をするかわからない。予算は中抜き、工事は手抜き。経営トップですら、陰ではセクハラ、パワハラのオンパレード。保険金詐欺、助成金詐欺のようなことまで組織的に平然とやる。ネットでは匿名で陰湿な誹謗中傷がはびこり、政治家や著名人でさえ、実際に車内で運転手を罵倒した事件が、録音録画されているだけでも数え切れない。仕事の機会に恵まれなかった在日の人々しかやらなかった、そしていまや彼らもやりたがらない運転手を、不景気で荒んだいまの日本の人々が、車という密室で、カネを払う客という立場を与えられて、まともに人間として扱うとは、とうてい思えない。
若いころ、貧乏学生の身の上で、ヨーロッパの町から町へ何度もヒッチハイクをやった。へたな現地語を話すへなちょこの外国人は、長距離ドライブのヒマつぶしとしては、ドライバーとしてもおもしろかったのだろう。田舎で年寄りのよたよた車に乗せてもらったこともあったし、運転手が次の行き先のトラックを紹介してくれたこともあった。ただの観光ではわからないような生活の実情もいろいろ教えてもらって、とても勉強になった。
車は家と同じだ。タクシーでも、深夜は恐いから、身元のはっきりしているテレビ局の伝票客しか乗せない、という運転手さんは少なくなかった。いまの時代、誰でも乗せるオープンなビジネスとしてのライドシェアではなく、むしろ白タクのように、ドライバーの側も対等に客を選んで乗せられるような、もっと繊細なシステムにはできないのだろうか。うまく活用すれば、双方向の語学勉強や国際交流、異業種の情報交換や同郷人のふるさと話など、車は、もっと人間的な出会いの場としての可能性がある。運転する側も人間だ。いくらカネを出すにしても、ドライバーは奴隷ではない。