1945年に日本は終戦を迎えました。その前から東京の「通勤ラッシュ」は限界に達していたため、国は復興とともにこれを解決しようと試みたのです。

「脱・通勤地獄」プランは終戦前から作られた

 東京都心の鉄道は、地下鉄を除けば昭和戦前期には概ね現在のネットワークが完成していました。大正時代、第1次世界大戦、関東大震災後の郊外化を背景に郊外私鉄が次々と開業し、沿線開発と人口増加が続きました。

 その結果、東京府(当時)の人口は、1920(大正9)年の約370万人から1930(昭和5)年には約541万人まで急増。戦時体制に入ると軍需景気でさらに人口集中が強まり、1940(昭和15)年には約735万人にまで達しました。鉄道各線は通勤客で大混雑し、日本初の「時差通勤」が行われたのも、実は戦時中のことです。


1963年当時、混雑する新宿駅ホームと電車(画像:新宿区)。

 しかし戦争末期、東京への空襲が始まると都心は焼け野原となり、疎開や避難で人口が流出。終戦時、1945(昭和20)年には約349万人と半減していました。鉄道の被害も甚大で、特に1945年5月25日夜に行われた大空襲では、国鉄、私鉄線の駅や車両が多く焼失しました。

 そんな中、戦後を見据えた「帝都復興計画」の検討が、密かに始まっていました。

 越沢明『東京の都市計画』によると、内務省国土局計画課長の大橋武夫は1944(昭和19)年11月、大規模な本土空襲の開始を受けて戦災復興計画の必要を感じ、「戦争に勝っても負けても、日本国を復興させなくてはいけない」との考えから翌年春までに復興計画の骨子をまとめました。

 そして終戦直前の8月10日、降伏を事前に知った大橋は空襲に備えた防空計画の中止を命じ、復興計画に着手させています。こうして日本中が失意と安堵に包まれるなか、新たな都市計画は意気揚々と動き始めたのです。

 復興計画の骨子は次の通りです。東京は政治、経済、文化の中枢であるとした上で、過大都市の弊害を防止するため、工業地帯や教育機関を東京圏外に分散させ、都心への一極集中を防ぎます。都心の周辺には大規模な緑地帯を設け、風致を保存するとともに都市の野放図な拡大を食い止めようとしました。

 前述の通り、戦前の20年間で人口が爆発的に増加したことで、住宅地の不足、環境の悪化、交通機関の混雑など様々な問題が発生していました。そこで都心(23区)の人口は「300万人、最大でも500万人」に留め、それ以外は衛星都市、外郭都市に分散居住を図り、都心と各都市を鉄道や道路で接続するとしました。

終戦後を見据えた「脱・一極集中プラン」の顛末は

 しかし壮大すぎる東京の復興計画は実を結びませんでした。連合国占領軍(GHQ)から「敗戦国にふさわしくない計画だ」として不興を買ったこともあり、東京都市圏まで射程に入れた計画は、財源不足で駅前を周辺とした小規模な事業の集合体に縮小。さらに動き出しが遅れたせいで、焼け跡には既にバラックやマーケットが立ち並んでいたのです。

 終戦時の現都区部の人口は約278万人。そこからぐんぐん急増し、2年後の1947(昭和22)年に約418万人、1950(昭和25)年に約539万人となり、当初案の最大値「500万人」をあっさりと突破してしまいます。


急増する東京および周辺3県の人口(総務省・東京都の人口統計から筆者作成)。

 1955(昭和30)年には約697万人に到達。これをふまえ、東京単独ではなく首都圏全体の開発計画を定める首都圏整備法が制定され、同法に基づき1958(昭和33)年に「首都圏基本計画」が策定されました。
 
 この計画は戦災復興計画の理念を引き継ぎ、都市機能の分散や幅10kmにおよぶ「近郊緑地帯」の設定など市街地拡大の抑制が盛り込まれました。

 しかしふたを開けてみれば、高度成長の人口増加は戦前以上のものでした。東京都心から同心円状に10km間隔で区切った区域の1955年と1970(昭和45)年の人口を比較すると、
【 0〜10km】409万人→375万人(0.92倍)
【10〜20km】402万人→786万人(1.96倍)
【20〜30km】175万人→538万人(3.07倍)
【30〜40km】166万人→575万人(3.46倍)
つまり、遠方に行くほど急激に増加したのです。戦前の都市計画が戦争になし崩しにされたのと同様に、戦後の首都圏整備計画もやはり高度成長の勢いを抑えることはできませんでした。

国が結局止められなかった「やばい通勤ラッシュ」地獄

 通勤利用者が増加し、都市圏の拡大で利用距離は長くなります。これに対応すべく国鉄は1960年代以降「通勤五方面作戦」に着手。中央線・東海道線・総武線・常磐線・東北線を複々線もしくは三複線化し、各駅停車と中距離電車を分離することで、1955年から1970年まで輸送力を19.7万人から29.8万人に増やします。


中央線と総武線は快速線と各駅停車に分離され、各駅停車は直通運転を行った(伊藤真悟撮影)。

 しかしふたを開けてみれば、輸送人員も49.1万人から71.6万人に増加。混雑率は250%前後で横ばいのままに終わりました。

 首都圏の無秩序な拡大に抗ってきた都市計画も、1965(昭和40)年の「第二次首都圏整備計画」で緑地帯が廃止され、東京一極集中を事実上、追認する形となりました。

 1970年代以降、東京都の人口は1100万人強で横ばいとなり、その後の人口増加は神奈川、埼玉、千葉が中心となります。3県の人口は1970年の約1270万人から、1975年に約1537万人、1980年には1708万人へと増加し、バブル期まで増え続けました。

 これにより、それまで都心30〜40km圏の「国電区間」が中心だった通勤圏が、優等列車や長距離列車が主体となる区間まで延びてしまったのです。

 過度な人口集中は都市全体の効率をかえって落とすばかりでなく、鉄道においても朝ラッシュ偏重の非効率な輸送体系をもたらします。国鉄は鉄道ネットワークのあり方を根本的に見直さざるをえなくなりました。その結末については、稿を改めて紹介したいと思います。