片扉の狭幅車体にゴツいブレーキ… 京王井の頭線3000系“追憶の初期型”はいま、北陸で最後のとき
北陸鉄道8000系第1編成が、京王井の頭線時代の塗装で運行されています。特徴は昭和時代の通勤電車で見られた片扉。この車両が北鉄へ渡る前の最後の冬、井の頭線利用者だった筆者は通学前に、フィルムカメラ片手に追いかけました。
同形式で7色のカラーバリエーション
石川県の北陸鉄道が創立80周年を記念し、浅野川線で使われる8000系電車8801編成に、京王井の頭線時代のカラーリング(ブルーグリーン色)を施して運行しています。それもそのはず、8000系は京王帝都電鉄(当時)井の頭線で使われた3000系電車であり、1996(平成8)年から北陸鉄道へ譲渡されたのでした。とはいえ製造は1960年代。車齢が60年を迎えた2020年には置き換え対象となり、5編成あった8000系はすでに3編成が引退しています。
前出の8801編成とすでに引退した8802編成は共に、井の頭線時代は3000系の第1、2編成でした。特徴は片開きドア(片扉)の狭幅車体。2023年現在、片扉の通勤電車は都市部で見かける機会はほとんどありません。
背後の下北沢駅から下り勾配を駆け下りて新代田駅へ進入する、京王3000系第1編成の富士見ヶ丘行き。渋谷行きの広幅車(2844mm)と比べて車体幅が狭く2744mmである。下北沢〜新代田間(1995年12月、吉永陽一撮影)。
私(吉永陽一:写真作家)は通学で井の頭線を毎日利用していたため、3000系(8000系)は懐かしく思い入れがあります。特に第1、2編成は、広幅車体に両開きドアを採用した第3編成以降とは異なったフォルムの希少な存在で、思い入れが強かったのです。しかし運行は平日朝のみ。そうしたなか、新型1000系電車導入による置き換えが耳に入り、利用者目線から記録しておこうと1995(平成7)年の冬、通学前に撮影してから高校へと通う“朝活”が始まりました。
そもそも3000系は1962(昭和37)年に登場したオールステンレスカーです。アメリカのバッド社からステンレスカーの技術導入を受けた東急車輛製造(当時)が、ライセンスを得て製造しました。
前面は「湘南顔」と呼ばれる2枚窓で、その周りには着色FRPを装着。編成ごとに色が違い、7編成でレインボーカラーを構成するのが最大の特徴です。それぞれブルーグリーン、アイボリー、サーモンピンク、ライトグリーン、バイオレット、ベージュ、ライトブルー。同一形式は同色、もしくは路線ごとに統一されるのが一般的ななか珍しい存在であり、銀色ばかりで単調なステンレスカーにおいて鮮やかなカラーアクセントとなりました。
製造時期による差 編成美が崩れる!?
3000系の製造は1984(昭和59)年までと23年間の長きに渡り、狭幅車の第1、2編成だけでなく広幅車でも、製造時期によって若干の差異がありました。外見を例にとれば、第3〜9編成はドアがHゴム支持であったり、第20〜29編成は側面のコルゲート(波板)位置が若干下がっていたり。後年に側面がレインボーカラーの帯で巻かれたとき、第20編成以降は側窓とコルゲートの間に帯が巻かれ、一見して区別がつきました。
第1、2編成の先頭車は最後までパイオニアPIII-703形台車を履いていた。外側ディスクが車輪の外側を覆う独特の形状であった。富士見ヶ丘検車区にて許可を得て撮影(1995年12月16日、吉永陽一撮影)。
また屋根上の冷房装置にも差異がありました。第14、15編成は1969(昭和44)年の新製時より冷房装置が取り付けられ、1両につき分散型冷房機を6基連ねた冷房試作車としてデビュー。新製時は非冷房であった第1〜13編成も、1970(昭和45)年より冷房化工事が実施され、先頭車は集約分散型冷房機を4基、中間車は集中型冷房機を1基搭載し、第16〜17編成も新製時から同様の組み合わせとなりました。第18編成以降は全車が集中型冷房装置となります。
さらに編成数にも変化がありました。第1〜15編成までは4両編成で登場していましたが、1971(昭和46)年の井の頭線5両編成化によって中間車デハ3100形を新製して増結。デハ3100形は広幅車の両開きドアで、ドア部分は金属支持のため、第3〜9編成においてはHゴムドアが連なるなかに1両だけが異なる格好となりました。片扉の第1、2編成に至っては、デハ3100形の車体幅が広いために側面が膨らみ、なおかつ両扉であったために編成美が崩れました。
ほかにはパンタグラフや台車にも違いが見られ、鉄道ファン目線では、一見同じフォルムをした形式の差異を観察するのも楽しみのひとつでした。例えば台車については、最後まで古いタイプを使用していたのは第1、2編成の先頭車です。外側ディスクブレーキのためにディスク面がギラっと光っていたのをよく覚えています。ただし北陸鉄道に譲渡された際に履き替えられたため、現在では見ることができません。
譲渡にあたり大きなスノープラウを装着
さて、様々な差異のあった3000系一族のなかで、一際気になる存在だった第1、2編成は、“朝活”といっても日によって運用が異なるため、毎日撮れたわけではありません。それに当時のカメラはフィルムです。フィルムは現代よりも安価でありましたが、学生には負担が大きく、1日数枚と決めて撮っていたと思います。そのためフィルム時代は何かとカット数を節約しながら、チャンスを確実に仕留める心意気で撮っていたような……。
現在の下北沢駅周辺の高架橋は架け替えられているが、以前はデッキガーダーであった。下回りを仰ぎ見ることができるので、パイオニアPIII-703形台車を狙った。第1編成の外側ディスクが鈍く輝く(1995年12月、吉永陽一撮影)。
運行ダイヤはパターン化されており、平日朝7時台から8時台を狙っていれば、ある程度出会うことができました。冬の朝日が昇りきる前から沿線に待機し、吉祥寺行き、富士見ヶ丘行き、渋谷行きと、上下線を往復する第1、2編成を追い続け、朝ラッシュの渋谷方面は片扉の大きな窓に人々が圧し合う光景が印象的でした。
第1、2編成は、新形式の1000系電車デビューによって廃車となりました。1995年の冬は富士見ヶ丘検車区(東京都杉並区)で1000系の第1、2編成と並ぶ姿があり、人生初の取材申請まで行って撮影したほどです。前出の通り3000系の第1、2編成は翌年、北陸鉄道へ旅立って行きました。
北陸鉄道浅野川線は2両で1編成を組むため中間車は使用されず、京王重機工業で先頭車の電装化が施されました。パンタグラフのほか雪国らしい大きなスノープラウが装着され、随分と印象がごつくなりました。浅野川線に渡った片扉車はいま、最後の走りを見せています。