明治の汽笛再び! 豊洲に安住した流浪の機関車の正体 136年目で“歴史的な石の台座”に鎮座
明治時代に英国から輸入された、鉄道史の生き証人ともいえる蒸気機関車が、豊洲の芝浦工業大学附属中学高等学校に保存展示されました。136歳の同車はまさに流浪の人生。そんな功労者が“特別待遇”で迎えられました。
所属と改番を繰り返した403号機
全国に保存されている蒸気機関車は、大正から昭和期に製造された車両が多数です。かたや明治時代に輸入、または製造された機関車はそのほとんどが、大正末期から昭和中期にかけて廃車されており、保存車両は少数に。私(吉永陽一:写真作家)は、そうした明治の保存車両を見る度に「良くぞ残ってくれていた」と感心します。
今回紹介するタンク式蒸気機関車403号は、その中の1両です。長らく西武鉄道で保管されていましたが、ゆりかもめ新豊洲駅付近の芝浦工業大学附属中学高等学校公開空地(東京都江東区)に移設され、2022年11月12日(土)に除幕式が行われました。明治生まれの機関車が、都内で新たに展示されることとなったのです。
403号は高輪築堤の築石上に展示された。足回りは先輪+動輪2+従輪の1B1(英国式では2-4-2)。車輪部が赤塗装を施されているのは、鉄道院時代の当時を再現したという。日中は逆光の光線となる(2022年11月12日、吉永陽一撮影)。
まず403号のプロフィールを紹介します。この機関車は1886(明治19)年に英国ナスミス・ウィルソン社で製造され、日本へ輸入されました。日本へ到着後は鉄道局73号機となり日本鉄道へ貸し出され、その後日本鉄道へ譲渡されて20号機と改番した後、鉄道局へ返却されます。この「鉄道局」は国の組織(官設鉄道)、「日本鉄道」は現在のJR東北本線などを建設した私鉄であり、明治の鉄道黎明期から存在した機関車というわけです。
1899(明治32)年、今度は房総鉄道(現・JR外房線の一部)へ譲渡されて6号機となるも同鉄道自体が1907(明治40)年に国有化され、6号機は帝国鉄道庁所属となります。この時点で2回も、私鉄と国有鉄道を行き来したわけです。
帝国鉄道庁は翌1908(明治41)年に鉄道院へと変更。6号機は翌年の改番で400形403号機となり、ここに今回の保存展示の番号となります。1914(大正3)年に鉄道院から廃車となるも、解体は免れました。その後も譲渡と改番を繰り返していきます。
なぜ、豊洲に来たのか
403号は同年、川越鉄道へ譲渡されます。川越鉄道は後の西武鉄道国分寺線と新宿線となる路線です。403号は川越鉄道5号機となりますが、やがて川越鉄道は西武鉄道へと合併。5号機も会社と運命を共に今度は西武鉄道4号機となります。
4号機は太平洋戦争後も活躍し、1961(昭和36)年からは埼玉県北西部にあった上武鉄道へ貸し出されました。しかし1965(昭和40)年にとうとう廃車となり、英国から輸入された79年後に火を落としました。
これだけ譲渡と改番を繰り返したというのは、あちらこちらで使い勝手の良い機関車であったからといえましょうか。ただ、この機関車の“流浪の人生”はここで終わりません。所沢市のユネスコ村(初代)に静態保存されたのですが、1990(平成2)年に同園が閉園となってしまい、今度は西武鉄道横瀬車両管理所にて保管されます。余生は西武鉄道4号機の状態で平成、令和と静かに眠っていたのでした。
横瀬が終の住処になるのかと思われていた矢先、今回の新豊洲へ移転という大きな動きがありました。
では何故新豊洲へ移転となったのか。それは除幕式の中で、芝浦工業大学附属中学高等学校の佐藤元哉校長が語りました。
「本校は創立100周年記念事業を進めるにあたり、前身の東京鉄道中学とのつながりを象徴するモニュメントは何かと考え、蒸気機関車の設置・展示を検討し、その実現に向け、2021年9月に委員会を立ち上げました」
ナンバープレートを忠実に復元!
同校は、日本初の鉄道開業から50周年の記念事業として1922(大正11)年に開校した東京鉄道中学が前身で、板橋から新豊洲の現在地へ移転し、2022年で100周年を迎えました。鉄道にゆかりのある学校の記念事業に相応しく、豊洲地域へ貢献し愛される存在として、産業遺産である蒸気機関車を設置しようと学校内で動き出したのです。
蒸気機関車の選定は難航しましたが、卒業生の縁によって西武鉄道4号機に白羽の矢が立ち、同校の熱意に応える形で西武鉄道が譲渡に踏み切りました。
ナンバープレートとともに復元された製造銘板は、製造当時の写真を元に文字配列も忠実に再現された。No302はナスミス・ウィルソン社の製造番号である。マンチェスターで製造された(2022年11月12日、吉永陽一撮影)。
譲渡にあたり、なるべく製造時に近い姿へ復原すべく、横瀬車両管理所内で修復作業を行いました。その際に同校の鉄道研究部員が塗装作業に挑戦することもあり、学校記念事業ならではの作業となりました。さらに機関車の番号は鉄道院時代の403号へ戻すこととなり、鉄道院で制定されていたナンバープレート「403 TYPE400」を忠実に復元。製造銘板とともに再現し、機関室(キャブ)内には紛失していた圧力計と水位計を設置しました。塗色も当時を再現したとのことです。
また傷みの激しい部分は撤去され、ステンレス板を張り付けるといった大きな手術も施され、4号から403号となった機関車は新製時のような輝きを取り戻し、新豊洲で除幕される瞬間を待ちます。
安住の地となる同校の公開空地は、豊洲6丁目第二公園にも隣接しています。式では関連イベント「ようこそSL祭り」が開催され、親子連れが除幕の瞬間を今かと待ち構えている中、司会者の掛け声に合わせ出席者が手綱を引きました。幕が引かれるや「403」のナンバープレートが輝きながら現れ、「ポー!ポ、ポー!」と少しかすれた甲高い汽笛二声が公園に響き渡ります。
土台に高輪築堤の築石を持ってきた
汽笛の音色は録音ではなく403号の生の音で、コンプレッサーで汽笛にエアーを送って奏でています。周囲の人々は「これが明治の機関車の汽笛か」とびっくりしている様子。拍手に包まれながら、403号が新たな地でお披露目された瞬間でした。
次いで流れたのは走行音。さすがに403号現役時の音ではなく、愛知県の明治村で動態保存されている9号機関車の走行を採音してアレンジしたものです。毎日正午と17時に流します。正午は午後も元気が出るような音調、17時は家路へと帰る音調とアレンジが2種類あるので、耳でも楽しめる保存機関車となっています。
除幕式の参列者。左から4番目が佐藤元哉校長(2022年11月12日、吉永陽一撮影)。
なお、土台となる部分には品川〜田町間の再開発事業で出土した、鉄道開業の海上築堤遺構「高輪築堤」の築石(つきいし)が使用されています。403号は輸入後すぐに日本鉄道へ“出向”したので高輪築堤を走っていないと考えられますが、同時期の遺構として港区教育委員会とJR東日本から寄贈されました。築堤を模した土台に展示される蒸気機関車というのは、私が知りうる中でここだけだと思います。明治時代を連想させる、なかなか味わい深い展示方法にしばし見とれていました。
「本校の生徒だけでなく、より多くの方々に見て触れてほしいです。機関車の構造にも興味をもってもらえたら、ものづくりの学校としては大変嬉しいですね」
佐藤校長は403号を見つめながら話します。403号はこれから学校の生徒のみならず、豊洲の地域の人々に愛されながら、流浪の人生を振り返るように余生を過ごしていくでしょう。いつまでも美しく保たれ、この場所が豊洲の新名所になることを願ってやみません。