戦前の展望車「マイテ49形」が2022年10月、京都鉄道博物館に保存されました。「特急列車の象徴」だった最後の“新製”1等展望車でもある同車は、戦争の時代を経て、どのような変遷をたどったのでしょうか。

戦争の時代を生き抜いたマイテ49形

 2022年10月、京都鉄道博物館(京都市下京区)へ新規に収蔵され、「特別なスチーム号」として動態運行した「マイテ49形」は、戦前の1等展望車です。御年80歳超え、動態運行は今回が最後だそうですが、「動くマイテ49形」に乗車もしくはその姿を一目見ようと、博物館は多くの人でにぎわいました。


京都鉄道博物館にて、「特別なスチーム号」として動態運行したマイテ49形(2022年10月、安藤昌季撮影)。

 さて、マイテ49形がどのような車両なのか振り返ってみます。かつて日本の特急列車は編成の最後に、1等展望車を連結したものが多く見られました。定期特急列車での運行は1912(大正元)年のオテン9020形が始まりです。

 この車両は、新橋〜下関間で運行された国内初の特急列車用(後の特急「富士」)として製造されたものですが、1923(大正12)年に車体を大型化したオイテ28070形、1930(昭和5)年に、鋼製車体のスイテ37000形に置き換えられていきます。

 そして1938(昭和13)年9月、初めての「丸屋根」を備えた1等展望車として、現在のマイテ49形にあたるスイテ37040形が登場します。これは最後に新製された1等展望車でした。

 しかし、スイテ37040形が1941(昭和16)年にスイテ49形へ改称して間もなく太平洋戦争が始まります。軍事輸送が最優先された結果、特急「富士」は第1種急行に格下げされ、1944(昭和19)年に廃止。特急展望車は不要不急の存在として、展望デッキを通常型デッキとし3等車に改造される予定でしたが、先に戦争が終わります。

 1945(昭和20)年、太平洋戦争の終結により連合国が日本に進駐。すると連合軍は高級軍人向けに、優等車両を提供するよう要求しました。

 スイテ49形1号車は軍用車両「SAN DIEGO」、今も残る2号車は「LITTLE ROCK」と名付けられます。この際、1等車の白帯をアメリカ軍人が気に入り連合軍専用車両の塗装としたので、日本側が1等車を復活させた際にも、識別帯がクリーム色になったそうです。

2号車のみ奇跡の復活

 スイテ49形は連合軍の要求で大改造されます。1号車は、旧1等室の部分に寝台と冷蔵庫、コンロ、トイレが設置されました。連合国はこの改装に満足せず、開放寝台を2人用と4人用の個室寝台に変更、シャワー室も設置します。

 しかしスイテ49形2号車は1949(昭和24)年に国鉄に返還されると、原型に戻した上で特急「はと」「つばめ」用に。その後、冷房化で車体重量が増したため1953(昭和28)年に「マイテ49形」へ改められます。1960(昭和35)年5月まで使われた後、廃車され交通科学博物館(大阪市港区)で保存されました。


マイテ49形の展望デッキ(2022年10月、安藤昌季撮影)。

 なお1958(昭和33)年の時刻表によれば、特急1等展望車で東京〜大阪間を旅するのに7640円が必要でした。同区間を3等の普通列車で移動すれば990円ですから、約7.7倍の代金が必要ということです。2022年現在、東京〜新函館北斗間を普通列車で移動すると1万2100円で、新幹線のグランクラスを利用した場合は約3.4倍の4万680円と考えると、とてつもない特別車両でした。

 一方、2両のマイテ49形のうち保存されなかった1号車は、連合軍からの返還後、車内の蛍光灯化、冷房取り付け、1等室の1人掛けリクライニングシート化がなされ、1963(昭和38)年まで外国人向け観光列車などで活躍しました。このまま廃車になると思われたマイテ49形でしたが、1987(昭和62)年に国鉄が分割民営化しJRになった際、イベント用車両として現役復帰。琵琶湖を回るレストラン列車や、「SLやまぐち」号のフリースペース車両として活躍し、2009(平成21)年以降は運行されなくなり、現在に至ります。

 2号車は2017年に全般検査を行っているので、2025年ごろまで走れるようにも思います。現役で走れる貴重な1等展望車の活躍を、今後も期待したいところです。