鎌倉にある比企能員の邸跡に建てられた妙本寺(写真:Toru Hodogaya/PIXTA)

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。ドラマでは佐藤二朗さんが演じる比企能員は、後に鎌倉幕府の実質トップとなる北条氏の最大のライバルでしたが、ある誤算をきっかけに没落します。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

源頼朝に約20年も仕送りをしていた比企尼

源頼朝と比企氏をつないだのは、比企尼(ひきのあま)という1人の女性である。比企尼がいかなる出自かは不明であるが、夫は比企掃部允(ひき かもんのじょう)という。掃部允が武蔵国比企郡(埼玉県)を拝領したことから、尼は夫とともに同地に下向する。今風に言うと、地方公務員の妻といったところだろうが、尼にはもう1つの顔があった。

それが、源頼朝の乳母という顔だ。乳母とは、実母の代わりに乳幼児に授乳し、養育する女性のこと。乳母は夫とともに、貴人を養育する役割を担うとされるが、尼はそれにふさわしい働きをすることになる。

頼朝は、自らも参戦した平治の乱(1159年)で平清盛らに敗れて捕縛され、伊豆国に流罪となった。頼朝が生まれたころに乳母をしていた尼は、それを聞くと「忠節」の想いが募り、夫とともに京都から比企郡に下り、そこからの収益で、頼朝に仕送りを続けたという。その期間は『吾妻鏡』によると、治承4(1180)年の秋までの約20年に及ぶ。

そのため、頼朝は尼に対し、感謝の念をずっと持っていたようだ。後に恩返しがしたいと尼に告げると、尼は「甥の比企能員を自らの猶子(ゆうし、実親子ではない2者が親子関係を結んだときの子)にしたい」と申し出る(『吾妻鏡』)。尼には男子はいなかったのだろう。

現代人から見ると「そんなことでよいの?」と疑問に思うかもしれない。「領地や金銭の拝領を願えばいいのに」と感じるかもしれないが、尼はそうしなかった。しかし、それによって、比企氏は領地や金銭を拝領する以上の「栄華」を謳歌することになる。

頼朝の嫡男・源頼家の乳付け役(初めて授乳させる役)に尼の次女(河越重頼の妻)が、そして乳母に能員の妻が選ばれたのだ。能員は、乳母夫となった。つまり、頼朝や頼家と非常に近しい立場に立つことになったと言える。

尼は鎌倉の比企谷に邸を持つことになるが、その邸で、北条政子は頼家を出産(1182年)していることからも、源家と比企氏の濃密な関係がわかろう。能員は平家追討戦に従軍したり、頼朝上洛の供をしたりしつつ、出世。頼朝死去後は、いわゆる「13人の合議制」のメンバーの1人に選ばれるまでになる。

頼朝が死ぬ前年(1198年)には、能員の娘・若狭局は、頼家の子(一幡)を産んでいる。比企氏と源家の縁はさらに深まったのだ。比企氏は源家とのみ縁戚になったのではなく、さまざまな御家人と婚姻関係を結んでいたが、そのなかの1人に北条義時がいた。比企朝宗(能員の義兄か、正確な続柄は不明)の娘・姫の前と義時は結ばれるのである。建久3(1192)年9月のことであるが、『吾妻鏡』に1つのエピソードが記されている。

源頼朝が仲を取り持った

まず、姫の前は「権威無双の女房」だったという。これは比企氏の娘であることが大きいし、姫の前が頼朝のお気に入りだったことによるだろう。それだけでなく、姫は顔も「美麗」だったようだ。よって、義時は結婚の1〜2年前から、姫に恋をしていたという。

いわゆるラブレターを何度も出し、恋を成就させようとするが、相手にされず。その話を聞いた頼朝が、「『離別してはいけない』との起請文を義時から取るので、義時の妻になってはどうか」と仲介し、姫の前は義時に嫁ぐことになった。義時は30歳であった。

余談となるが、このエピソードを含め、義時のことを「何もしない人」「2年間、義時は待った」と評する見解がある。しかし、それはあまりに義時を受動的な人間、棚ぼたで成功した人と決め付ける一面的な考えではなかろうか。

義時は何もしなかったわけではなく、姫に恋文を何通も送っている。その話を聞いたからこそ、頼朝も動いた面もあろう。筆者は、義時は「何もしない人」ではなく、努力し考えながら動く人であると思う。閑話休題。

頼朝としては、北条氏と比企氏が自分の死後、頼家を守り立てる体制を作っておきたかったのだろう。だが、目論みどおりにはいかなかった。

建仁3(1203)年7月、2代将軍の頼家は突如、発病。ひと月経っても回復の兆しは見られなかった。そうしたなかの8月27日、頼家の家督譲渡が突然、発表される。それは、頼家の長男・一幡に全国惣守護職と関東28カ国地頭職を、弟の千幡(後の3代将軍・実朝)に関西38カ国地頭職を相続させるとの内容であった。

本来ならば、長男の一幡にすべて相続されるものが、分割されたのだ。これは頼家にもまったく知らされておらず、頼家も比企氏も、北条氏による挑発として怒った。ちなみに、千幡の乳母は、北条政子の妹・阿波局であった。これにより、「頼家、一幡、比企氏」「千幡、北条氏」という対立軸を描くことができよう。

北条時政の謀略によって滅亡

さて、同年9月2日、能員は北条時政(義時の父)の討伐を病床の頼家に乞い、頼家もそれを認める。ところが、その密談を北条政子が障子を隔てて密かに聞いていたことから、北条方に漏れてしまう。

時政は比企氏討滅の策略をめぐらす。比企能員のもとに使者を送り「私の邸で薬師如来像の供養会を開催するので、参列してほしい。そのついでに雑談をしたい」と呼びかけたのだ。能員の親族は、訪問は危険だと諌めるも、能員は家来2人、雑色(下級の被官)5人という少人数、しかも鎧兜で武装せずに、時政邸に向かう。

そして、案の定、弓矢をつがえ、武装して待ち構えていた北条方に能員は殺されてしまうのである。能員惨殺の報は比企一族のもとにもすぐに届き、彼らは一幡の小御所に籠もる。 

しかし、北条方の軍勢がすぐに押し寄せてきて、戦いとなる。北条義時の姿もそこにはあった。戦は北条方に優勢で、比企一族とその与党は御所に火を放ち、自害して果てる。ここに比企一族は全滅したのである。

一幡の外戚として勢力を持つ比企氏は、北条氏から見たら、目の上のこぶだったろう。そのライバルを頼家の病という突発事を使い、滅ぼしにかかったのだ。比企氏が持つ所領は少なく、その権力基盤は婚姻と頼家という存在だけであった。よって、頼家が病に倒れたとき、比企氏の権力はもろくもついえ去ったのである。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)