かつて江戸の街では「富突」という幕府公認のギャンブルが行われていた。最盛期には2日に1人のペースで億万長者が生まれた。歴史家の安藤優一郎さんは「元々は寺社がお守りを配る宗教行事だったが、ギャンブル性を高めたことで大流行した。その背景には、幕府の財政難があった」という――。

※本稿は、安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

「富札」=国立国会図書館蔵
湯島天神が主催した富突の当選金一覧表 - 「富札」=国立国会図書館蔵

■江戸っ子が熱狂した幕府公認のギャンブル

江戸っ子が夢を託した娯楽イベントに、寺社が幕府の許可を得て主催した富突(とみつき)がある。なけなしの銭を集めて富札を買い、一獲千金を夢見た。

富突はまさしく江戸の宝くじであった。いや、今の宝くじよりも庶民はもっとのめり込んでいたかもしれない。

購入した紙の富札には、「子(ね)(ネズミ)の八十八番」などの番号が付けられていた。当たり札を決める抽選会の際に、発売された番号の札(桐製)が箱に入れられ、その小穴から錐で突いて当たりを決める仕組みだった。

当たり札を突くシーンは時代劇で描かれることも多い。その後、当たり札をめぐって悲喜こもごものドラマが展開されるのがお決まりのパターンだ。富札の値段は後で詳述するが、今の価格にしてだいたい四千円から、高いものは一万円以上。

当たりの最高額は通例「一の富」で、百両から千両まで結構幅があった。現在の貨幣価値に換算すれば一千万円以上である。運よく千両が当たれば当選者は億万長者ということになる。

一等賞の「一の富」、二等賞の「二の富」、三等賞の「三の富」などに加え、現代と同じく前後賞(「両袖附」)や組違い賞(「合番」)、組違いの前後賞(「合番両袖」)まで設定することもあった。主催者はあれこれ知恵を絞り、購買意欲を高めようと目論んだ。

■最盛期には「2日に一度」

当たり札と当選金の関係はおおよそ次のとおりである。

錐で百回、当たり札を突くことになっており、一番目〜三番目、あるいは一番目〜五番目に突いた札の当選金は高額であった。

十番目ごとと、五十番目、百番目に突いた当たり札も高額である。特に「突留」と称された百番目の当たり札は、一の富よりも高額なことが多かった。それ以外の順番で突かれた札は「花」「平」と称され、当選金は低かった。

そんな富突が、江戸の町だけで最盛期には二日に一度ぐらいの割合で行われた。

いかに江戸っ子の間で人気があったかが分かるだろう。その盛衰と仕掛けの裏側を追っていく。(滝口正哉『江戸の社会と御免富』岩田書院。同『江戸の祭礼と寺社文化』同成社)

富突の興行で、どのくらいの金額が動いたのだろうか。

当選金を上回る金額が購入に使われたはずであるから、一回の富突で消費された全金額がゆうに千両を超えることも珍しくない。「一日千両落ちた」と称される芝居町や吉原に勝るとも劣らない数字だった。

そんなマーケットの大きさを反映するように、富突は様々なメディアで取り上げられた。とりわけ、庶民にとって身近な娯楽である落語の題材となることが多かった。

「御慶」というお題の落語は、湯島天神の富突で千両を当てた大工の八五郎を主人公にした滑稽話である。「宿屋の富」や「富久」なども有名だ。それだけ、江戸っ子には身近な「投資話」だった。小説でも取り上げられている。江戸のベストセラーとなった戯作者十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも富突の場面が登場する。

■300年前に誕生した御免富、ルーツは宗教行事

富突を興行するには、幕府の許可が必要であった。そのため、富突は「御免富」とも呼ばれた。

幕府公認の興行なので、主催する寺社の名前、富突を行う場所や日時、富札の販売期間などの情報が、町奉行所から江戸の町に向けて布告された。そんな御免富の制度がスタートしたのは今から三百年ほど前、元禄十三年(一七〇〇)頃という。

二千九十九番の札の持ち主は億万長者になれたか?(「富札」=国立国会図書館蔵)

そもそも富突のルーツは、摂津国簑面の瀧安寺で正月に行われた宗教行事・富法会だとされる。この行事は希望者に牛王宝印の護符を授けるものだったが、その抽選方法が実に変わっていた。

まず、各自の名前が書かれた木札を富箱と呼ばれた大きな箱に入れる。その後、寺僧が箱の上の穴から錐で札を突き、刺さった札に書かれていた名前の者が護符を授けられる仕組みだった。

この方式が、江戸時代に入ると畿内の寺社に広がる。授与されるものが御札から景品、そして金銭に変わっていく。

やがて、江戸でも宗教行事としての富突が行われるようになる。最古参は、谷中の感応寺や牛込の宝泉寺と言われるが、金銭が授与されるようになると、射幸心が煽られるのは避けられなかった。この富突がきっかけとなる形で、それをモデルとした博奕が流行してしまう。

したがって、幕府は元禄期(一六八八〜一七〇四)に入ると富突に似た博奕を禁止し、寺社が富突を行うこと自体も禁じた。金銭を授与しては博奕同然とみなしたからだろう。ただし、宝泉寺と感応寺の富突は宗教行事とみなされ、差し止められることはなかった。

■「富突」が流行したもう一つの理由

ところが先述のように、元禄十三年に幕府は御免富の制度を導入する。

富突を許可制とすることで、他の寺社の参入を認めた。みずからの懐を痛めないでも済む巧妙な助成策を取ったのだ。

やがて将軍吉宗による享保改革がはじまり、幕府の財政難を背景として支出を大幅に切り詰める倹約政策が断行された。御免富の制度を導入することで、堂舎の修復費の負担から逃れようとしたのである。

こうして、富突は寺社整備の資金獲得を目的とする興行へと変質していく。寺社側にしても短期間に大金を集められる富突は魅力的だった。ただし、幕府も際限なく許可したわけではない。当初はその数も少なかった。

急増したのは、明和三年(一七六六)に芝神明宮に対して富突を許可してからであった。質素倹約をテーマとした享保改革も終わり、射幸心を煽る興行を極力制限しようという意思が幕府内で弱くなっていたことが窺える。

写真=iStock.com/NicolasMcComber
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NicolasMcComber

その後、享保改革をモデルにして断行された寛政改革では、興行が再び制限されるようになる。御免富の数も減らされたが、寛政改革が終わって文化・文政期(一八〇四〜三〇)に入ると、状況が一変する。江戸の社会が爛熟を迎え、化政文化が花開いた時代であった。

文化九年(一八一二)に、幕府が寛永寺からの強い働きかけを受けて、感応寺のほか湯島天神や目黒不動での富突興行を許可したことがきっかけとなり、御免富の対象は拡大されていく。

ちなみに、感応寺、湯島天神、目黒不動での興行は「江戸の三富」と呼ばれ、富突の代表格として喧伝された。興行も毎月行われている。

■3カ月で45カ所の富突興行

そして文政四年(一八二一)に至り、年間で寺社十カ所(感応寺は対象外)に富突を許可することが決まる。財政難を理由に、幕府にゆかりのある寺社が助成を執拗(しつよう)に求めてきたことが背景にあった。

幕府に修復費などの助成を求める寺社側の切羽詰まった事情は分かるものの、その願いを一々認めていては際限もない。幕府の財政も到底持たない。したがって、富突興行を認める対象を拡大することで、助成を求める寺社の数を減らそうとしたのだ。

御免富を許可された寺社の数は増加していくが、同八年(一八二五)には一気に四倍以上にも増える。年間十カ所から原則四十五カ所を上限として許可したのである(定数に含めない特別枠の寺社もあった)。

回数の増加に伴い、幕府は富突の間隔を調整している。短期間に集中してしまうと共倒れになるからである。

それまでは毎月の興行が通例だったが、四十五カ所まで増やしたことを機に、それぞれ三カ月に一回(年四回)の興行に改められる。一カ月につき寺社十五カ所に富突を認めれば、三カ月で四十五カ所というサイクルになる。

ただし、江戸の三富(感応寺、湯島天神、目黒不動)は引き続き毎月の興行が許された。そのほか、浅草寺と回向院が行った富突も毎月の興行が特別に許されている。

■札屋が支えた富札の販売

御免富は主催する寺社の境内で行われるとは限らなかった。

出開帳のように、他の寺社の境内を借りて興行することもあった。地方の寺社が江戸で興行したり、江戸の寺社が京都や大坂で興行する事例もある。なお、富突の会場は本堂や拝殿が使用されることが多かったが、別に小屋を建てる場合もみられた。

一獲千金を夢見て富札を買った江戸っ子にとっては当選金もさることながら、富札一枚の値段が一番の関心事だったはずだ。いくら元手があれば億万長者になれるのか? その値段にはかなりのばらつきがあった。

安藤優一郎『大江戸の娯楽裏事情』(朝日新書)

感応寺など江戸の三富の場合は一枚が金二朱というから、一両の八分の一(およそ一万二千円)にあたる。庶民にはかなりの高額だった。他の寺社の場合はその半額の金一朱、さらに安い銀二匁(もんめ)五分(金一両=銀六十匁(もんめ)と換算して一両の二十四分の一)という事例が多かった。現代の貨幣価値に換算すると、約四千円となるだろう。

現在、宝くじは一枚三百円が相場であるから、結構高額と言えよう。江戸っ子にとっては、どんなに奮発しても一枚買うのがせいぜいである。

そのため、数人から数十人で共同購入する事例も多かった。この購入方式は「割札」と呼ばれた。発行枚数は富札の価格と連動している。富札が高額ならば総枚数は三千〜五千枚、低額ならば数万枚という計算になる。

富札は富突が行われる会場、つまり寺社の境内で購入するのが原則だが、実際は門前の茶屋などでも販売されている。江戸市中でも販売された。

場外売り場である販売所は「札屋」と呼ばれた。こうした販売方式は「中売」と称されたが、幕府はこれを認めない立場を取っていた。

■江戸っ子の娯楽、寺社の金策、幕府の財政難…

中売方式の場合、札屋側は原価ではなく、手数料を上乗せして販売することになるため、そのぶん高額となる。

しかし、幕府が許可を与えた興行である以上、高値での売買を見逃すわけにはいかなかった。「影富」で使われた札が販売されているのではという懸念もあった。

いずれにせよ、不正に目を光らせる幕府の立場からすると、販売所は限定されていた方が取り締まりやすい。

しかし、できるだけ多くの富札を売り捌きたい寺社側としては、境内での販売だけでは心もとない。実際、売れ残ってしまう。だから、販売所は多ければ多いほど望ましかった。買う側からしても、その方が購入しやすい。

興行数が大幅に増えた文政期には、一つの町につき販売所が三、四カ所もあった。そうした販売網の広さが富突人気、そして興行を支えていた。

富突を成功させるには、札屋などの営業力は不可欠だった。赤字を出さないことはもちろん、黒字つまり利益を得るためにも、できるだけ富札を売り捌いておかなければならない。よって、中売方式を認めない幕府の方針は骨抜きにされてしまうのである。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)