「賃金は低いが、物価は高い日本」になりつつある(写真:artswai/PIXTA)

急激な円安が進んだ結果、日本の1人当たりGDPは、韓国より低くなり、アメリカの半分以下になった。米韓との賃金格差も拡大している。

これらは、数字上の変化だけではない。日本人が実際に貧しくなり、日本の産業が弱くなったことを示しているのだ。

昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第74回。

円の購買力は60年代の値にまで逆戻りした

信じられないほどのスピードで円安が続いている。


この連載の一覧はこちら

今年の初めには1ドル=115円程度であったが、7月14日には1ドル139円となった(図表1参照)。

(外部配信先では図表などの画像を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)


ほかの通貨も減価している場合が多いが、円の減価ぶりは際立っている。

このため、ドル換算したさまざまなデータの値が大きく変わり、世界での日本の地位が大きく低下している。

円の購買力を示す「実質実効レート」は、図表1に示すとおりだ。

2022年5月では、61.77。これは、1971年頃とほぼ同じ水準だ。現在では、50台になっているはずだ。

この指数は2010年を100とするものなので、そのときに比べて、円の購買力が半分近くに減ってしまったことになる。

1ドル140円台になると、1960年代の値にまで低下してしまう可能性がある。

豊かさを表す指標である1人当たりGDPの値の順位も、為替レートの変動で大きく変わっている。

2020年の自国通貨建て1人当たりGDP(IMFのデータによる)を、最近時点の為替レートで換算すると、次のようになる。

1ドル=1316.35ウォンという7月中旬のレートを用いると、韓国の値は3万1902ドルだ。

他方、日本は、1ドル=139円なら3万2010ドルで韓国より高い。しかし、1ドル140円だと3万1782ドルとなって、韓国より低くなる。

台湾との間でも同様のことが起きている。

韓国や台湾の賃金上昇率は高いため、1人当たりGDPでいずれ日本を追い抜くと予想されていたのだが、円安によってその実現が早まってしまったことになる。

なお、アメリカの1人当たりGDPは7万6027ドルだ(IMFのデータ)。日本は、この4割程度でしかない。2020年には、日本の1人当たりGDPは、アメリカの6割強だった。わずか2年の間に、日本はアメリカの半分にも届かなくなってしまったのだ。

アベノミクスの10年間で貧しくなった

アベノミクスが始まる前の2012年の数字を見ると、日本の1人当たりGDPはアメリカと同程度であり、韓国の約2倍だった(図表2参照)。


この10年間に極めて大きな変化が起きたことがわかる。

ただし、2021年においても、日本の1人当たりGDPは、韓国より15.7%ほど高かった。その後の急激な円安によって、韓国が日本を抜いたのだ(なお、図表2の2022年の値は、IMFが推計した為替レートを用いており、韓国、台湾の値は、日本より低くなっている)。

賃金について、OECDが国際比較のデータを公表している。それによると、2021年における自国通貨建ての数字は、日本が444万円、韓国が4254万ウォン、アメリカが7万4737ドルだ。

これを先の為替レートで換算すると、日本が3万1714ドル(1ドル=140円の場合)、韓国が3万2316ドルとなる。

賃金については、数年前から韓国の水準が日本を上回っていたのだが、その差が拡大したことになる。

また、日本の値は、アメリカの半分にもならない。

企業の時価総額を見ても、日本が立ち後れている。

日本のトップであるトヨタ自動車は、世界第39位で2110億ドルだ。

これに対して、台湾の半導体製造会社TSMCは、世界第11位で4339億ドル、韓国のサムスン電子は世界第25位で2991億ドルだ。

日本の賃金が上がらなくても、iPhoneは値上がり

以上で述べたことは、数字上のものにすぎず、実際の経済活動や生活には関わりがないと考える人がいるかもしれない。

円の購買力がいかに低下しようと、日本で生活している限り関係はないと考えている人がいるかもしれない。

しかしそうではない。

円安によって、日本国内の物価は上昇している。

他方、賃金は上がらないので、日本人の暮らしは日に日に厳しくなっている。

日本国内で生産できないものの価格は、円安によって確実に上昇している。それを端的に示すのが、7月1日に行われたiPhoneの値上げだ。

最上位モデルのiPhone 13 Pro Maxは、それまでの13万4800円が15万9800円となった。2万5000円の値上げだ。

アメリカでの価格は変わっていないので、これは円安の調整だ。日本の価格をそれまでと変えないでいると、ドル建てでは割安になってしまう。そして、国際的な一物一価が成立しなくなるので、国際的な転売が生じる可能性がある。それを防ごうというものだ。実際、値上げ率(18.5%)は、今年初めからの円の減価率とほぼ同じだ。

なお、この点で、iPhoneとビッグマックは対照的だ。ビッグマックの場合には国際的な転売は起こらないので、国際的な一物一価が成立せず、賃金の低い国でビッグマック価格が安くなる傾向がある。

「ビッグマック指数」とは、現実の為替レートと国際的な一物一価を成立させる為替レートとの比率だ。

それに対して、iPhoneのように国際的転売が可能な場合には、日本の賃金が低くても、価格が値上がりしてしまうのである。

「安い日本」は、賃金や1人当たりGDPについては、依然として続いている。しかし、国際的に移動できるモノやサービスについては、状況が大きく変わってきているのだ。そして、「賃金は低いが、物価は高い日本」になりつつある。

日本で作れないものは、iPhoneだけではない。最先端半導体も作ることができない。

だから、そうしたものは、従来に比べ高い価格で買わなければならない。円安がさらに進めば、こうしたものは高すぎて、日本には買えなくなるかもしれない。

同じことが、国際的に移動できる労働力(例えば、高度専門人材)についても言える。日本の賃金が低いと、国際的な一物一価が成立しなくなるので、日本から海外に流出してしまうのだ。

元に戻せないのか?

では、こうした状況は、もう元に戻すことができないのだろうか?

それは、今後の日本の経済政策による。

何もしなければ、円安はさらに進み、上で見た状況が一層悪化するだろう。

しかし、金融緩和政策を変更して金利の上昇を認めれば、円安が止まり、円高に向かう可能性もある。そうすれば、上で見た状況は大きく変わるだろう。

ここ半年程度の経済政策が、日本の将来を決めることになる。

(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)