過酷労働でも月収20万、保育士たちが訴える窮状
賃上げ政策が、保育士の処遇改善につながらないのはなぜなのでしょうか(写真:mits / PIXTA)
7月10日投開票の参議院議員選挙が迫るなか、各党は子育てや保育についてもそれぞれの政策を訴えている。ただ、それを見つめる保育現場の視線は冷ややかだ。
国を挙げての保育士の処遇改善が打ち出されて約10年。今年2月からは岸田文雄首相が追加施策として「保育士賃金の月9000円アップ」を行ったが、もともと保育士の月給は低く、そもそも保育士には必ずしも国からのお金が行きわたらない構造問題がある。参院選を前に、賃上げ政策がなぜ保育士の処遇改善につながらないのか、改めて考えてみたい。
月9000円の賃上げというけれど
「岸田首相が月9000円の賃上げをすると言った時、正直、1桁違うのではないかと思ってしまいました。月9万円アップなら、辞める保育士も減るのではないでしょうか」
都内で企業が運営する認可保育園で働く保育士の伊藤恵子さん(仮名、40歳)は、岸田政権の賃上げ政策に大きな疑問を感じている。子育てが一段落してから保育士資格を取得し、保育士として働いて5年が経つ。
しかし、恵子さんの月給は手取りで月20万円ほど。「やりがいのある職業ですが、給与と仕事の量・責任が見合わない」と嘆く。
保育士は、ただ子どもを預かるわけではない。専門的な知識をもって子どもの年齢ごとの発達を考え、生活や遊びを通して学び、身につけてほしいことなどを「保育計画」にまとめる。年間の保育計画は月ごとの「月案」、週ごとの「週案」に落とし込まれ、日々の保育に当たる。園児一人ひとりの健康の状況、成長や保育の経過などを記録する「児童票」も作成する。保護者との間で交わす連絡帳やクラス日誌を書くなど、書類業務も多い。
恵子さんの勤める保育園では最近、外国籍の園児が増え、その対応も加わる。親子とも必ずしも十分に日本語が理解できるわけではない。持ち物の連絡だけでも四苦八苦し、恵子さんら保育士は頭を抱える。
外国人労働者の増加は国が後押ししている。その子どもたちが保育園を利用することは容易に想定されるはずだが、行政が専門的に対応するわけではなく、現場の保育士任せになっているのが現状だ。
責任の重さに比べ、保育士全体の賃金水準は低い
恵子さんの職場には社内で作られた労働組合があり、社長は保育士経験が長いことから職員配置は手厚く、休暇がとりやすいなど労働環境が整っている。朝晩のシフトに入ればシフト手当が月3万円つく。残業すればもちろん割増賃金が支払われる。恵子さんは「他の園より給与は高く、働きやすいので会社に対する不満はありません。保育士の仕事はやりがいがあるし、園児は可愛い。けれど、保育士は仕事量も多く、責任は重大です。それを考えると保育士全体の賃金水準は低い」と思えてならない。
安倍晋三政権で待機児童対策が政府の目玉政策となって、保育士の処遇改善が大胆に行われた。国は2013年度から2021年度までの間に保育士1人当たりの賃金分を月額平均で4万4000円アップ。それに加えて国はキャリアに応じた処遇改善を月4万円つけている。さらに東京都などの自治体では独自補助で月4万円前後の処遇改善を上乗せしている。
国が決めた公費から出る賃上げ分は、この10年で保育士1人当たり年に約53万〜154万円となる。そのうえ岸田政権は今年2月から月9000円(年換算で10万8000円)の保育士の賃上げを図るが実際、保育士が手にする賃金は少ない。
政府統計でもある内閣府の「幼稚園・保育所・認定こども園等の経営実態調査」を見ると、認可保育園で働く常勤の保育士の年間賃金は全国平均で2016年度は年315万円だったが、2019年度は同362万円の約47万円増にとどまり、国や自治体から出ている処遇改善費分ほど上がっていないのが現状だ。
同様に待機児童問題が深刻だった東京23区を見てみよう。2016年度の年360万円から2019年度は381万円と上がったが、約19万円増と上がり幅が小さい。東京都は独自に平均月4万4000円(年換算で52万8000円)の処遇改善を行い、もともと保育単価は23区が最高額。処遇改善費が満額の場合、最高で年565万円の人件費が出ているにもかかわらず、だ。
都心ではまるで建設ラッシュのように次々に保育園が作られ、若手の保育士を中心に採用された。これまでの筆者の取材からは、利益優先、事業拡大優先という経営方針の下で、保育士が低賃金に長時間労働という過酷な労働環境という現場が散見された。保育士がバーンアウトして辞め、短期間で保育士が入れ替わるという問題が起こった。
長く勤められるか…抱える不安
都内にある大手傘下の保育園で働く佐藤明子さん(仮名、26歳)は、「試用期間の給与は総額で月15万5000円。試用期間が終わると月給は23万円になって年収は315万円になりますが、仕事の内容には見合わない」と話し、長く勤められるか不安を感じている。
大学卒業後に幼稚園で働いたが、人材紹介会社を通じて大手傘下の認可保育園に転職した。配属された保育園は開園したばかり。4〜5歳の園児が少なく合同クラスが編成され、明子さんは4〜5歳の園児12人の担任になった。そのうち専門的な発達支援が必要と見られる園児が2人、外国籍で日本語が通じない園児が1人。そして、情緒が不安定になりがちな園児が1人いて、すべての子を明子さんが1人で保育することに。
明子さんは「大人の目を増やして丁寧に関わっていかないと、子どもたちが成長できない」と、悩んだ。そして、日々が慌ただしく過ぎていく。0〜4歳までは昼寝をするが、就学を控えた5歳児は昼寝をしない。明子さんは給食が終わるとまず4歳児を寝かしつけ、その後で5歳児に文字や数字を書く指導を行う。そして、連絡帳や日誌、おたよりを書くため、明子さんに休憩時間はない。毎月、毎週の保育計画は、4歳児と5歳児それぞれを作らなくてはならず、残業も多い。系列園は増えていくが全体が同じような労働環境で、保育士が次々に辞めていく。
こうした背景の一つには、営利企業の参入を認めた規制緩和政策がある。かつて公共性の高さから認可保育園は自治体と社会福祉法人しか作ることができず、運営費(委託費)は「人件費は人件費に使う」という厳しい使途制限があった。それが2000年、規制緩和で営利企業の参入が認められた。同時に、経営の自由度を図るために委託費の使途制限が緩和され、「委託費の弾力運用」が認められた。これにより、人件費を他に流用できるようになったのだった。
委託費はもともと必要な経費が積み上げられて支払われ、8割以上を人件費が占めるため、本来、保育は利益が残るものではない。しかし、安倍政権で「株式会社の参入によって保育の受け皿整備を図る」という方針が打ち出され、委託費の使い道はさらに規制緩和された。すると「保育は儲かる、ビジネスチャンスだ」として捉え、事業拡大や利益を優先させる事業者が参入した。
安倍政権下で待機児童対策が推し進められ、認可保育園は2013年の2万2594カ所から2020年には2万9474カ所に約3割ほど増えた。そのうち営利企業が作る認可保育園は2013年の488カ所から2020年には2850カ所を占めるように。
確かに営利企業の参入は保育園を増やし、待機児童の受け皿整備に一役買ったが、なかには”スピード成長”を遂げて株式を上場する企業も現れ、億円単位で株主配当が行われるほどの利益を上げている。
人件費を抑え、利益を重視する傾向の法人も
東京都内は保育単価が高く、都独自の処遇改善費がつく。処遇改善を満額受けた場合、東京23区では保育士1人に対して年間565万円の人件費が公費から支出される。一方で、東京都が公開する保育園の情報から上場各社の保育士の賃金を調べると、いずれも人件費比率が5割前後と低く、賃金実額も年300万円台にとどまっている。
営利企業だけの問題ではない。社会福祉法人でも人件費を抑えて利益を重視する傾向の法人も出現。その結果、保育士の賃金が低く抑えられるだけでなく、行政が行う監査では、経営者による委託費の私的流用、政党への支出などの会計違反まで見つかっている。
国会だけでなく自治体議会でも何度も「委託費の弾力運用」が起因して保育士の賃金が低くなることが問題視されているが、改善は遅々として進まない。ある自民党議員は「業界団体に票や献金をお願いする立場なので、委託費の弾力運用を厳しくするとは言えない」と明かす。そしてある官僚は「保育される子どものために税金は正しく使われなければならない。けれど業界団体の反発があって、それを与党が支持する。どうしても委託費の弾力運用には手がつけられない」と苦しい胸の内を語った。
それでも苦肉の策で、処遇改善費は人件費以外に流用されないよう内閣府は「処遇改善加算は必ず人件費に使うように」と、縛りをかけてきた。しかし、経営側からは「委託費の弾力運用」の対象となる人件費の本体部分での引き上げを求める声は依然として大きい。そうなれば、賃上げ分が人件費以外に流用される可能性がある。きちんと「賃上げ」に使ってほしい行政と、賃上げ以外に使いたい経営者との綱引きが繰り返される。
このように保育士の賃金を低くさせる制度上、構造上の問題がある。そのため賃上げのために公費を投入しても依然として保育士の賃金は期待されるほどは上がらない。
それに加えて、物価上昇が追い打ちをかける。保育士の人件費は国の「公定価格」で定められ、そのうちどれだけ人件費として使うかは経営者に任されている。前述した恵子さんの園は人件費をきちんとかける経営者だが、それでも限界がある。恵子さんは、先行き不透明な状況に大きな不安を感じている。
「もし給与が横ばいのままで物価が上昇し続けたら、いったい、どうなるのでしょうか」
恵子さんの家庭は、夫の収入も手取り20万円台で、共働きでも家計は厳しい。大学生と高校生の子どもの学費を捻出するのに必死だ。
選挙権を無駄にしないために投票へ
恵子さんは「40代になって体力的にきつい。仕事は好きだが、どっと疲れが出た時にリフレッシュする経済的な余裕があれば」とも思う。
恵子さんの子どもの学費の一部は奨学金で賄っている。これは奨学金という名の借金だ。現在高校生の子が進学すれば、ダブルで学費を捻出しなければならない。文部科学省の調べでは、私立大学への初年度の納入金は2021年度で約136万円。国立大学は数が少なく、入学できるのは一握りだ。遠くに住む親も高齢で、心配は尽きない。
「各党の公約を見ても、本当に実現してくれるとは思えません。けれど、選挙権を無駄にしないために毎回、投票に行っています。議員に選ばれたら不祥事を起こさず、しっかりやってほしい。私たち下々の者が暮らしやすくなるようにしてほしい」
この切実な願いは、候補者に届くのだろうか。国の財産である子どもを育む保育士が守られ、子どもたちの教育に予算を投じられる日本にいつかなりうるのだろうか。
(小林 美希 : ジャーナリスト)