※この記事は2022年03月19日にBLOGOSで公開されたものです

多様性推進を謳うキャンペーンポスターが炎上

昨年11月、欧州評議会が掲げたキャンペーンが物議を醸した。多様性理解の促進をうたうこのキャンペーンではポスターの中には、「自由がヒジャブ(イスラム教徒の女性が髪を覆うスカーフ)のなかにあるように、美しさは多様性のなかにある」と英語で書かれ、まさにヒジャブを身に着けた女性が微笑んでいた。

多文化への寛容を重んじるカナダやアメリカの一部の州では賞賛を浴びたかもしれないが、大陸の裏側では異なる角度で捉えられたようだ。なかでも「公共の場はニュートラル」であるべきと考えるフランスでは、Twitter上で政治的批判が渦巻くまで数時間もかからなかった。

特に、今年4月の仏大統領選を目の前にした有力な右派の候補者からは、批判の声が溢れた。極右思想を掲げる元ジャーナリストのエリック・ゼムール候補者は、この広告は「欧州の人々に対してヒジャブを促進している」、と啖呵を切った。また、ゼムール氏よりは穏健だが極右政党「国民連合」から立候補するマリーヌ・ルペン候補は、「女性が自由になるのはヴェールを外した時であり、その逆ではない!」とツイート。さらに右派「共和党」から立候補するヴァレリー・ペクレス氏は「ヒジャブは“自由”ではなく“服従”の象徴」と非難した。

その後、これら反論の波を受け、欧州評議会は同広告をTwitterから削除した。

一体なぜ欧州の中でも、とりわけフランスで炎上するのだろうか――。エマニュエル・マクロン大統領の言葉を借りると、その答えは「フランスという国は、“民族・人種・宗教にかかわらず”、法のもとで市民の平等の上に成り立っている」という点にある。つまり、政治と教会(宗教)は切り離して考えるべきという「政教分離の原則(ライシテ)」という考えが根付いているからである。

例えばフランスでは公立の小・中・高校、メトロ、行政施設など公共の場で、キリスト教徒が持つ十字架のペンダントや、イスラム教徒が着用するヒジャブなどの宗教的モチーフを身に着けることは禁じられている。同様に、メトロや行政施設でお祈りをすることも許可されない。より大きな視点でみると、国内にどのような民族が住んでいるかや、人種、信仰している宗教などの統計を取ることも基本的に禁じられている。

このようなフランス社会の考え方について、仏ソルボンヌ大学で哲学を教えるピエール・アンリ・タヴォワロ准教授はこう説明する。

「現代のフランス社会には、3つの領域があります。1つ目が、自由に宗教を信仰する権利がある”個人“の領域。2つ目が、ニュートラルであるべき”公共・国家の領域“。3つ目が、”市民社会の領域“。ここでは、市民生活を営むにあたり自らの信仰を押し付けず、相手の信仰も尊重する必要があります」

実際に、こうした理論が上手く社会で成り立つのだろうか? 仏経済紙ジャーナリストのレジス(仮名)は、賛同する。「ライシテのおかげで、異なる民族・信仰のルーツを持つ人々が自然に入り混じることができます」。

そして、こう続ける。「また、ライシテは教室・職場内での争いを防いでくれます。例えばパレスチナとイスラエルの間で衝突がある際に、同国にルーツを持つ生徒間で宗教的な言い合いになることもありますが、ライシテという概念はこうした状況がエスカレートすることから守ってくれます」

イスラム過激派のテロで揺れるライシテの概念

こうしたフランス社会における”領域の分離“は、一夜にしてできあがったものではない。前出のタヴォワロ准教授氏は、「長い歴史のなかで紆余曲折を経て築かれた」頑丈な柱だという。

「ライシテはキリスト教文化に由来します。福音書には、「カエサルのものはカエサル(※古代ローマの政治家ジュリウス・シーザー。政治の象徴)に、神のものは神に」と明記されています。つまり、この頃より政治と宗教、社会生活と個人の信条の分離が断言されていたのです」

また、歴史家のエリック・アンソー氏はこう付け足す。

「その後、フランスが経験した16世紀の宗教戦争は、フランス人の心に永続的な爪痕を残しました。そして、個人の自由や平等を説く“啓蒙主義”という思想が1789年のフランス革命へと導き、“自由、平等、友愛”の普遍主義が国定となりました。ついに1880年代には共和国が誕生し、1905年には、国家はいかなる宗教も認識・補助しないとする『政教分離法』が誕生したのです」

このように、もともとライシテはカトリック教会の権力と政府の分離を目的としていたが、近年その対象は“イスラム教”に変わってきている。第二次世界大戦後のアフリカ大陸からの移民流入などを経て、イスラム教徒の人口は570万人(米民間調査会社ピュー研究所の推計)までのぼり、社会の人口構成が大きく変わったからだ。

これに加え、昨今フランスで増えているイスラム過激派によるテロ事件のニュースは、フランス人にとってライシテいう概念を脅かす「警報」のように鳴り響くようになった。特に2020年、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を授業で扱ったとし、中学校教師のサミュエル・パティ氏が斬首された事件などが顕著な例だ。これらを背景に、実際に近年約9割のフランス人がこの柱は崩壊の危機にあると考えている。

これに対しマクロン大統領は、ライシテを守るため「急進的なイスラム教徒」への取り締まり策を掲げ、いくつかのイスラム教徒の団体やモスクを閉鎖した。また、「共和国の価値」チームを形成し、毎年学校の教員25万人へライシテについてのトレーニングの実施を目標としている。

それでも打ち消すことのできないフランスの市民の「警報への不安」をもとに、前述の右派の仏大統領選候補者達によるライシテを守るための議論も益々活発化している。

「中道・右派の候補者達は、ライシテの熱心な擁護者を装っています。ただ、彼らの活発な議論はライシテの“原則”についてより、ライシテを“守る方法”や“宣伝方法”についてのようですが」と、ソルボンヌ大学のタヴォワロ准教授は話す。

市民生活でライシテは実際に機能している?街の声を聞いた

フランス人にとって、ライシテがなぜここまで重要な概念なのだろうか。理由の一つに、教育がある。こうしたライシテという概念は、幼少期から教室で教えられる。4人に1人がバイリンガルであるフランスでは、様々なルーツを持つ子供たちが学校で机を並べている。これに対し、仏ベルサイユの某小学校の校長デサンジュ氏は、フランスの多様性は「ライシテが束ねている」と言う。

実際に筆者の友人の6歳の子供も、時々「自由・平等・友愛」という言葉を口にしているほど、ライシテの教育には力が入っている。

一方で、フランス生まれだがチュニジアにルーツを持ち、祖母の代からフランスに暮らす30代のメレーズ氏はこう語る。

「私はフランス人として教育を受け、私の母国はフランスです。でも、見た目はアラブ系の顔立ちの為、テロが増加していた時期には視線を感じたり、警察にメトロで持ち物検査を要求されるなど、複雑な思いがあります。社会から同化を求められているけれど、同時に愛する母国であるフランスで同化を拒否されているように感じます」

また、同じフランス人でもカトリック教徒とイスラム教徒の間における格差問題も顕在化している。フランスのモンテーニュ研究所の調査によると、フランスでイスラム教徒の男性がカトリック教徒の男性に比べて仕事の面接の機会を得ることは4倍難しいという。また、同調査報告書では、フランス人は「イスラム教徒」と聞くと、自動的にイスラム教を過激派や女性抑圧を連想する傾向がある、との調査結果も指摘する。

現世界に存在する、2種類の多文化社会への向き合い方

歴史学者のイブラム・X・ケンディは、人種から目を背けることは、最悪の人種差別だと論じているが、こうしたフランス社会の表面における「人種の中立」は、度々カナダやアメリカの一部で批判を浴びることがある。

前述のタヴォワロ准教授は現代の世界には以下2つのタイプの “多文化尊重への姿勢”が存在すると説明する。

1つ目がカナダを含むアングロ・サクソン圏の多文化への寛容主義
2つ目がフランスのライシテ

同氏は、こう続ける。「例えば、2軒のサルーン(開拓時代のアメリカ西部特有のバー)があると想像してください。1軒目の入り口には、入店時に“武器は入口に置いて入店してください”と書いてあります。2軒目には、“武器の持ち込みは許可しますが、他のお客様も武器を持っていることをご承知ください”と書いてあります。この武器を宗教、政治的イデオロギー、個人のアイデンティティーに置き換えると、前者がフランス的ライシテ、後者がアングロ・サクソン圏の多文化への寛容性といえるでしょう」

また、同氏はこう語る。「フランス流のライシテの原則は、共存するために、個々のアイデンティティーを法的に“無視”することにあります。これは『無関心によって形成される中立性』です。一方で、アングロ・サクソン圏のアプローチは、共存するために、多様な個々のアイデンティティーを法的に“認識”することにあります。つまり、『認識によって形成される社会の中立性』なのです」

「この2つのモデルは長所と短所があります。フランス的ライシテは、市民のアイデンティティーを薄めてしまうリスクがあります。一方でアングロ・サクソン圏の多文化への寛容性については、長所はそれぞれ市民が違いを尊重するできること、短所は、同じ信条を持つコミュニティーで固まりやすくなってしまうことにあります」

日本にとっても今後移民が増えていくと考えられるが、フランスと同様に宗教との向き合い方を分析・熟考する必要があるのかもしれない。