米ロ間で緊迫するウクライナと状況が似ている日本 国家戦略が乏しい“平和ボケ”の現状 - 宇佐美典也
※この記事は2022年01月25日にBLOGOSで公開されたものです
私がウクライナの置かれた環境は結構日本と似ていると思う理由
昨年末30日、アメリカのバイデン大統領はロシアのプーチン大統領との電話会談で、ロシアがウクライナに侵攻すれば同盟国・友好国とともに「断固として対応する」と表明した。これを受けてプーチン氏も「アメリカが前例のない制裁を科せば、完全に決裂する」と応じた。
年明けからはウクライナ情勢をめぐって、アメリカやNATO(北大西洋条約機構)側がロシアと会合を開く一方、ロシア軍がより一層ウクライナ方面に移動したり、ウクライナでサイバー攻撃被害があったりと緊迫感が増している。
漠然とでも背景を知ろうと、Twitterでよく名前を見かけるウクライナ出身の国際政治学者のグレンコ・アンドリー氏の著書「NATOの教訓」を読んだところ、ウクライナ情勢というより「ウクライナ人から見た日本の安全保障環境」といった分析に触れることができた。
「日本とウクライナは置かれた環境が似ている」
グレンコ氏の視点で非常に面白く感じたのは「日本とウクライナが置かれた環境が似ている」ということだった。
ウクライナは西方に影響力を広げようとするロシアと、日本は海洋に進出しようとする中国と、それぞれ最前線で対峙する環境にある。こうした両国の置かれた状況をグレンコ氏は「日本とウクライナは自由世界のフロンティア」と表現しており、日本とウクライナの防衛が堅固でないと、世界全体の自由・民主主義の文明社会が危ぶまれるとしている。これは言われてみれば納得で、目から鱗だった。
ただ先述の通り、今のところ日本は一応の平和というものを享受しているのに対して、安全保障上ウクライナは非常に危うい環境に置かれている。
グレンコ氏は、この両国の差は軍事同盟の有無にあると見ている。具体的には、日本が日米安全保障条約によりアメリカの庇護下にあるのに対し、ウクライナはNATO(北大西洋条約機構)に加盟できておらず単独でロシアと向き合わなければいけない状況だということである。
地球平和の実現に最も成功したNATO
グレンコ氏はNATOを「最も成功した地域平和の実現例」と表現している。実際NATO加盟国の本土は70年間一度も武力攻撃を受けたことがない。NATO加盟国に対する武力攻撃は加盟国全体に対する攻撃と見做されるため、攻撃を加えた国はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツらと戦うことになる。これでは勝ち目がない。
国連は加盟国が価値観を共有しておらず、安全保障理事会で中露が拒否権を持っていることから紛争防止、平和的解決の機能をほとんど発揮することができていない。これに対し、価値観や基本的な安全保障政策を共有する国だけが集まっているNATOは、意思決定が全会一致の原則にもかかわらずボスニア・ヘルツェゴビナの紛争を鎮めるなど有効に機能している。
そのためソ連崩壊後、平和を担保するためにチェコ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、スロバキア、ブルガリア、といった東欧の旧ワルシャワ条約機構加盟国は相次いでNATOに加盟した。そしてウクライナもそれに続こうとしたわけだが、ソ連の継承国として失地回復のために西方拡大を目指すロシアとしてはこれを何としても阻止する必要があった。
そして近年、ロシアは徐々に強行的な手段に出るようになっている…というこの辺りの論考の流れはさすがの納得感がある。というか当たり前と言えば当たり前の内容なのだが、複雑な世界情勢を理解するうえで専門家による整理された解説はありがたい。
「日本は“弱小国のふり”をしている」という指摘
日本も中国という「地域覇権を目指す大国」の脅威下にあるが、他方でアメリカと日米安全保障条約を締結しているという点において状況が大きく異なる。ただグレンコ氏はこの日米同盟にはNATOと比べて課題があるとしている。
一つ目は「日本が弱小国のふりをしている」という点である。日米同盟が始まった当初は実際に敗戦国である日本は消耗し尽くした弱小国であり、日本はその状況を逆手にとって、安全保障に関しては憲法9条で全面的にアメリカに依存し、経済復興に専念した。いわゆる「吉田ドクトリン」である。しかし日本は発展した後も消極的に基地の提供と思いやり予算などでアメリカに便宜を図る程度で、アメリカの世界戦略に明確に協力することなくのらりくらりと中立を保とうとしている。
こうした政権のスタンスを国内の一部左翼が「親米」「対米従属」などと批判することもあるわけだが、グレンコ氏の目には全くそうは映らないようで「ただ弱小国のように振る舞ってアメリカに甘えている」と見ている。他方で、「アメリカがいざというときに本当に日本を守ってくれるか分からない」と「対米自立」を唱える反米保守に対しても、その行き着く先は中露の属国になるしかなく、まやかしであると評している。
グレンコ氏はこうした地に足のつかない非現実的な議論よりもすべきは「アメリカが日本を守る気になるために、何をすれば良いか」を考えることで、それこそが日本の安全保障環境をより充実させるのではないかと提案する。そして具体策として防衛費の対GDP比2%実現を挙げるとともにNATOに加入するために懸命に努力したトルコを比較例に挙げている。
トルコのような「ともに戦う」覚悟が日本にも必要
戦後トルコはソ連の地中海進出の脅威へ対抗するためNATOへの加盟を目指したが、NATO加盟国の反応は冷ややかで一向に進展しなかった。そこに1950年朝鮮戦争が起きる。このときトルコは「もし今韓国を助けなければ、次にトルコが共産主義者に侵略された場合、誰が守る気になるのか」と即座に条件無しに朝鮮戦争の国連軍への参加を決断した。実際トルコの二度目のNATO加盟申請は1950年9月に却下されている。
それでもトルコは朝鮮戦争終了までに合計15000人を派兵し戦い抜いた。これはアメリカ、イギリス、カナダに次ぐ4番目の派兵数であり、なおかつその勇敢ぶりはアメリカ軍司令部に高く評価された。そしてこの過程の1952年2月にトルコのNATO加盟が実現する。それ以降トルコは一度も他国から侵略されておらず経済的発展を実現した。
仮にこのときトルコが朝鮮戦争に参加しなければ、のちに加盟することになるギリシャの妨害によりNATO加盟が実現する可能性は非常に低かった。トルコは100年先を見据えて、朝鮮戦争を通してNATO加盟国と「ともに戦う」という断固たる決断をし、それを貫くことで国の未来を切り開いた。
グレンコ氏から見て日米同盟に欠けているのはまさにこの「ともに戦ったもの同士の信頼」である。例えば、イギリスとアメリカは幾多の戦争でともに戦い抜いたことで盤石の信頼があり、お互いの間で「アメリカは守ってくれるか」「イギリスはともに戦ってくれるか」といった心配はない。日本も国家としての安全保障戦略を持ち「同盟国に助けてもらう」ことばかりでなく「同盟国を助ける」ことを考えなければいけない、と指摘する。
日本なりの「ともに戦う」を具体化できる政治家はいるのか
ここまで簡単にグレンコ氏の主張の一部を紹介してきたが、ウクライナという安全保障のリアリティを感じざるを得ない土地で育ったグレンコ氏の視点は迫力があり、示唆に富むものがある。「タカ派」の印象は拭えず、いささか言葉が荒くなる部分もあるが、現実に大国の脅威に晒されてきたウクライナの視点から見れば、日本の「平和ボケ」に対してフラストレーションが溜まるのも理解できなくはない。
グレンコ氏のいう通り、ますます巨大化し、地域覇権の意欲を強め、海洋への進出を加速化する中国に対して、日本は少なくとも今後数十年は「自由・民主主義社会のフロンティア」として対峙せざるを得ない環境にある。それを乗り切る国家戦略を日本が持っているかというと、それは「否」と言わざるを得ない。
当然日本一国で中国に対抗するのは不可能なため、おそらく日本も防衛予算を拡充してアメリカとともに歩む確固たる意思を示すことが基本になるのだろうが、中国とソ連―ロシアの規模の違いを考えたときに、単純に軍事力のみで対抗すれば良いというものではないだろう。それもあって昨今「経済安全保障」ということが言われ出したわけだが、それが実際何を意味するか、国家戦略にどう反映されるのか、といった部分はまだあやふやなままである。
個人的には、日本は今後米軍のアジアでの取り組みに対するコミットを増しつつも、アメリカとビジョンを共有して中国と貿易関係において牽制し合うに十分なバランスの取れた相互依存関係を築くことが必要になってくるのであろうと思う。例えば日米で一部の半導体先端材料・装置を寡占的に中国に輸出しつつ、今現在中国へ依存している品目を徐々にインド・ASEAN圏に分散していくような投資である。そしてそうした取り組みが、日本とアメリカが「ともに戦う」ということになるのだと思うのだが、それを具体化してくれる能力と権力を持ち合わせた政治家が今の永田町にいるかというと若干不安になることは間違いない。
いずれにしろ我々の長く親しんだ「吉田ドクトリン」が過去のものとなりつつあるのは間違いない。これから始まる憲法改正議論において、各党が「ポスト吉田ドクトリン」となるような安全保障戦略を掲げ、それをどう憲法に反映させていくのか、半ば楽しみにしながら注目していきたい。