【追悼 川柳川柳師匠】軍歌を歌い続け「戦争体験」を伝え続けたオンリーワンの落語家 - 松田健次
※この記事は2021年12月08日にBLOGOSで公開されたものです
高座で軍歌を歌い続けた名物落語家、川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)師匠が亡くなられた。2021年11月17日没、90歳だった。十八番ネタは「ガーコン」。明治・大正・昭和の唱歌や流行歌から、満州事変、日中戦争、太平洋戦争の時代に歌われた軍歌、そして戦後席巻したジャズまで、近代ニッポンを音楽の変遷で辿りながら、自らの「戦争体験」を語りつづるオリジナルにしてオンリーワンの演目だった。
通常、寄席に出る落語家であれば、他の演者の演目と内容がかぶらないよう(重複しないよう)、その日その日の流れで演目を変えるのが常だ。だが、川柳師匠は寄席に上がればほぼ「ガーコン」。たまに別の新作漫談的演目(「昭和テレビグラフィティ」「パフィーde甲子園」)もあるにはあったが、ほとんど「ガーコン」一本で通していた。
それが可能だったのは「ガーコン」が他のどんな演目ともかぶらないからだった。それはそうだろう、何しろ軍歌を歌いまくるネタなのだから。(ちなみに「ガーコン」とは、サゲで登場する脱穀機の擬音を指している。)
寄席で一年じゅう高座にかかっていた「ガーコン」。不思議なことに何度聞いても飽きないネタだった。それはなぜなのか・・・。
ウケるウケないを超越した特殊な存在感
川柳師匠は埼玉県秩父で昭和6年(1931年)満州事変の年に生まれ、昭和20年(1945年)戦争終結を多感だった14歳で迎える。まさに日本の戦争史と共に成長した軍国少年だった。その戦争体験から語られるエピソードの説得力、豊かな声量で朗々と歌い上げる歌唱力、しかも軍歌。誰とも比べようのない特殊な存在感だった。ウケるウケない、飽きる飽きないを、超越していたのだろう。
川柳師匠は「ガーコン」を40歳頃から演り始めたという。遡れば1970年あたりからだ。昭和がまだ色濃かった70年代は、高座で軍歌を歌うと客席で口ずさむ、軍歌で育ったご年輩世代がかなり多くいて、その合唱感で盛り上がったという。
そういう観客も時代と共に一人減り二人減り、やがて客席は戦争を知らない世代へとごっそり入れ替わっていく。自分もそこに含まれ、川柳師匠の「ガーコン」を通じて、教科書や戦争映画やNHKの番組とは別ルートで、太平洋戦争の側面を伺いながら軍歌を何曲も何曲も刷り込まれた。
いったいどんな軍歌が歌われていたか、主なラインナップを挙げてみると・・・
♪大東亜決戦の唄 (起つやたちまち撃滅のかちどき挙がる太平洋~)
♪英国東洋艦隊潰滅 (滅びたり滅びたり敵東洋艦隊の~)
♪空の神兵 (藍より蒼き大空に大空に~)
♪加藤隼戦闘隊 (エンジンの音轟々と隼は征く雲の果て~)
♪ラバウル海軍航空隊 (銀翼連ねて南の前線~)
♪月月火水木金金 (朝だ夜明けだ潮の息吹き~)
♪同期の桜 (貴様と俺とは同期の桜~)
♪若鷲の歌 (若い血潮の予科練の~)
時間に余裕があると、ここにさらに加えて、
♪紀元二千六百年 (金鵄輝く日本の栄ある光身にうけて いまこそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 あゝ一億の~)
♪轟沈 (可愛い魚雷と一緒に積んだ青いバナナも黄色く熟れた~)
♪学徒出陣の歌
♪比島決戦の歌 (出てこいニミッツ・マッカーサー~ ※歌詞は川柳川柳歌唱に拠る)
♪ルーズベルトのベルトが切れて~ ※替え歌
ほか、藤山一郎、灰田勝彦、古関裕而など、人物ごとの歌と音楽がオプションとしてどんどん加わっていく。そのラインナップにはこれという決まりはなく、時間に合わせてレパートリーの抽斗を気の向くままに出し入れしていたと言える。
敗戦が続いてマイナー音階になっていった軍歌
そこで必ず語られたのが、戦局と軍歌の推移だった。太平洋戦争開始の当初は戦勝が続き、歌の曲調も勇壮で明るかったが、半年ほどで形勢が変わり敗戦が続くようになると、曲調も悲愴で暗くなっていった・・・「メジャーがマイナーに、長調が短調に、敗けてきたらみんなマイナー音階」という体験的分析。
これが川柳師匠による「ガーコン」の命題であり、訴えだった。「ガーコン」の別名として「歌は世につれ」という演目名もあるが、まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」、軍歌も戦局と背中合わせだった・・・。
軍歌を歌いまくった寄席芸人――、そこだけを切り取れば、愛国主義の右翼かと思われるかもしれないが、そうではなかった。日本はなぜ戦争に突入したのか、新聞は国民に何を伝えていたのか、日米の戦闘機はどう違ったのか、学徒出陣とは、特攻とは、等々、自分が生きた歴史をクールな眼差しで振り返り、その上で「芯」を捉えて笑わせることにも軸足を置き続けた。
戦争という悲惨な時代を硬軟両面で捉える複眼の持ち主、それが川柳川柳という芸人だった。
落語ファンが「ガーコン」で聞く戦中エピソードの中で、ギュッとわしづかみにされる話が幾つかあるが、その代表と言うと――、
< 川柳川柳『ガーコン』より >
「歌の方も厳しくなって、アメリカイギリスの音楽は一切演奏禁止ですよ。ジャズなんか一番ひどいめにあってね。演奏しただけで警察に捕まって血だらけになるまでぶん殴られたってね。非国民売国奴!って。人権なんかないんだから。この国の戦争方針に逆らうやつは、もうすべて国賊だってね。そういう恐ろしい時代ですよ。
寄席の演芸だって大変だったって。落語家が一番先に持ってかれたんです兵隊に。講談浪曲はうまく合わせるんだ、時勢にね。笑わせなくていいんだから、軍事浪曲、軍事講談、「♪テンノウヘイカ~ バンザイト~ ギャアア~」なんてやるんですよ。講談なんて釈台引っぱたいちゃって、「軍神広瀬中佐、旅順港閉塞の一席でございます!肉弾三勇士!」、こういうのやるんだから。こりゃ軍部は大喜びだよ。軍部のPRしてるようなもんだから。それを聞いて、ラジオからそういうの聞いて、俺も早く大きくなって悪い敵と戦うんだと思ったのよ。そういう時代ですよ。
もう、落語家って睨まれちゃって、ネタがないの落語家は。戦争に協力するようなネタがない。とにかく落語三原則って、女郎買い、酔っ払い、バクチだもん。飲む打つ買う、三道楽ってやつでね。志ん生師匠なんてその塊みたいなもんで。だからすっかり睨まれちゃって、落語家なんかあいつら一切戦争に協力しない、非国民だあいつら、一番先に引っ張れ、最前線だあいつら、なんて芸能界で一番先に持ってかれたんですよ。
ずいぶん先輩が行ってます。小さん、小勝、小せん、夢楽、柳昇、柳朝、米丸、小南、円右、柳好、さん助、文治、笑三、小円馬、三平とかね。三平さんが兵隊行ったんだもの。いかに当時の日本が追い詰められた状況か・・・。20人ぐらい行ってるんです。で、ひとりも死なないで全部帰ってきたって。復員。見事な非国民。三平さんなんか太って帰ってきたって。何したんでしょうね!」
※(念の為「三平さん」は初代の爆笑王。現在笑点メンバーの三平は二代目です。)
しかしながら、あの時代に戦争を選んだ日本を苦々しく思っている・・・のであれば、毎日のように人前で軍歌を歌う行為は心情として「あり」なのか? どこか矛盾してないか? と思うかもしれない。そのアンバランスな芸を「あり」にしているのは、どういうワケなのかと。
その答えを求めるなら、ただただ音楽が好きである、歌うことが好きである、とくに人前で歌うことが好きである、歌うことで噴き出す快楽物質を生涯やめられなかった・・・、とするとしっくり来る。少年時代に体の隅々で憶えた軍歌、その背景には戦意高揚や国民統制の役割もあったが、純粋にその音楽が個人にもたらす陶酔があるのだと。
そうして、あの時代を否定しつつも、あの時代の音楽を肯定することで、自身の少年時代を「承認し続けた」・・・。
いずれにしても一生涯でとにかく軍歌を歌いまくった人物だった。半世紀にわたり、ほぼ毎日のごとく高座で軍歌を何曲も歌い続けてきたのだ。その数を正確にカウントしたら、きっとギネスに申請できるだろう。
ガーコン=「昭和音曲噺」
「ガーコン」は寄席や落語会で通常15分ないし20分の長さの演目だったが、1時間に及ぶロングバージョンがあることを自分が知ったのは90年代前半だった。「大ガーコン」と呼ばれていた。「池袋秘密倶楽部」という川柳師匠シンパの方々が自主制作した「川柳百席」というCDに、この「大ガーコン」が収録されていて、自分はこのCDを入手しひそかに愛聴していた。
CDのプロデュースを担ったのは飯倉政男氏。池袋秘密倶楽部の主であり川柳マニアの書記長みたいな存在だ。良識あるメジャーレーベルなら手を出さない・・・川柳師匠の高座音源を、各2枚組で3巻に及ぶCDに残した功績は川柳マニアの中で語り継がれる「いい仕事」だ。このCDには師匠の還暦から70代前半までの高座が「大ガーコン」の他に代表作(「ジャズ息子」「ラ・マラゲーニャ」)や、古典落語(「湯屋番」「首屋」「初音の鼓」)の珍しい高座も収められている。
池袋秘密倶楽部の仕事以降となる、川柳師匠70代後半から自分もマニアの末に加わり、自ら川柳師匠の落語会を主催し始める。2009年(78歳)から2018年(87歳)まで10年にわたり、毎年、夏になると開催したのが「川柳川柳 昭和音曲噺 夏のガーコン祭り」(主催:らくご@座)だった。
2009年、この会を始めるにあたって川柳師匠に「川柳川柳 超特大ガーコンの会」という公演タイトル案を伝えると、その数日後に師匠から電話があり、「あれね、昭和音曲噺(しょうわおんぎょくばなし)って入れたらどうかね。ガーコンってのはさ、ありゃ音曲噺だねって誰かに言われたことがあってね。なら、昭和音曲噺だっていうね。どうだい?」と提案された。
音曲噺とは、落語の中に演出として鳴り物(三味線、唄)が入るものを言う。師匠の口から出た「昭和音曲噺」という響きには、「ガーコン」に対する師匠自身の思い、際物のようで実は寄席噺の分類にきちんと納まる演目なのだぞという矜持を感じた。
師匠の「どうだい?」というエクスキューズには「ちょっといいだろ?」というニンマリが含まれているのを感じ、二つ返事で公演タイトルに取り入れた。(この会、初め3回は「川柳川柳 昭和音曲噺 超特大ガーコンの会」と称し、4回目以降「川柳川柳 昭和音曲噺 夏のガーコン祭り」と改称した。)
主に杉並区の劇場「座・高円寺2」で開催したこの会には、毎回川柳師匠を良く知るゲストや、歌や音曲が入るような演目、川柳師匠を題材にした新作落語などでプログラムを組んだ。約2時間の公演、お決まりは後半の1時間、川柳師匠に存分に「ガーコン」を披露して頂くことだった。興が乗ればその時間は師匠次第で延びていった。川柳ファンにとっても自分にとっても、延びれば延びるほど「いい時間」となった。
そしてこの「夏のガーコン祭り」は、8月の「終戦の日」に合わせ、寄席の名物である「ガーコン」をいつもよりたっぷりと聴き、川柳師匠と共に平和を祈念しようという趣旨を打ち出していた。年中時知らずの「ガーコン」も大いなる魅力だったが、じっくり聴いて最も沁みるのは戦争に思いを馳せる8月だろうという、元々「ガーコン」が持っていた意を伝えやすくした会だった。
それにより世間への風通しも生じたからか、開催10年の間に新聞各紙(読売・毎日・東京)の取材を受けた。新聞で「ガーコン」がフィーチャーされることは川柳師匠にとって満更ではなく、その度に「出てたね」と嬉しそうな声を聴いた。
川柳師匠の晩年には、8月の同時期に横浜の大倉山で「敗戦落語会」も毎年開催されていた。寄席の出番とも重なり、朝から晩まで1日に4件の高座を掛け持ちになった日もあった。そんな日には弟子の川柳つくしさんに「俺はきょう4件も掛け持ちだからな、売れっ子なんだよ」と嬉しそうに語っていたという。
晩年は立ち上がる高齢の川柳師匠に拍手喝采
あらためて「ガーコン」というネタは、最後のサゲで、ジャズに夢中になり四六時中全身をスイングさせるダメ学生の息子に対し、「可哀想なのは田舎のお父っつあん」だと息子への仕送りで新しいコンバインも買えず古い脱穀機を動かす父親が登場する。そこで高座から立ち上がり脱穀機を踏みながら稲束を掴んで脱穀する仕草になる。
高座から立ち上がる――、それは川柳師匠にとっても観客にとっても長く日常のひとコマだったが、80代ともなると足腰の衰弱が見え始め、スクっと立ち上がることがままならなくなってきた。段々とこの場面に時間をかけるようになり、足をくじかぬよう慎重に立ち上がる姿も、晩年の川柳師匠にはおなじみのカタチになっていった。
師匠の足腰がどういう状態かは観客もわかっている。師匠が立ち上がる様子を固唾をのんで見守り、立ち上がった瞬間、いっそう大きな拍手に包まれるのも感慨深かった。
そして、87歳で迎えた10年目は、最後に高座から立ち上がることなく噺を切り上げ「ガーコン」を終えた。その姿にももちろん大きな拍手が送られた。たっぷりすぎる1時間15分の高座になっていた。そういう姿も含め、「ガーコン」を演りきった、落語家人生をまっとうした、そう思う。
そんな晩年の川柳師匠に常に寄り添い支えていたのが弟子の川柳つくしさんだった。高座では「川柳の骨を拾う女、つくしです」というツカミで笑わせながら、年々体力の衰えを帯びる師匠をフォローする女性介護チーフとして心強い存在だった。
2013年に開催した「夏のガーコン祭り」では、つくしさんの真打昇進が間近だったこともあり、プログラムに「真打昇進口上の予行演習」を入れ、川柳師匠にはかなり珍しい「黒紋付」の姿を拝見したのもいい思い出となった。
酔った数だけ被害者を生んだ厄介者の一面も
「酒」が好きで、酒グセが強烈で、酔うと手を口に当てて吹き鳴らす「手ラッパ」「口ラッパ」で気の向くままにジャズのメロディーを奏でるのが定番だった。さらに興じるとジャズから義太夫に変わり唸り続けたという。日々歌い続ける頑丈な喉で、人一倍の大音声、正直言って「やかましい」「うるさい」「迷惑」「いい加減にしろ」と煙たがられた。
打ち上げで酔ってグズグズになり、面倒なだけの存在に成り果てた川柳師匠につかまって被害を浴びた同業者や後輩は数知れない。酔った数だけ被害者を生んだ、そういう厄介さも含めての川柳師匠だった。
「夏のガーコン祭り」では後ろに別の場所での高座が残っていたり、体力的なこともあり、幸いにも(?)打ち上げをしないのが恒例だった。師匠には打ち上げがない代わりに、公演後日、ご自宅にお酒を送るのを定例にした。師匠もそれを踏まえ、会場入りするなり打ち合わせそっちのけで、「あのね、送るのは焼酎を頼むよ」といきなり発注してきたので笑ってしまった。
「最近はもっぱら焼酎だから。日本酒はもう飲まないんだ。焼酎の甲類を頼むよ。芋とか麦とかああいう乙類はクサくてダメだから。乙じゃなくて甲。甲類のイイやつを頼むよ」と指定してきた。焼酎甲類希望のリクエストを受けて、あらためて焼酎甲類を見渡すと「キンミヤ」「宝焼酎」「鏡月」など、どれを選んでもリーズナブルで「イイやつ」を選ぶのが逆に難しかったりした。
妙に「コールイ、コールイ」と言っていた師匠の言葉が耳に残っている。「♪ガーコン ガーコン コールイ コールイ」。献杯は「大ガーコン」を聴きながら焼酎の甲類でさせて頂きました。
川柳川柳師匠――、亡くなられた、というよりは、くたばった、のびちゃった、そんなぞんざいな言い方のほうが似合っているような。師匠、どうもどうもお疲れさまでした。