36年間若手コントライブを主催、渡辺正行が語る「爆笑問題、初舞台の衝撃」
明治大学在学中にラサール石井、小宮孝泰とコントグループ「コント赤信号」を結成したリーダーこと渡辺正行。『ひょうきん族』でビートたけし、明石家さんまらと共演し、『M-1グランプリ』では6回もの審査員を務め、どの時代も第一線で活躍している。一方、1986年からは若手お笑い芸人の育成のための場、「ラ・ママ新人コント大会」を主宰。現在発売中の著書『関東芸人のリーダー お笑いスター131人を見てきた男』(双葉社)では、バナナマンやオードリーなど数々のお笑いスターたちの若き日々を綴っている。今回、改めてその濃厚すぎる、リーダーのお笑い人生について話を聞いた。(前中後編の後編)
【前編はこちら】渡辺正行が振り返る芸人への道「きっかけは落研、先輩・立川志の輔さんの落語を見て衝撃を受けた」
【中編はこちら】渡辺正行が語るコント赤信号ブレイク前夜「 “漫才ブーム” で勝つために、時代の笑いを分析」
【写真】どの時代も第一線で活躍する、リーダーこと渡辺正行の撮り下ろしカット
渡辺 お笑いって大体こういう形だろうなと思っていても、どんどん新しい笑いであるとか、新しいキャラクターであるとか、新しいグループであるとか、一味違うセンスであるとか、どんどん変わっていくんですよね。それが面白いんです。コント赤信号が世に出た頃は、まだ家庭にビデオも普及していなかったので録画もできない時代でした。
でも今の子たちは、過去から現在までのお笑いを映像で触れることができて、子どもの頃からお笑い芸人を目指して、どんどん新しいものを作っているので、自然と笑いが変化していくんですよね。それを生で見ていられるのは、すごく勉強になります。
渡辺 僕らはゆーとぴあさんにチャンスをもらって、勉強会などでアドバイスをしてもらったおかげで面白くなっていきました。「ラ・ママ新人コント大会」を始めたのは僕が30歳のときなんですけど、そもそものきっかけは、僕が座長を務めていた「劇団七曜日」の劇団員から、「若い子たちにお笑いを教えてほしい」と言われたからなんです。
ただ僕は、とても教えられるような人間じゃないから、「若手の出られる場を作りましょう」と。そこで、僕たちがゆーとぴあさんにしていただいたように、ネタを見てアドバイスもできればいいなと考えたんです。
だから僕は場を作っただけで、若手を育てようという気持ちで始めた訳ではないんですよね。それが今も続いていて、だんだん出演者も多くなっていったんです。若いときって僕らもそうでしたけど、自分たちの何が面白いのかとか、どこが魅力で、どこがマイナスなのかって客観的に見れていなかったりするんですよね。それに対してアドバイスをしますが、変わっていくかどうかは自分たち次第なんです。
渡辺 「誰でも出られる」ですね。事務所の垣根もなく、フリーの人でも出られる。関西なら吉本さんや松竹さんの劇場がありますし、横の交流もあります。でも当時、関東は事務所を超えた交流がなかったんですよ。お笑いライブもほぼなかったので、それをいろんな事務所さんから出てもらうことによって、お互いに切磋琢磨できる。終わった後に反省会をやって、飲みながらああだこうだと意見交換もできるし、仲間もできると。その後、いろんなお笑いライブが出てきましたけどね。
渡辺 いろいろなケースはありますけど、面白いグループは最初から何かありますよね。最初にパッと見て面白いなと思った人たちは、やっぱり上がっていきますよね。爆笑問題がそうでした。彼らが初めて人前でやったのが「ラ・ママ」で、もちろん素人でした。ネタ見せから面白かったんですけど、15分ぐらいあるネタだったんです。でも出演するコーナーはゴングショー形式で出番は1組3分ぐらい。
短くしてくれって言ったんだけど、それを守らずに爆笑問題は15分やって。ゴングショーなのでツマらなかったらお客さんが手を挙げて、一定数を超えると終了になるんですけど、爆笑問題は最後までやり切りましたからね。その日のうちに、事務所の方から「うちに来ないか」って誘いがあって、テレビ局からも「番組を作らないか」って話が決まったそうです。
渡辺 ライブは面白けりゃいいってスタンスでやっているので、バラエティショーでとしてお客さんが楽しんでくれればいいんです。いろんなパターンのお笑いがあって、いろんな風に楽しんでもらえればいいなと。
渡辺 悔しさよりも、「こいつらすげーな」って思いました。それまで自分の中で、大阪の方ってパワーとテクニックと言い方で笑わせるから、発想力で笑いを取るってイメージがなかったんです。ところがダウンタウンさんはシュールで新しかった。大阪で若い人たちが、今までと全く違う漫才を確立しているんだから、俺たちが頑張っても勝てるものじゃないなって。すごい才能が出てきたんだから、俺たちがお笑いの世界にいるよりは、若い人たちが出てきたほうがいいなって思いましたね。
渡辺 後で聞いたらそうだったみたいです。勝ち負けで言うと、完全に負けたなと。特に話し合いはしなかったんですけど、それまで自分たちで企画していた単独ライブもやらなくなりました。かと言って解散する理由もなかったので、1984年に「赤信号劇団」を旗揚げして、作・演出は別に立てて、コントではなくお芝居に移行していきました。
渡辺 そんなに長くやると思っていなかった「ラ・ママ新人コント大会」が今も続いていて、時代に合わせて笑いが変化していく。それを常に肌で感じていられるのは、自分でも勉強になるんですよね。あと出番前に緊張している若手が、いざ舞台に立って爆笑をとっているとうれしいし、逆にウケなかったときは、これだとスベっちゃうんだ、もったいないなと自分のように悔しがる。
一緒にやっているような感覚になれますし、自分も若手時代はそうだったので、刺激的で面白いんです。ガチガチではないユル〜いライブだからこそ、みんなの中に「お客さんに楽しんでもらおう」という気持ちも共有されていますし、それが続けてこられた理由なのかなと思います。
【中編はこちら】渡辺正行が語るコント赤信号ブレイク前夜「 “漫才ブーム” で勝つために、時代の笑いを分析」
【写真】どの時代も第一線で活躍する、リーダーこと渡辺正行の撮り下ろしカット
──渡辺さんは1986年から「ラ・ママ新人コント大会」を主催して、36年間に渡って若手芸人を間近で見守ってきました。
渡辺 お笑いって大体こういう形だろうなと思っていても、どんどん新しい笑いであるとか、新しいキャラクターであるとか、新しいグループであるとか、一味違うセンスであるとか、どんどん変わっていくんですよね。それが面白いんです。コント赤信号が世に出た頃は、まだ家庭にビデオも普及していなかったので録画もできない時代でした。
でも今の子たちは、過去から現在までのお笑いを映像で触れることができて、子どもの頃からお笑い芸人を目指して、どんどん新しいものを作っているので、自然と笑いが変化していくんですよね。それを生で見ていられるのは、すごく勉強になります。
──幾つになっても柔軟に新しい笑いを受け入れられるのはすごいなと思います。
渡辺 僕らはゆーとぴあさんにチャンスをもらって、勉強会などでアドバイスをしてもらったおかげで面白くなっていきました。「ラ・ママ新人コント大会」を始めたのは僕が30歳のときなんですけど、そもそものきっかけは、僕が座長を務めていた「劇団七曜日」の劇団員から、「若い子たちにお笑いを教えてほしい」と言われたからなんです。
ただ僕は、とても教えられるような人間じゃないから、「若手の出られる場を作りましょう」と。そこで、僕たちがゆーとぴあさんにしていただいたように、ネタを見てアドバイスもできればいいなと考えたんです。
だから僕は場を作っただけで、若手を育てようという気持ちで始めた訳ではないんですよね。それが今も続いていて、だんだん出演者も多くなっていったんです。若いときって僕らもそうでしたけど、自分たちの何が面白いのかとか、どこが魅力で、どこがマイナスなのかって客観的に見れていなかったりするんですよね。それに対してアドバイスをしますが、変わっていくかどうかは自分たち次第なんです。
──どういうコンセプトで始めたのでしょうか?
渡辺 「誰でも出られる」ですね。事務所の垣根もなく、フリーの人でも出られる。関西なら吉本さんや松竹さんの劇場がありますし、横の交流もあります。でも当時、関東は事務所を超えた交流がなかったんですよ。お笑いライブもほぼなかったので、それをいろんな事務所さんから出てもらうことによって、お互いに切磋琢磨できる。終わった後に反省会をやって、飲みながらああだこうだと意見交換もできるし、仲間もできると。その後、いろんなお笑いライブが出てきましたけどね。
──後にブレイクする芸人は、若手時代から光るものを感じますか?
渡辺 いろいろなケースはありますけど、面白いグループは最初から何かありますよね。最初にパッと見て面白いなと思った人たちは、やっぱり上がっていきますよね。爆笑問題がそうでした。彼らが初めて人前でやったのが「ラ・ママ」で、もちろん素人でした。ネタ見せから面白かったんですけど、15分ぐらいあるネタだったんです。でも出演するコーナーはゴングショー形式で出番は1組3分ぐらい。
短くしてくれって言ったんだけど、それを守らずに爆笑問題は15分やって。ゴングショーなのでツマらなかったらお客さんが手を挙げて、一定数を超えると終了になるんですけど、爆笑問題は最後までやり切りましたからね。その日のうちに、事務所の方から「うちに来ないか」って誘いがあって、テレビ局からも「番組を作らないか」って話が決まったそうです。
──15分を受け入れる懐の深さも大きいですよね。
渡辺 ライブは面白けりゃいいってスタンスでやっているので、バラエティショーでとしてお客さんが楽しんでくれればいいんです。いろんなパターンのお笑いがあって、いろんな風に楽しんでもらえればいいなと。
──『関東芸人のリーダー』によると、ダウンタウンの登場でコント赤信号のネタを書かなくなったそうですが、新しい才能を認める悔しさみたいなものはなかったんですか?
渡辺 悔しさよりも、「こいつらすげーな」って思いました。それまで自分の中で、大阪の方ってパワーとテクニックと言い方で笑わせるから、発想力で笑いを取るってイメージがなかったんです。ところがダウンタウンさんはシュールで新しかった。大阪で若い人たちが、今までと全く違う漫才を確立しているんだから、俺たちが頑張っても勝てるものじゃないなって。すごい才能が出てきたんだから、俺たちがお笑いの世界にいるよりは、若い人たちが出てきたほうがいいなって思いましたね。
──小宮さんとラサール石井さんも同じ気持ちだったのでしょうか?
渡辺 後で聞いたらそうだったみたいです。勝ち負けで言うと、完全に負けたなと。特に話し合いはしなかったんですけど、それまで自分たちで企画していた単独ライブもやらなくなりました。かと言って解散する理由もなかったので、1984年に「赤信号劇団」を旗揚げして、作・演出は別に立てて、コントではなくお芝居に移行していきました。
──渡辺さんは一貫してお笑いに関わっていますが、長く続けられるモチベーションは何でしょうか?
渡辺 そんなに長くやると思っていなかった「ラ・ママ新人コント大会」が今も続いていて、時代に合わせて笑いが変化していく。それを常に肌で感じていられるのは、自分でも勉強になるんですよね。あと出番前に緊張している若手が、いざ舞台に立って爆笑をとっているとうれしいし、逆にウケなかったときは、これだとスベっちゃうんだ、もったいないなと自分のように悔しがる。
一緒にやっているような感覚になれますし、自分も若手時代はそうだったので、刺激的で面白いんです。ガチガチではないユル〜いライブだからこそ、みんなの中に「お客さんに楽しんでもらおう」という気持ちも共有されていますし、それが続けてこられた理由なのかなと思います。