温厚な婚約者が豹変。乱暴に「お前」呼ばわりされた女が、恐怖の中で気づいたこととは
「彼以外を、好きになってはいけない」
そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。
人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。
これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。
◆これまでのあらすじ
婚約者の大介に嘘をついて、守と二股交際していた美津。守から指輪を贈られたことを知り、大介を置き去りにして、守のいる山下公園までタクシーを走らせた――。
美津を乗せたタクシーは、20時を回る頃、ようやく山下公園についた。
「寒いな…」
タクシーを降りると、その途端に刺すような寒気が全身を包む。思わず身震いをしながら、必死であたりを見回した。
― 守くん、本当にこんな寒いところにいるのかしら。
目の前には、若いカップルが歩いている。体温を分け合うかのように寄り添いながら談笑していた。
彼らを追い抜くかたちで、海に面した通りまで歩いた。キラキラと輝きを放つ海面が、目の前いっぱいに広がる。
― ああ、横浜に来ると思い出すわ。大晦日に守くんに告白されて、付き合って…。
無意識のうちに、顔がほころんだ。
この、横浜という思い出の場所でなら、指輪を贈ってくれた守とイチからやり直せる。そんな気がしたのだ。
「あ…」
海を臨んで並んだいくつものベンチ。そのひとつに、守が座っていた。寒く暗いというのに、ひとりで本を読んでいる様子だった。
「守くん!」
声をかけると、守はハッと顔をあげる。久々に見た守はやはりかっこいい。
美津は思った。守が指輪を贈った真意を聞こう。
― もしあの指輪の意味が「プロポーズ」なのだったら、その気持ちに応えてあげたいわ。
「守くん。彼氏と別れたなんて嘘ついて、ごめんね」
かすかな海の音しかしない夜の公園に、美津のよく通る声が響いた。しかし守は、何も聞こえないかのように本に視線を戻す。
「守くん…?ねえ、ごめんね?聞いてる?」
「…うん」
美津の目を見ないばかりか、表情ひとつ動かない守。
― そりゃ怒るよね。でも、守くんの気持ちをちゃんと聞かなくちゃ。
「ねえ。指輪を贈ってくれたのは、結婚を考えてくれていたからなの?それとも、ただのプレゼント?」
美津の問いに、守はようやく顔をあげ、口を開いた
守の目が、ようやく美津を捉える。大きな目が、海面のように光っていた。
「プロポーズしようとしたよ。…別れたいって美津さんが言ったとき、思ったんだ。僕の本気が伝わっていないんじゃないかって。それで決断した」
― やっぱり、そうなのね。
美津は、微笑みを浮かべた。
「ありがとう。私、今まで、怖くて向き合えなかったの。守くんの若さだと、まだ結婚なんて考えられないと思ってたから…私が婚期を逃しそうで」
「うん…」
「だから、守くんが本気だって知った今、すごく嬉しい。ありがとうね」
美津はしゃがみこんで守と同じ視線になり、ゆっくりと告げた。
「私、守くんと一緒にいるわ。決めた」
「…え?大介さんとの結婚は?」
「大ちゃんにプロポーズされたときは、守くんがそこまで本気だって思ってなかったの。だからついフラついた。でも今、本当に心が決まったわ。守くんのこと、本当に好き」
自信満々に話す美津をしばらく見つめたあと、守はふっと頬をゆるめた。
「美津さんってさ、バカだよね」
「…ふふ。バカで結構だわ。守くんのことが好きなんだもの」
指先は感覚が鈍るほど凍えていた。しかし、興奮で心はポカポカしている。そんな美津に対し、守は困ったように首を横に振った。
「違うよ」
「え?」
「なんで大介さんを置いて、俺のとこに来たの?バカじゃん」
「…」
「今さら修復できるとでも思ったんだ?」
守は立ち上がって、美津を見下ろした。
「僕ね、うわついている人って嫌いなんです。言ったよね?母親も、兄の結婚相手も、浮気が理由で出て行ったんだ。だから僕、そういう身勝手な人間が小さい時から大嫌いなんです」
歯を食いしばって話した守は、少し笑いながら言った。
「もう修復不能だよ」
「……」
「わざわざ来てくれてありがとう。大介さんのとこに、今すぐ帰ってください」
「え、でも私、本当に守くんと0からやり直すつもりで…」
「僕、もう行きます」
どんなに食い下がっても、守のシャッターは二度と開かなかった。守はひとりで歩き出す。
「待ってよ」
呼びかけると、彼はゆっくり振り返って口を開いた。
去り際に守が美津に言った、あるアドバイスとは
「大介さんにはこう言ったらいいと思います。僕が勝手に美津さんに惚れ込んで、暴走して指輪まで贈ったんだって。…美津さんと付き合ってたことは、大介さんには言わなかったから」
「でも…」
「今からでも、大介さんとやり直せるんじゃない?僕はもう、全部忘れるから。二度と関わりたくない」
守の冷たい瞳が、美津を跳ね返す。
― ああ、守くんとはもう終わりだ。
去っていく背中を見て、美津は終わりを受け入れた。心の中で悔しさがじわじわと広がっていく。
「帰ろう…」
先ほどタクシーを降りたばかりの道までとぼとぼと歩き、またタクシーに乗りこむ。
動き出した車の中で美津は、守が言った「大介さんと、今からでもやり直せるんじゃない?」という言葉を反芻した。
― そうね。守くんが勝手に私に惚れ込んで、暴走して指輪まで贈った…そう言ったら、大ちゃんは許してくれるかも。
なんとしてでも大介を繋ぎ止めたい。その一心だった。
「じゃないと…いよいよ孤独になっちゃう…」
美津はバッグからアクセサリーケースを取り出す。守と会うから、大介からもらった婚約指輪を外していたのだ。それを薬指に戻した。
どうにか大介に納得してもらわなくては。別れることだけは避けなくては。そう思うと、目が爛々とする。
「ただいま」
リビングに戻ると、大介は相変わらず同じ姿勢でソファに座っていた。
手には缶ビールを持っている。しかもテーブルの上には、同じビールの空き缶が3本も置かれていた。
「ずいぶん飲んでるのね…。守くんと話してきたわ」
「…それで?」
頬を赤く染めた大介が、美津を見た。いつもより少し声が大きい。
「うん。守くんね、やっぱり私のことが好きだったみたい。一方的に、好意を寄せられてたのよ。…でも付き合ってもないのにいきなり指輪を贈るなんて、珍しいことするよね」
「……」
「確かに、守くんのことを可愛がってはいたわ。でも、弟みたいだなと思ってただけだから。まさか恋愛感情を抱かれるとは、驚きよ」
大介は黙ってビールに口をつけ、横目で美津を見た。睨んでいるような目だった。
「なんで睨むの?本当に守くんとは何もないのよ?でもたしかに私も、脇が甘かったわ。あんなに若い子から本気で好かれるとは思わないから、優しくしすぎたかも」
そのとき、大介の持っていたビールが鈍く大きな音を立て、テーブルに置かれた。
思わず身震いをする。
「大ちゃん…?」
「さっきからペラペラとよく喋るね。お前いい加減にしろよ」
4年間一緒にいて、「お前」と呼ばれたことなど一度もなかった。大きな物音を立てるようなことだって、一度もなかった。
缶を握る大きな手が、小刻みに震えている。
― あ…。
美津は気づいた。
― ペアリングがない。
付き合ってからの4年間、毎日肌身離さずつけていたはずのペアリングが、大介の手から消えていたのだ。
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欲望のままに暴走した日々。美津が最後に墜落した場所とは――。