あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

夫の孝之が、一夜の浮気をしていたことを知りショックを受けた美郷だが、娘の絵麻のために再構築することを決意する。

しかし、再構築はスムーズにはいかなかった。昔の男友達・最上のもとで働き始めた美郷は、孝之に浮気を疑われる。傷ついた美郷が深夜のオフィスに逃げ込むと、そこには最上がいて…。

▶前回:夫に男友達との浮気を疑われたサレ妻。ショックのあまり向かった先は、自宅でも実家でもなく…




最上くんの体が、ものすごく近い。ちょっと体をのばせば、キスできそうなほどだ。

「え?え?ちょっと…」

状況が飲み込めない私は、ただ間抜けな声を出すことしかできない。

― 最上ってやつと、仕事のふりして何してるの?

頭の中で、孝之の声がリフレインする。

― ダメ!そんなつもりでここに来たんじゃない。最上くんとそういうことになったら、私、孝之と同じになっちゃう…!

でもそこまで考えてから、思った。

孝之がした裏切りを、なぜ私はしてはいけないのだろう。

ましてや私は、事実無根の状況でも孝之に疑われていたのだ。

ここ数ヶ月の騒動でひどく傷つき疲れた心を、最上くんの優しさは薬のように癒してくれる。

― どうせ疑われているのなら、いっそ、このまま最上くんに身を任せてみようか…。

積み重なった絶望と疲労が、私の背中を押した。

なかばやけになって最上くんの目を覗き込んだとき…。

私は、自分でも意外なことを感じたのだった。


男友達とキス寸前まで接近した美郷が、感じたこととは?


最上くんの目が、私の後ろにあるパソコンの光を反射して輝いている。

きれい。けれど、その瞳に惹かれながらも私は、強い違和感を覚えたのだ。

― 孝之じゃない。

当たり前のことだった。最上くんは、孝之とは全然違う。

顔や雰囲気が対極的なことはもちろんだけれど、それ以上に大きく違うところがあった。

それは…孝之は確かに私を愛していて、その愛を余すことなく伝えてくれていたということ。

「美郷、愛してる」「美郷、大好きだよ」

キスをするたびに、いつだってそう伝えてくれた。美しい花や宝石を慈しむような、温かい眼差しで。

裏切られたけれど、あの愛が嘘だったとは思えない。私は、孝之のそんなところが好きだったのだ。

何も言わずにそばにいてくれる最上くんの優しさには、本当に救われる。

けれど、そんな静かな優しさを持った最上くんと比較することで、皮肉にも私は、痛みのあまり蓋をしていた孝之への想いを再確認したのだった。

ゆっくりと、最上くんとの距離が近づいていく。つい先ほどまで感じていた「身を任せてもいい」という気持ちはすっかり消え失せ、私は思わず身を固くした。

「最上くん…」

怯えるような声が、私の口から漏れる。

最上くんはそんな私を怪訝そうな顔で見ると、ごく冷静な声で言った。

「あ、ごめん。ちょっとそこどいてもらえる?パソコン触りたくて」

「あ…。あっ、ごめん!」

慌てて飛び退き、パソコンの前の椅子を最上くんに譲る。

キスされるかも、なんてひとりで身構えてしまった自意識過剰な自分がとてつもなく恥ずかしく、顔が燃えるように熱くなった。

私が慌てている様子に目もくれず、最上くんはGmailにログインし、相変わらずの淡々とした調子で私に問いかけた。

「ミサト。僕が離婚した理由、知りたい?」



最上くんが打ち明けてくれたのは、いたってシンプルなストーリーだった。

仕事に夢中になっていた最上くんは、奥さんを放っておきすぎた。

そして奥さんは寂しさに耐えかねて、最上くんのもとを去り、地元にいる元彼氏のところへと行ってしまった…。

言葉にしてしまえば、たったそれだけ。ごくありふれた男女の話。でも、今の私にはその時の最上くんの気持ちが痛いほどわかる気がして、自分のことのように胸が痛くなるのだった。

話を聞いて黙り込む私に、最上くんは先ほどログインしたGmailの画面を見せる。




「これ、離婚した後に元奥さんから送られてきたメール」

「読んでもいいの?」

「うん」

元奥さんからのメールには、結婚中に最上くんを裏切ってしまったことへの謝罪と、今は幸せだという近況報告がつづられていた。

そして、結婚中の最上くんへの、批判の言葉に満ちていた。

『もう少しあなたが私と向き合ってくれていたら、私だって裏切らずに済んだ』

『あなたが何を考えているのか、わからなかった』

『あなたの愛情に自信が持てなくて寂しかった』

完全に最上くんに感情移入していた私は、元奥さんの言葉の無責任さに、激しい怒りを覚える。

「ひどい…!全部、浮気した側の都合のいい言い訳じゃない!とても最後まで読んでられない」


元奥さんからの自分勝手なメールを、最上はどのように受け止めたのか


あまりの気分の悪さにメールを読むのを中断し、最上くんの方を振り返った。

けれど彼はそんな私に、柔らかな微笑みを投げかけたのだ。

「いや、僕は彼女の言い分に納得してるんだ。浮気されたことはショックだったけれど、僕にも反省しなきゃいけない部分がたくさんある」

そう微笑む最上くんにも、小さな苛立ちを覚える。思わず、言葉に刺々しさがにじんだ。

「なんでそんなお人好しなこと言えるの?」

最上くんは淡々と言葉を続ける。

「僕はね、結婚している間中…いや、その前もかな。一度も彼女に、『愛してる』って言ったことがないんだ。

結婚してるんだから、一緒にいるのが当たり前。だから自分の気持ちなんて改めて伝える必要はない。そんなふうに思ってた」

「だからって、浮気していいってことにはならない。信頼を裏切るなんて、愛情を尽かされても仕方のない行為じゃない!」

行き場のない怒りで興奮する私に、最上くんが静かな声で言った。

「もしかして美郷も、言ったことがないんじゃない?旦那さんに、『愛してる』って」




「…え…?」

そんなことない、と言いかけて、私はすぐにその言葉を飲み込んだ。

プロポーズされたとき、私は「わかった」と答えただけだった。

毎朝のキスのとき、私は「いってらっしゃい」と応えるだけだった。

木村さんに「愛してるんですか?」と聞かれたとき、私は「家族なんだから当たり前」と言っただけだった。

やり直すことを孝之に告げた時も、「絵麻のために」と言って…。

愕然として、口を押さえる。そして改めて、元奥さんからのメールに目を通した。

『あなたが何を考えているのか、わからなかった』

『あなたの愛情に自信が持てなくて寂しかった』

静かに、体温が下がっていくような感覚を覚えた。

何一つ不自由のない、完璧に幸福な家族。

…浮気されるまでそう思っていたのは、果たして、孝之も同じだっただろうか?

長い沈黙のあと、最初に口を開いたのは最上くんの方だった。

「…やっぱりね。ミサトと僕は、似てるから。

さっき、ミサトは言ったよね。『浮気で信頼を裏切るなんて、愛情を尽かされても仕方ない』って。でも、ミサトはこんなに傷ついてる。…愛情がないのなら、こんなに傷つくかな」

最上くんの言葉に、私はますます沈黙してしまった。

寂しかったから浮気をしていいとは思わない。けれど、本当の孤独の中にいる人は、驚くほど弱い。そのことは、さっき一瞬だけでも最上くんに抱かれてもいいと思ってしまった自分自身が証明していた。

「…私、行くね」

長い沈黙のあと、私はようやく口を開いた。最上くんはパソコンの前に座って背を向けながら、そっけなくうなずく。

「その方がいいよ。僕は、話し合いの機会も作らなかった」

画面にはまだ元奥さんからのメールが開かれていて、私が読まなかった最後の部分が表示されている。

『どうぞ初恋の彼女のような、あなたと同じタイプの素敵な女性を見つけてください』

そんな言葉があった気がしたけれど、すぐに最上くんは画面をシャットダウンしてしまったからよく見えなかった。

「遅いから送りたいけど、やめておくよ。また浮気を疑われたら困るからね」

そんな冗談ともつかない言葉で見送ってくれた最上くんに別れを告げると、私はオフィスの前でタクシーを拾い、孝之がまだいるであろうホテルへと向かった。

浮気相手と別れたら、過ちなどなかったように、普通の生活に戻ること。

今ならわかる。私が有無を言わさず突きつけた再構築の条件が、私たち夫婦をいびつにしている。

孝之の浮気について、そして、2人の関係について、孝之と本音で話す必要があるのだ。たとえその結果…、再構築ではなく、別れが待っていたとしても。

そんな決意をもってホテルのドアを開けた瞬間。私は思わず言葉を失った。

…私の目に飛び込んできたのは、今まで見たこともないような、信じられない光景だったから。

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孝之と、腹を割って話し合う。決意を固めた美郷が目にした光景とは