結婚したい女が、平日1時間しか会えない彼氏を待ち続けた結果…
外食が思うようにできなかった、2021年。
外で自由に食事ができる素晴らしさを、改めてかみ締める機会が多かったのではないだろうか。
レストランに一歩足を踏み入れれば、私たちの心は一気に華やぐ。
なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。
これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。
▶前回:30歳までは余裕でモテたのに…。コロナ禍の2年、結婚を諦めかけていた女が選んだ意外な相手
Vol.5 かすみ(32歳)一途な恋の行方
「旦那はエリート官僚、かすみ自身は税理士試験に合格して大企業に転職。
かつての同僚・美春が、ビールを飲みながら自虐的に嘆いた。今日は美春から「相談したいことがある」と連絡があり、仕事終わりに2人で軽く飲んでいる。
美春はゴクリと喉を鳴らしながらビールを飲み終えると、グラスをテーブルにドンッと置き、「ねえ、教えてよ」と、身を乗り出した。
「かすみはどうやって結婚に漕ぎ着けたの?胃袋を掴んだ?外堀を固めた?それとも左手の薬指のサイズ教えた?
私に足りないものって何だと思う?」
先週彼氏に振られたばかりで、ご乱心らしい。まくし立てるように、かすみに迫った。
美春は、ずいぶん前から婚活に励んでいるが、短命な恋愛を繰り返している。
「ちょっと、落ち着いてってば」
かすみは、前のめりになった美春を押し返しながら、少しの間考えを巡らせた。
「うーん、相手を信じて待つことじゃない?」
美春は、意味がわからないという視線をかすみに向ける。
「綺麗事に聞こえるかもしれないけど。私、健一郎のことを信じて待ってたの。それはそれは、忍耐力のいる、ハードな日々だったんだから」
かすみは、健一郎と付き合っていた頃に想いを馳せた。
キャリアも幸せな結婚も手に入れたかすみの、知られざる過去とは…?
◆
遡ること6年前。
かすみは、半蔵門にある税理士事務所でアシスタントとして働いていた。美春は、その時の同僚だ。
健一郎と出会ったのは、勤務先の税理士に誘われた飲み会だった。
飲み会も終わりに差し掛かろうとしていた21時過ぎ。
「遅れてごめん、さっき仕事が終わった」
一人の男が、コート片手に息を切らしながらレストランに走り込んできた。
スラリと長身で、程よく筋肉のついた体。すっきりとしたフェイスラインに、シャープな目元。
全体的にあっさりしているが、黒縁メガネがよく似合う、いかにも偏差値の高そうな雰囲気を纏っている。それが、健一郎だった。
「よう、おつかれ。って、飲み会もう終わっちゃいますけど」
幹事の男が軽口を叩くと、彼は「ごめん」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんなギリギリならドタキャンすれば良いのに。お前、とりあえずビールで良い?」
幹事が面倒そうに問いかけると、もう一度頭を下げた。
「ドタキャンなんてしないよ。約束したんだから。ほんと、ごめんな」
そしてパッと顔を上げた健一郎と目があった時。かすみの心臓が、ドクンと脈を打った。
― この人のこと、好きかも。
その後、かすみからアタックする形で交際がスタートした。
当時、健一郎は内閣府の地方創生を担当していた。いわゆる官僚で、多忙ではあったが、合間を縫って会いに来てくれたし、頻繁に連絡もくれる。
そんな彼の誠実さと優しさに、かすみはどんどん惹かれていった。
だが、幸せな日々はそう長く続かなかった。
付き合って半年。健一郎が内閣官房に異動になった頃から、様子がおかしくなったのだ。
『明日から5日間出張』とだけ言い残して音信不通になったり、『急に呼び出された』と、デート中に職場に戻ることが増えた。
家で待ってようかと提案しても、「宿舎に部外者を入れてはいけない決まりなんだ」と、断られる始末。
彼女という立場でありながら、部外者として扱われたかすみの心は、少なからず傷ついた。
メッセージの未読時間も長くなり、既読無視されることも増えた。電話できる時間も大幅に減った。
理由を尋ねても、いら立ちをぶつけても、健一郎は申し訳なさそうに「詳しくは言えない」「ごめん」を繰り返すばかり。
― どうしちゃったの…。私のこと嫌いになったのかな。
彼の変わりように、かすみの心はどんどん不安になっていった。さらに不安を増長させたのが、周りの声だ。
「彼、浮気してるんじゃない?」
「彼、既婚者なんじゃない?」
健一郎の話をすれば、皆口をそろえてこう言った。そして続けてこんなアドバイスをしてくる。
「そんな男捨てて、さっさと次を探しなよ」
「20代のいい時期を棒に振るよ?もっと楽しみなよ」
当時は、美春も「さっさと別れなよ。もっとイイ男がいるはず」と、積極的に食事会やパーティーに誘ってきたものだ。
気晴らしになればと参加したこともあったが、そう簡単に健一郎への気持ちを捨てることなどできない。むしろ、想いは募るばかりだった。
― それにやっぱり…。
あの誠実な健一郎が、自分のことを裏切るとは思えなかった。
散々悩んだ末、かすみはひとつの考えに辿り着く。
「健一郎のこと、信じてみよう」
周りに何と言われようといい。将来、痛い目に遭うかもしれない。それでもかすみは、自分の直感を信じてみることにしたのだ。
そんな決意を新たに、メッセージを送る。
『平日の夜、どこかで1時間だけ会えない?職場の近くに行くよ』
すると珍しく、健一郎から返信があった。
『明日の19時過ぎなら大丈夫かな。仕事で呼び出されるかもしれないけど』
『じゃあ、『沙伽羅』で待ってる』
赤坂なら、彼の職場からタクシーですぐ。走っても15分以内に戻れるだろう。
お蕎麦なら、食後仕事に戻っても支障は出ないだろう。それに『沙伽羅』は、お造りや揚げ物のサイドメニューも充実しているから、その時々のニーズに応えてくれるはず。かすみなりの気遣いだった。
健一郎のことを一途に思い続けるかすみ。その傍らで、あることを始める…?
翌日。
「久しぶり」
かすみが店内でメニューを眺めていると、息を切らしながら健一郎がやってきた。
彼が席に着くやいなや、かすみは3色もりの蕎麦と小海老のかき揚げをオーダーする。
しばしの間、互いの近況報告をしていたが、すぐに料理が運ばれてきた。
「こ、これは…?」
目の前に置かれた黄色の蕎麦に、健一郎が目を丸くする。
「柚子切りって言って、ここの名物なの。柚子が練り込んであって、爽やかな香りも楽しめるわよ。さあ、食べて」
「うーん、最高に美味しい!」
蕎麦を思い切りすすった健一郎は、満面の笑みをこぼした。続けて、サクサクっと小気味よい音を立てながらかき揚げにかぶりつく。よほどお腹がすいていたのだろう。あっという間に平らげた。そして温かいお茶を飲みながら口を開く。
「かすみ、ここのところ本当にごめんな。でもこうして…」
と、言いかけたところで彼の携帯が振動した。
「早く戻らないとでしょ?また今度ね」
かすみがすかさず反応すると、健一郎は一瞬驚いた表情を見せたが、「ごめん」と、再び職場へと戻って行った。
そして彼の仕事が終わったと思しき深夜。
『我慢させてばかりでごめん。でもまた、今日みたいに会えたら嬉しい』
こうして、平日1時間限定のデートが始まった。
『沙伽羅』でのデートを重ねていたある日。
― 勉強してみようかな。
彼を待つかすみの頭に、こんな考えがよぎった。
多忙の健一郎と会えるのは、平日の1時間程度。休日出勤も多く、なかなか会えない。
とにかく、ひとりでいる時間が長いのだ。そこで思いついたのが、税理士試験の勉強だった。
曲がりなりにも税理士事務所で働いている。税理士が難易度の高い資格ということは重々わかっているが、たとえ試験がダメでも勉強したことが無駄になることはない。
ダメでもともと。そう思いながら始めた税理士の勉強だった。
そして1年前。
― う、受かった…!
コツコツ勉強していたのが奏功。5年間かけてすべての科目に合格し、晴れて税理士になったのだ。
健一郎からプロポーズされたのは、その翌日だった。5年越しの恋と勉強が、実った瞬間だった。
◆
あとからわかったことだが、当時の健一郎は総理大臣をサポートする職務についていて、国内外のあらゆる危機対応に当たっていた。
出張に関しても、トップシークレットの外交に随行するなど、公にできないことばかり。
ちなみに、住まいも危機管理要員用宿舎で、部外者を入れてはならないというルールを遵守していたらしい。
結論から言えば、浮気でもなんでもなく、本当に忙しかったのだ。
部署を異動した後、健一郎の口からそのことを聞かされた時、かすみはホッとしたし、嬉しかった。
― やっぱり、誠実な人なんだな。
秘密やルール、約束は必ず守る。だからこそ仕事でも、重要な職務を任されているのだろう。
ここ2年間、健一郎はコロナ対応に奔走している。相変わらずゆっくりとしたデートはできないが、『沙伽羅』での食事が、夫婦の楽しみだ。
パパッとお蕎麦だけでも、日本酒片手に呑むのも良い。酒肴はどれも絶品だが、焼みそは、塩味のきいたシンプルな美味しさがやみつきになる。
季節の変わりそばといって、その時々のお蕎麦をいただけるのも、この店ならではの楽しみだ。
そうそう、ここの蕎麦屋は某大物政治家も足繁く通っている。健一郎ももしかしたら、彼の付き添いで今後来ることがあるかもしれない。
また、かすみにも大きな変化が訪れた。税理士資格を武器に大手製薬会社の経理部門に転職したのだ。
キャリアも家庭も。30歳を過ぎた今、ようやく大輪の花を咲かせることができた。
数年前、周りの声に振り回されることなく、じっと根をはることに専念したおかげだろう。
今でこそ自分の選択に自信を持てるが、ここに至るまでにはかなりの葛藤があった。
華やかな生活を送る友人たちと自分を比べて落ち込んだことも一度や二度ではない。
魅力的な選択肢に溢れる東京で、一途に思い続けることは難儀なことだったけれど。
「これまでも、これからも大好きよ」
かすみは、柚子切り蕎麦を思いきりすすった。
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