『ジョン・レノン 最後の3日間』から、「売れない」宣告をされたマネジャー、ブライアンの奮闘をお届けします(写真:iStock/Paul Hanley)

エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、アメリカ国人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞しているアメリカでも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。そ

彼が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった昨年、満を持して上梓したのが、ニューヨーク・タイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。

今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter1・4・11を丸ごと、東洋経済オンライン限定の試し読みとして3日連続・計3回に分けてお届けします。

リバプールのバンド人気投票1位に輝いたビートルズ

人の好みはそれぞれ違う
──「エヴリデイ・ピープル〈Everyday People〉」

1961年12月13日、ブライアン・エプスタイン(リバプールのレコード店の経営者で、当時ビートルズのマネジャーを買って出ていた)は、ロンドンの大手レコードレーベルであるデッカのA&R(アーティストの発掘・契約・育成や楽曲の制作を行う)担当であるマイク・スミスを、キャバーン・クラブに招待した。

ビートルズの演奏を生で聞かせるためだ。

ライブを観たスミスはビートルズをいたく気に入り、翌年の1月1日にロンドンに来るようにと彼らに伝えた。

そして同じころ、ビートルズは『マージー・ビート』誌上で行われたリバプールのバンド人気投票で、ジェリー&ザ・ペースメーカーズとロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズを抑えて堂々1位に輝いた。

張り切ったブライアンは、メンバー全員にクリスマス・プレゼントとして旅行用の目覚まし時計を贈った。

カード代わりの名刺の裏には、「みんなが時間どおりに来られるように、僕からのほんの気持ちです」としたためられていた。

ビートルズのその年最後の仕事は、12月27日にキャバーンで開かれる「ビートルズのクリスマス・パーティー」というイベントだった。

ところが直前になって、ドラマーのピートから体調を崩して参加できなくなったと連絡が入った。

そこで代わりのドラマー候補として、3人が口をそろえて挙げた名前は、リンゴ・スターだった。

「これでそろった、と感じたよ」と、その日、リンゴがバンドに加わったときのことを、ジョージはのちに次のように回想している。

「やっと実現したんだ、という感じで、すごくしっくりきた。ライブの後、僕らはみんなリンゴと仲良くなった。みんなリンゴのことが大好きで、一緒に飲みにいったりして時間を過ごしたよ。その点、ピートは一匹狼だった。ライブが終わると、いつもすぐに姿を消してしまってね」

だが年が明けても、ビートルズのドラマーはピートのままだった。

リンゴは、トニー・シェリダンのバック・バンドに参加するために、ハンブルクに旅立ってしまったのだ。

初めてのスタジオレコーディング

デッカは、ロンドンのスタジオでのレコーディング・セッションを単なる「コマーシャル・テスト」と呼んだが、ビートルズのメンバーにとって、それはまさに人生がかかったオーディションだった。

ドイツでレコーディングをしたときに使ったのはスタジオではなく、高校に隣接する講堂だったから、本物のスタジオに入ること自体、彼らにとって初めての経験だった。

ジョンとポールとジョージは、ギターをスタジオのアンプにつなぎ、ピートはついたての向こう側にドラムをセッティングした。

音量はすべて、ガラス窓の向こうにいるエンジニアたちが4人の様子を見ながら機材を使って調整する、ということだった。

録音中であることを示す、赤いランプが灯った。

さあ、始まりだ。

セッションを終え、リバプールでデッカからの返答を待つ4人に、ブライアンが言った。

「いいかい。たとえ僕がでかい仕事を取ってきても、レザーの服のままじゃやらせてもらえないよ」

ジョンは答えた。

「わかった。スーツを着るよ。金になるなら、風船でも何でも着てやるよ! 別にレザーが大好きってわけじゃないからね」

これを聞いて、ポールもうなずいた。そろそろイメージを変えてもいいころだ。

「どちらにしても、全身レザーってのはそろそろ時代遅れだしね」

同時に、ポールの頭を疑問がよぎる。でも、これはいわゆる、魂を売るってやつなんだろうか?

「魂を売る、なんてふうには思ってなかった」と、ジョージはのちに語っている。

「ゲーム感覚だったよ。自分たちを売り込むためにはテレビに出なくちゃいけなくて、テレビに出るためにはスーツを着なくちゃいけない、というなら、スーツを着るまでだ。ひらひらしたドレスだろうが何だろうが、ライブがやれるなら何でもよかった」

「ついでに言っておくが」とブライアンは続けた。

「本当にいまよりも大きな舞台で仕事がしたいなら、ステージの上での飲食は禁止だ。汚い言葉を使うのも、喫煙もやめろ」

「わかったよ、やめるよ」、少なくともステージ上では、とジョンは胸の中でつぶやいた。

クリーンなイメージでも大はしゃぎの4人

後になって、ジョンはこう説明している。

「ブライアンは、僕らのイメージをクリーンにしようとしていた。成功したいなら、ステージの上でチキンを食うなんて行儀の悪いことはやめろってわけだ。僕らは、ブライアンについていくことにした」

1月29日月曜日、ブライアンはビートルズをバーケンヘッドにあるベノ・ドーンの店に連れていった。ブライアン行きつけの仕立屋だ。

4人は「下襟は絶対に細め、パンツもものすごく細く」することを要求し、主任職人を閉口させた。

だが本人たちは大はしゃぎでこの体験を楽しみ、店員の女の子たちを夢中にさせた。

(しぶしぶとはいえ、ジョンがステージでスーツを着てネクタイを締める、という皮肉な事態に、叔母のミミは大喜びし、笑い飛ばした。「ハハハ、これでみすぼらしい格好も終わりね、ジョン・レノン」)。

1週間後、ブライアンはデッカの幹部に会うために、1人でロンドンに向かった。

役員専用のダイニング・ルームに通されたブライアンを待っていたのは、A&R部門トップのディック・ロウ、営業部長のスティーヴ・ビーチャー=スティーヴンズ、彼のアシスタントのアーサー・ケランドという面々だった。

重役がそろっているのを見て、これは期待できそうだ、とブライアンは思った。

ところが、期待は大外れだった。

ロウが最初に口を開いた。

「ミスター・エプスタイン、率直に申し上げて、われわれはあの子たちのサウンドを気に入りませんでした。4人組のギター・グループは、もうはやりませんよ」

売れないと言われたブライアンが取った行動

ブライアンはこの言葉に衝撃を受けたが、簡単には引き下がらなかった。

「みなさん、どうかしているんじゃないですか? あの子たちの人気はこれから爆発的に広まります。いずれはエルヴィスよりビッグになるはずだと、私は信じています」

そう言うとブライアンは、「ビートルズ、人気投票で1位!」という見出しの躍る『マージー・ビート』を取り出し、幹部たちに見せた。

「この子たちは売れません、ミスター・エプスタイン。私たちは、この手のことはよくわかってる。リバプールでのレコード店の事業が好調なんでしょう。そちらに専念したほうがいい」

この侮辱的な言葉と見下すような口調こそ、ロンドン特有の気取った根性の表れだ、とブライアンは思った。

それでもブライアンは、説得の手をゆるめなかった。ビートルズを逃すのは大きな間違いだと彼らに理解させるために、詳しい情報を並べ立ててみせた。

「じゃあ、これでどうかな。トニー・ミーハンは知ってるだろう?」


「シャドウズの元ドラマーですか?」

「そうだ。彼はいま、うちのA&R部門にいてね。トニーなら、ティーンエイジャーが求めるものを直接見ていて、よく理解している」

ブライアンはトニーに会うことに同意はしたものの、2月10日にリバプールの自分のオフィスに戻るやいなや、トニーによるプロデュース計画を断る手紙を投函した。

手紙には、こう書かれていた。

「前回お会いした後、ビートルズは別の会社からレコーディング契約のオファーを受けました」

これは、真っ赤なウソだった。ブライアンは、ビートルズを却下したことを必ずデッカに後悔させてやると、心に誓っていたのだ。

「デッカの連中は、ランチ代程度の費用でビートルズと契約できたはずなんだ」とブライアンは思った。

実際、トニー・ミーハン自身も、何年も後になってこう振り返っている。

「あらゆる意味で、完全な混乱状態だったよ。あれは、企業として取り返しのつかない大失敗だった」