『ジョン・レノン 最後の3日間』から、ジョージ・ハリスンとの出会いをお届けします(写真:iStock/Martin Wahlborg)

エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、アメリカ人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞しているアメリカでも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。

彼が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった昨年、満を持して上梓したのが、ニューヨーク・タイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。

今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter1・4・11を丸ごと、東洋経済オンライン限定の試し読みとして3日連続・計3回に分けてお届けします。

ジョンとポール、ギターを弾く日々

あのころの僕より
いまのほうがずっと若いんだ
──「マイ・バック・ページズ〈My Back Pages〉」

次にジョンとポールが取り組んだのは、バディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ(That’ll Be the Day)」だった。イントロのコードを解き明かすのだ。

2人はもう何週間も、この曲にかかりきりだった。

文字どおり、ひざを突き合わせるようにして向かい合わせにいすに腰掛け、お互いがギターを弾く様子をじっと見つめる。左利きのポールと右利きのジョンが向かい合うと、まるで「だれかが鏡を掲げているみたい」だった。

ジョンは、めったに学校の授業に出なかった。そして、たまに出席すると反抗的な態度でずけずけとものを言い、何かと議論をふっかけては、強情な姿勢を崩さなかった。

「僕が攻撃的だったのは、人気者になりたかったからだ」と、ジョンはのちに打ち明けている。

「リーダーになりたかった。みんなが僕の言うとおりに動いて、僕の冗談に笑い、僕を親分扱いすること。それが望みだった」

リバプール・カレッジ・オブ・アートでは、ジョンに好意的な同級生や教師もいれば、毛嫌いする者もいた。だが、ジョンを無視する者は1人もいなかった。それでも、ジョンがいちばん生き生きとするのは、だれもいないポールの家で、2人で「目と目を見合わせながらのセッション」をするときだった。

ポールはこのころリバプール・インスティチュート・ハイスクール・フォー・ボーイズに通っていたが、まともに出席するのは月曜日だけで、それ以外の曜日は授業をサボってジョンと2人で緑色の2階建てバスの86番線に乗り込んだ。

座るのは決まって、タバコの吸える2階席だった。

ジョンは、この古びたバスが好きだった。

綿のカバーの下にスプリングのごつごつとした感触を感じる座席や、ほっとするような暖かい空気。すっきり片付いた叔母のミミの家よりも、母ジュリアの家の雰囲気に近かった。

ジョンは座席に腰を落ち着けて、ポケットから眼鏡を取り出した。ポールがその様子をじっと見つめる。

「僕が眼鏡をかけているところ、見たことないだろ。めったにかけないからね」

ジョンの視力が悪化し始めたころ、ミミは彼を眼科に連れていった。

その結果、極度の近眼であることがわかって分厚い眼鏡をかけるようになったのだが、一度幼稚園で友だちにからかわれて以来、人前では絶対に眼鏡をかけなくなってしまったのだ。

でも、ポールの前では気にならなかった。ジョンにとって、ポールはすでに弟のような存在だったのだ。それも、恐ろしく才能があり、野心にあふれ、固い意志を持つ弟だ。

作曲に興味を持ち始めたジョン

2人はコード進行を繰り返したどった。

次第に、ジョンがどうにかギターでイントロを弾きこなせるようになった。

成功を祝うために、ポールが紅茶缶からくすねてきたタバコの葉を父親の予備のパイプに詰めて、火をつけた。ジョンは一口、煙を吸い込んで考えた。

「バディ・ホリーの曲は、ほとんど全部3つのコードだけで書かれてる。僕たちも、曲を書いてみるべきだ」

ポールが最初に作詞作曲のテクニックについて話をしてきたときには耳を貸さなかったジョンだが、いまや興味津々で話を聞き出しにかかった。

ポールは最初から話し始めた。

「ギターを持って座るんだ。ピアノでも、どっちでもいい。そして手始めに、メロディーを探して、コードの組み合わせやフレーズ、言葉の連なりなんかを見つけていくんだ」

ジョンはその創作プロセスに自分も参加したい、と感じた。だがすぐに、曲を書くのは簡単ではないと痛感することになった。

2人の最初の共作である「トゥー・バッド・アバウト・ソロウズ(Too Bad About Sorrows)」は未完成のまま終わり、続く「ジャスト・ファン(Just Fun)」も同様だった。

次に2人が書いた「ビコーズ・アイ・ノウ・ユー・ラブ・ミー・ソー(Because I Know You Love Me So)」は、バディ・ホリー風の一曲になった。

2人はすでに、ハーモニーをものにしつつあった。

ポールは、さっそく次の曲を書き始めようとノートをめくり、空白のページのいちばん上にこう書き込んだ。

「レノン=マッカートニーによる次のオリジナル曲」

ジョージ・ハリスンとの出会い

ポールはジョンに、「僕の友だちに、『ローンチー(Raunchy)』を弾けるやつがいるんだ」と話した。

ビル・ジャスティスの「ローンチー」は、そのころアメリカでヒットしていた難しいインストゥルメンタル曲だ。

この曲を弾けるということは、かなり腕のいいギタリストであることを意味する。

「だれだ?」

「ジョージ・ハリスンだよ」

そう。小さな(リトル)ジョージ・ハリスンだ。

ジョンはジョージに会ったことがあった。もっさりした髪型の体の小さな少年で、年はまだ14歳。ポールより8カ月年下で、リバプール・インスティチュートでは1学年下だ。

それでも、ポールはジョージのことをジョンに売り込み続けた。ギターがうまいだけじゃなく、ジョージはクールなんだ、とポールは説明した。

しかも、服装もカッコよかった。彼はときに、大人たちを怒らせるためだけにとんでもなくしゃれた格好をすることもあった。

ポールはジョージを評して、いい意味で「生意気」なやつ、と呼んだ。それでもジョンは、「ジョージは若すぎる」と言って聞く耳を持たなかった。

「最初はあいつのことが気に入らなかったんだ」とジョンはのちに語っている。

「ポールはあの童顔のせいで10歳くらいに見えたし、ジョージはそのポールよりもさらに若かったからね」

とあるライブののち…

1958年2月6日、クオリーメンは、ウィルソン・ホールでエディー・クレイトン・スキッフル・グループというバンドと競演することになった(バンドのリード・ギタリストはクレイトン、ドラマーはリンゴ・スターだった)。

ライブが終わると、ジョンは遊びに来ていたジョージをたきつけた。

「クレイトンみたいにギターが弾けるなら、お前をバンドに入れてやってもいいぜ、ってジョンに言われたんだ」とジョージはのちに回想している。


ポールはこのときも、ジョージを応援した。

「いけよジョージ! 見せてやれ!」

このオーディションを、ジョージはいとも簡単にパスした。

「『ローンチー』を弾いてみせたら、ジョンがバンドに入っていい、って言ってくれたのさ」

ジョンは、ジョージが「僕たちよりもずっとたくさんのコードを知っている」ことを認めざるをえなかった。

14歳のガキと一緒にいるところを見られるのは、やはり少し恥ずかしかったが、ジョージの参加でバンドがより強力になったことにジョンは心から満足していた。

「これで、3人そろった」とジョンは思った。