「巌流島の戦い」の真実。宮本武蔵が倒した佐々木小次郎は70歳のおじいちゃん?
日本を代表する剣豪「宮本武蔵(みやもとむさし)」。
武蔵のエピソードとして最も有名なものといえば巌流島の戦いを挙げる人も多い。「佐々木小次郎(ささきこじろう)」との一騎討ちで有名なこの戦いだが、小次郎には老人説がある。
今回は、武蔵と小次郎が戦ったとされる巌流島の戦いについてご紹介する。
生誕日は互いに不明
宮本武蔵
1582年および1584年生誕説があるが定かでない。出身地にも岡山や兵庫説がある。少年期に徳川家臣である黒田家に仕官し、関ヶ原の戦いに従軍。黒田軍と共に九州への出陣であった可能性がある。
佐々木小次郎
1560〜1590年代の生まれと考えられている。出生地も曖昧であり、九州説や北陸説がある。安芸国(現在の広島県)で勢力を誇っておいた毛利氏に仕官した後、岩流と呼ばれる剣術流派を創始。剣術師範として活躍したという。
巌流島の決闘時の年齢
戦いが行われたのは1612年とされており(諸説あり)、武蔵は28~30歳程度であった可能性が高い。一方の小次郎だが、北陸生誕説では福井出身が濃厚とされる。剣術を剣豪・富田勢源(とだせいげん)に師事した説があり、勢源は北陸を本拠地とする朝倉氏に仕えていたことから筋が通る。
現在の巌流島(Wikipediaより)
勢源が仕えた朝倉氏は信長によって1573年に滅亡している。小次郎が60~70年代に福井で剣術を身につけたのだとすれば、その時点である程度の年齢となる。巌流島の決闘時には、少なくとも武蔵より何回りも年上であった可能性が高い。
決闘の真相は
巌流島の決闘の結末は、一般に武蔵が小次郎を討ち倒したと伝わる。巌流島の決闘を記した書物は多いが、現在まで語り継がれている内容は様々であり真相はわかっていない。
伝承の一部
・武蔵は小次郎を仕留めきれず、代わりに連れてきていた弟子たちがとどめを刺した(沼田家記)
・小次郎の長刀に武蔵は木刀で応戦した(二天記)
・小次郎から挑戦を受けた武蔵が櫂(オールのようなもの)を二つに折り、二刀の木刀として相対した(武将感状記)
この他にも多くの書物や伝承が残る。比較的記述にまとまりが見られる武蔵に対し、小次郎の人物像には不明な点が多く、名前や年齢もバラバラである。
ただし、決闘の結末については武蔵の勝利とされており、剣術に覚えのある2名による果たし合いがあった事実は間違いないようだ。
トップ画像: 宮本武蔵肖像(島田美術館蔵)