満員電車の中でスピノザに思いを馳せ、「エヴァ」を見ればグノーシス主義について考える。ガムラン音楽の響きの中で、荻生徂徠の思想はライプニッツと重なっていく……。日本における中世哲学の第一人者・山内志朗さんの新刊『わからないまま考える』では、日常の様々な瞬間と哲学的な思索が絡まり合う。先生が哲学・倫理学と関わってきた道筋や、日常生活との意外な関係性など、書籍の刊行を記念して語っていただきました。

哲学に挫折してパチンコとお酒の日々に

――本書は、先生の大学時代の思い出から始まります。

 この本は哲学がどういうものかをわかりやすく伝えようという本であると同時に、私自身が、どうやって哲学に出会って、関わってきたかの本でもあります。

 私は雪国の、とんでもない山奥で育ちました。だから哲学へのあこがれは都会へのあこがれでもありました。山奥ではキリスト教といってもクリスマスぐらいしかありませんでしたが、イエス・キリストの生涯を調べてみるととても不思議な存在で、神でもあり、そういう不思議な思想が西洋文化の根源にあったんですね。そしてギリシアの哲学も西洋文化の基礎となった。それ以来、哲学は外国の不思議なものに見えて、それに触れてみたいと思ったのです。田舎で哲学書を読む人なんて周りにいなかったので、異端視されました。ちょっとは風変わりな人間だと思っていました。

 ところが、都会に出てきてみると、都会の若者たちはずっと先を行っていたんですね。ごく普通の田舎から出てきた大学生として埋没してしまいました。私は中学生の時に聖書が勉強したくなって、通信販売で買って読み始めました。他にはキルケゴール、ニーチェ、西田幾多郎なんかを読んでいました。しかし同級生たちは高校生の間に、すでにフーコーやアルチュセールの構造主義を読んでいて、マルクス主義の洗礼を受けて学生運動をやっている者もいる。敵わないな、自分はどうしよう、と困りました。それで、ギリシア語やラテン語を学ぼうと思ったのですが、全然歯が立たない。しかし大学には語学が得意な子も多かったんですね。こりゃだめだ、と途方に暮れました。

 高校までは優等生で、勉強ばかりしていました。今までずっと真面目だったから反動で、ちょっと悪ぶってパチンコでもやってみよう、お酒飲んでみようと手を出してみたら、そういう世界にハマってしまった。だからその頃、1年間くらいはパチンコとお酒の生活になってしまって、大学を留年してしまいました。

「哲学的」な問いに興味を持てる人なんて、若いうちはほとんどいません

 その自堕落な生活の中でも、哲学へのあこがれはずっと続いていて、哲学書を読むのはやめていなかったんです。でも、何をすべきかはすごく迷っていた。今思えば、哲学の抽象性に、とても近づきにくいものを感じていました。

 哲学って、存在、真理、世界やイデアのように、とても抽象的な問いをしますよね。そして、そういう抽象的なことを学ぶのが「哲学」なのだと、大学の最初の授業なんかで教えられるわけです。若い頃なんて、普通そんな抽象的なことに激しい興味を持てないですよね。

 でも哲学書を読んでいくと、哲学が抽象的なのは、言葉に収まりきらないものを追究しているからではないのかと思うようになったんです。言語化されていないだけで、哲学は具体的な場面で現れていて、具体的な問いの形を持っているのではないかと。

 私の専門はスコラ哲学というヨーロッパ中世の哲学なのですが、一番役に立たない些末な哲学のように思われがちです。大学生の頃も友人から「そんなつまらないことやってんのかよ、物好きだな」「ガラクタ集めばかりやってんな」なんて言われましたね。確かに中世は現代から見るととても縁遠いように見えますが、実はリアルなんですよ。表現が全く違うだけで、中世の人々も現代人と同じことを考えているんです。人間の感情ってほとんど変化しないんですよね。

ラーメンにはカントが潜んでいる

 それに我々は日常的に、哲学と同じことをやっているんじゃないかとも思うんです。例えば、ラーメンとカントについて考えてみましょう。

 ラーメンを食べて、美味しいと感じたとしますよね。ここで、「美味しさ」を感じる条件を遡って考えてみるんです。ラーメンを目で見ても、「美味しい」と紙に繰り返し書いても、「美味しさ」は感じられない。「美味しさ」を感じるためには、何かを口に入れる必要がある。じゃあ、その何かは食べられるもので、適切な温度や水分があって、味があって、毒がなくて……と「美味しさ」を成り立たせる条件をあげていくことができます。

 私たちは初めて食べるもの、味を知らないものでも、「美味しさ」を感じることができます。それは今話したような「美味しさ」の条件が存在するからではないか。そもそも、人間は全く同じ経験はしていなくても、相手の話を理解して、コミュニケーションを取ることができますね。それは、異なる経験をしていても、人間が同じ知識を導くことができるからではないか。同じ知識を導けるのは、何かを経験した時にそれを理解する仕組みを人間が共通して持っているからではないか。

 その仕組みを考えていったのが、カントの『純粋理性批判』なんですよ。大学で哲学科に入ると、カントの理論を叩き込まれるんですが、例えば、なんで時間と空間を感性論で扱うのかなんて最初は全然わからないんですよ。でも、この「感性」は人間の持つ共通の仕組みで、それを成り立たせる条件を探って抽象化すると、時間と空間が出てくるだけなんです。

 ラーメンの美味しさがどうやって成立しているのか考えることと、カントの『純粋理性批判』は、可能性の条件を遡っていく、という点で同じなんです。ラーメンの美味しさを哲学的に表現したって、おいしくならないし、麺が伸びてしまうから、普段はいちいちその思考を言語化しないだけなんです。

アニメと哲学がつながるのは自然なことなんです

――本書の中で「エヴァ」が大きく扱われているのも、先生にとっては自然なことなのでしょうか。

 日常生活と哲学が私の中でごく自然につながるように、アニメと哲学も私にとっては別物ではないんです。「新世紀エヴァンゲリオン」は1995年にテレビで放映されていたとき、流行っているからと見てみたんですよ。すると、グノーシス主義という主張と重なるところがあった。グノーシス主義では、世界を神による創造以前、人類が生まれる前に戻す必要があると考える。この世の中に存在する善だけでなく、悪も神が創造したものだと考えるのです。「エヴァ」の人類補完計画が目指すものと重なりますよね。

 それですぐに、授業の中で関係性に触れてみたら、学生の食いつきがすごくよかったんです。哲学の授業って、大抵生徒は教室の後ろの方にしかいないんですが、最前列に来て色々と質問するんですよ(笑)。でも当時は、こんなに「エヴァ」に踏み込んでいくことになるとは思っていませんでしたね。

「君の名は。」は聖霊の物語

――この本の中で、もう一つ大きく扱われるアニメが新海誠さんの「君の名は。」です。

「君の名は。」、公開当時は映画館で見られなかったんです。映画館に行く暇がなくて、見ようと思った時には上映が終わってしまっていた。初めて見たのは公開からしばらくたって、飛行機の中での視聴だったんですが、往復で計3回見ました。新海ファンになってしまいました。2年ほど前には新海さんの出身地である長野県に旅行もしましたね。「あっ、映画と雲の出方が同じだ」って思ったりして。だから「天気の子」は、公開が始まってすぐに観に行きました(笑)。

 私にとって「君の名は。」は聖霊を色々な形で表現した作品に見えるんですね。始めてみたとき、その光のイメージに驚きました。キリスト教の歴史の中で、聖霊はいろいろな形で表されるんですが、その一つが光なんです。また「君の名は。」は愛や絆が描かれている作品ですが、聖霊は一人に宿るものではなくて、網の目のような、人と人との関係性であるとも表されます。

 本の中ではもう少し複雑な議論をしているのでぜひ読んでいただきたいのですが、私にとって「君の名は。」は現代における関係性の哲学を表しているように見えるのです。私が新海さんにこだわるのは、この関係性が、倫理学が成立するうえでとても重要であるのに軽視されがちだと思うからなんです。

倫理は実践、哲学は知識

――そもそも「倫理」と「哲学」はどう違うのでしょうか。

 高校には「倫理」という科目がありますが、これは心理学や宗教、哲学も含む、広い概念ですよね。でも伝統的には、倫理は哲学の中に含まれます。哲学という言葉は理論哲学と、実践哲学の両方を意味している。そのうちの実践哲学を「倫理」と呼ぶんですね。そして特に社会からの要請で、規範性を持ったものが「道徳」と呼ばれます。

 倫理の方が哲学よりも人間の匂いがするんですね。抽象性は人間離れなのです。とはいえ抽象性が悪いわけではありません。抽象化するから、知識として共有することができる。知識になれば、言語や地域などさまざまな壁を超えて伝えることができて、それを使って他人とコミュニケーションを取ることが可能になる。具体的なものと抽象的なもののつながりが見えてくると、抽象的な問いも虚しくなくなります。

倫理学は世界を味わうためにある

――最後に、山内先生にとっての「倫理学」とは何でしょうか。

 倫理学は、世界を味わうための能力、在り方ではないかと思います。「倫理学」というハビトゥスを身につけることで、世界を味わうことができる。ハビトゥスというのは私がよく使う言葉で、立居振る舞いと言い変えることもできます。我々は日々、意識したり、考えたりしないで、反射的に動くことができますよね。行動や思考が身体化して、ハビトゥスになっているんです。そしてハビトゥスは、「わかる/わからない」の手前にあるものです。

 タイトルの『わからないまま考える』は、まさにハビトゥスのことを言っているんです。「わからなさ」を大切にすることは、未来との関わり方とつながっています。先の見えない、未来を迎え入れるためには、わからないままでも関わり続けていく、という姿勢が必要ではないでしょうか。

 倫理学は音楽にも似ていると思います。音楽を聴くと、何かわからないけれど感動するということがありますよね。「ラテン語で書かれた、スコラ哲学の分厚い哲学書を読んで何が楽しいのか」とはよく言われることです。でも、こういう本をちゃんと読んで、わかるようになると楽しいんですよ。音楽が役に立たなくても喜びを見出せるように、人々が一生懸命作り上げた思想を味わう、そのこと自体がなかなか楽しいものなんです。思想がメロディーになって紙面から響いてくるようになります。この本を通じて、そんな感じ方を「わからないまま」味わっていただけたらと思います。

(写真=佐藤亘)

山内志朗(やまうち・しろう)

1957年、山形県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。新潟大学人文学部教授を経て、慶應義塾大学文学部教授。専門は中世哲学、倫理学。その他、現代思想、修験道など幅広く研究・執筆活動を行う。著書に『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)、『普遍論争――近代の源流としての』(平凡社ライブラリー)、『小さな倫理学入門』(慶應義塾大学出版会)、『目的なき人生を生きる』(角川新書)、『過去と和解するための哲学』(大和書房)、『新版 天使の記号学――小さな中世哲学入門』(岩波現代文庫)、『自分探しの倫理学』(トランスビュー)、『無駄な死など、どこにもない――パンデミックと向きあう哲学』(ぷねうま舎)、編著に『世界哲学史』シリーズ(ちくま新書)ほか。