なんと90歳を超えて挙兵! 戦国時代の武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【後編】

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戦国の世にあって90歳を超えても精力的に武士として活動した「龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)」。

今回は【前編】【中編】に続き、田手畷の戦い (たでなわてのたたかい)以降の家兼の人生をご紹介する。

これまでの記事

なんと90歳を超えて挙兵! 戦国時代の武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【中編】

家兼の台頭

田手畷の戦いは龍造寺氏の活躍が目覚しく、家兼の評価と名は周辺地域に広まったという。すでに76歳となっていた家兼の龍造寺家内における権力は絶大であったとされる。1

438年には剃髪して「剛忠(ごうちゅう)」と名乗った。

家兼の一門は、嫡男「家純(いえすみ)」は周辺の武家や家臣の一族と婚姻関係を結び、次男の「家門(いえかど)」は家純の養子に入り水ヶ江家を継ぐなど、積極的に龍造寺氏勢力拡大に努めた。一族は繁栄し少弐氏を凌ぐ勢力を蓄えていたという。

 少弐氏や龍造寺氏の居城となった「勢福寺城(せいふくじ)」跡。Wikipediaより

少弐氏の再興と内乱

16代目当主・資元が自刃して一時的に滅亡した少弐氏だったが、息子の「冬尚(ふゆひさ)」は家臣を頼り落ち延びていた。その後、家兼を中心とした家臣団の助力もあり、1540年に少弐氏の再興に成功する。

救国の立役者となった家兼だが、同時に宿敵である周防国の大内氏と内通しているという噂が存在しており、少弐家中には龍造寺氏に反発する勢力が形成されはじめていた。

迎えた1545年。龍造寺氏に反感を持っていた少弐氏の家臣「馬場 頼周(ばば よりちか)」を中心とする旧臣らは、かねてから計画していた龍造寺一族の暗殺を実行に移す。

結果的に家純と家門の息子二人に加え、孫たちも暗殺されてしまった龍造寺氏。家兼自身は生きながらえ、筑後国に逃れたという。この時、すでに90歳を超えた高齢であった。

90歳を超えての挙兵

家督を継いでいた身内が暗殺されたことで龍造寺家は実質的に滅亡した。しかし翌年、体制を整えた家兼は逃亡先の武家「蒲池(かまち)氏」の後ろ盾を受け、馬場頼周らを討つために挙兵する。

龍造寺の残党や、周辺の諸将の助力によって頼周を討つことに成功した家兼は、仏門に入っていた曾孫の「胤信(たねのぶ)」を還俗させ龍造寺家を再興した。同年の内に肥前の地で没したという。享年93。大往生であった。

還俗した胤信は「龍造寺 隆信( たかのぶ)」と名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぎ、後に本家である村上龍造寺家の家督も相続した。隆信は猛将として知られており、短期間に戦国大名としての龍造寺氏最盛期を築くことになる。

家兼の曾孫「龍造寺隆信」

老齢になって一族滅亡の危機を救い、龍造寺氏が戦国大名となる基盤を作った家兼は、龍造寺氏中興の主として代々語り継がれている。