急逝から2週間、今も三浦さんのいない悲しみは日本中に……(写真:アフロ)

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《春馬さんには、これまでAct Against AIDS「THE VARIETY」の活動を通じてラオ・フレンズ小児病院へは3度の視察にお越しいただき、現地の子供たちの状況を知っていただく機会がありました。

その時に見た「何ができるのか」「何をすればいいのか」と考えてくださっている真剣な横顔や、村の子供たちへのキラキラとした優しい笑顔は、これまでも、そしてこれからも、ラオスの全ての子ども達が健康になって欲しいという私たちの目指すゴールの大きな支えとなっています》

三浦春馬さん(享年30)の急逝から2週間が過ぎた。その悲しみは、今も日本中に広がっている。そんななか、アジアの子供たちへの医療支援を行う認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」が7月25日に冒頭のような追悼文をHPで発表した。

《いまだに信じがたいことで…また、信じたくないことでよくわからない気持でもあります》という内容から始まったコメントは、さらにこう続いていた。

《今もきっと見守っていてくれていると信じています。そして、私たちはラオスの子供たちの笑顔を一人でも多く春馬さんへ届けられるように頑張るのみです。心よりご冥福をお祈りいたします》

実は、三浦さんは仕事で多忙な合間をぬって「Act Against AIDS(以下、AAA)」に参加していたのだ。「AAA」はエイズやHIVへの偏見をなくし、正しい知識の普及を目的とした啓発運動。三浦さんも’07年から参加し、精力的に活動を続けてきたという。

「『AAA』は、’93年に岸谷五朗さん(55)の呼びかけで活動がスタートした団体です。岸谷さんと寺脇康文さん(58)が中心となり、世界エイズデーの12月1日には俳優や歌手とともにチャリティライブイベント『THE VARIETY』を日本武道館で開催。集まった支援金でエイズやHIVの啓発活動、医療支援などを行ってきました。

その支援金などをもとに、’15年にはラオスで『ラオ・フレンズ小児病院』も設立。三浦さんが初めてラオスを訪れたのは’14年、小児病院が建設中のころでした。そこで出会ったHIVポジティブのトンシーちゃんは当時、9歳。病いと闘う姿を目の当たりにした三浦さんは、医療支援の大切さを改めて感じたそうです。

以来、三浦さんはこれまで以上にライブなどで『みなさんの支援がまだまだ必要です!』と訴えるようになったといいます」(芸能関係者)

三浦さんは’16年にもひそかに現地を視察し、’17年にはトンシーちゃんとも再会。温かく子供たちを包み込む様子は、「THE VARIETY」でも動画などで紹介されてきた。

「これまでライブの進行役は、発起人である岸谷さんと寺脇さんが務めてきました。しかし最近では、三浦さんも『AAA』の新たな中心人物として期待されるようになっていたといいます。岸谷さんも寺脇さんも『春馬のような後輩が出てくると思ってなかった。本当に一生懸命に頑張ってくれている』『僕らの意志を後輩である春馬が継いでくれている。とても頼もしいことだ』と話すなど、本当に高く評価していました……」(前出・芸能関係者)

「AAA」は、今年7月20日に活動を終了。27年に及ぶ活動のなか、エイズ啓発において一定の役目を終えたと判断してのことだった。しかし、同時に今後は「Act Against Anything」と名称を変更。より広い支援活動を継続していく予定だという。そこには三浦さんの姿も――。誰もがそう信じていた。

そんななか、訃報を知ったラオ・フレンズ小児病院から“涙の感謝状”が届けられた。「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」のHP上で日本語に訳されたこの追悼文。《春馬さんへ》と始まり、次のような言葉がつづられていた。

《私たちは、ラオ・フレンズ小児病院のアウトリーチチームのスタッフです。ラオスの国を、そして、ラオ・フレンズ小児病院のことを特に支援し続けて下さった春馬さんが、もう、私たちと一緒にいないと聞いて、とても悲しいです。この場を借りて、春馬さんがして下さったことに対して、心から感謝の意を示したいと思います。

春馬さんのことは、ずっと私たちの記憶に残り続けるでしょう。春馬さんのご家族の皆さまが健康で安全でありますように。ご冥福をお祈りいたします。最後にもう一度、春馬さんに感謝の気持ちを込めて。ラオ・フレンズ小児病院 アウトリーチチーム 一同》

三浦さんの奮闘は、ラオスの子供たちの中にしっかりと根付いていたのだ。「私たちの記憶に残り続ける」というその言葉はきっと、天国の三浦さんにも届いているはずだ――。

「女性自身」2020年8月18・25日合併号 掲載