今年5月、新天皇陛下が即位した。初めて国民に向けたおことばを述べる「即位後朝見の儀」で、天皇陛下は「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、象徴としての責務を果たすことを誓う」と述べた。天皇陛下と45年来の友であるアンドルー・アークリーさんが、その言葉に抱いた感慨とは――。
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高校時代の陛下とアークリーさん - 写真=著者提供

■「令和」は陛下にぴったりだ

新元号が発表された日、テレビで「令和」の二文字を見た瞬間に、天皇陛下のお顔がパッと浮かびました。「これはぴったりだ」と感じたからです。

万葉集の「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(やわ)ぎ」が出典と聞くたびに、陛下の笑顔が思い出されます。あの穏やかで爽やかな笑顔は、高校時代から本当に変わっていません。

初めてお会いしたのは、陛下が学習院高等科に入学された1975年のことです。私はオーストラリアからの留学生で、2年のクラスにいました。同校がオーストラリア留学生を受け入れた最初で、そのときは私を含めて2人が1年近くを過ごしています。

私たちが部活動を選ぶとき、留学生担当の先生が「日本各地を旅行できるよ」と勧めてくれたのが地理研究会でした。この地理研に、1年生の陛下がいらしたのです。

昭和天皇のお孫さんで、いずれ天皇になられる方が在学していると聞いていましたが、お近づきになるとは考えてもみませんでした。いま思えば、先生のはからいだったのでしょう。

■自虐ネタで見せた爽やかな笑顔

「マイ・ニックネーム・イズ・じぃ」

「マイ・ニックネーム・イズ・じぃ」

初めてお会いしたとき、陛下は親しみのある笑顔でそう自己紹介されました。そして「じぃと呼んでもいいですよ」と英語で言われたのです。学習院では先生も生徒も、皇族の方を「宮さま」とお呼びします。「じぃ」は秘密のあだ名で、親しげにそう呼ぶ人はたしかにいました。しかし私は遠慮して、みんなと同じように「宮さま」とお呼びしました。

陛下から「じぃ」の由来をうかがったのは数年後のことです。陛下が中等科時代に校内の植木や盆栽を見て「なかなか、いい枝ぶりですな」と言われ、お友だちのひとりが「お年寄りみたいですね。これからは、宮さまを『じぃ』とお呼びしましょう」と言ったのがきっかけだそうです。

冗談がお好きな陛下は、きっとご隠居さんみたいな口調で、植木の枝ぶりを褒めたのでしょう。陛下は、いわゆる自虐ネタの冗談がお嫌いではありません。中等科を卒業するときに謝恩会でみなさんと演奏した曲もバッハの「G線上のアリア」。あだ名の「じぃ」にちなんで、陛下ご自身が選曲されたとうかがっています。

そういうお話をされるとき、陛下はとても楽しそうで輝いて見えます。「令和」の文字から私が思い浮かべた爽やかな笑顔です。

■陛下と歩いた能登海岸の思い出

天皇陛下は今年5月1日に即位され、午前中に「即位後朝見の儀」がテレビで中継されました。あの日、私の自宅にはテレビ局の取材班が入り、テレビカメラで撮影されながら「即位後朝見の儀」を拝見しました。

松の間に入ってこられた陛下は、燕尾服に白の蝶ネクタイをお召しになっていました。大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)や桐(とう)花大綬(かだいじゅ)章(しょう)を身につけて、天皇の威厳を感じさせる立派なお姿です。中央の壇上に立たれた陛下は、笑みを浮かべて、とても落ち着いたご様子でした。わが家のテレビは85インチなので、陛下のお顔がアップになると、間近で話しているような気持ちになりました。

陛下はおことばのなかで「常に国民を思い、国民に寄り添いながら……」と話されました。私がそのとき思い出したのは、能登の海岸を一緒に歩いた日のことです。

地理研では、夏休みに二泊三日の研修旅行「夏季巡検」があります。私が留学した年は、36人で加賀と能登をまわりました。

昼過ぎに金沢駅に着くと、地元の方たちが出迎えに集まっていました。女性、女子高生の姿が目立ちます。翌日の新聞には、約1000人が集まったと報じられました。

私がお出迎えの多さにびっくりしていると、陛下はその方たちに笑顔で手を挙げ、バスに乗り込んでいかれました。中等科からの友人たちも、当然のように陛下の後につづきます。みんなの慣れた様子にも驚きました。

■「即位の礼」を迎える覚悟

翌日の能登半島では、民家の軒先に日の丸の旗が掲げられ、港では風にはためくたくさんの大漁旗に迎えられました。陛下はもちろん、いつもの笑顔で応えていらっしゃいました。

私は当時の日記に「宮さまはかわいそうだと思う」と書いています。どこを訪れても歓迎の人々に囲まれ、気が休まる瞬間がないように思えたからです。

それでも能登の砂浜を一緒に歩くと、陛下はふだんと変わらない穏やかな口調で「きれいな景色で気持ちいいですね」と話され、とてもリラックスしたご様子でした。

5月1日に「即位後朝見の儀」を拝見しながらふと思い出したのは、まだ高校1年生なのに群衆の前で少しも動じることがなかった陛下です。

「あの頃から、この日を迎える覚悟がおありだったんだ」

天皇になられた日、いまさらながらそう感じました。

その年の11月には、地理研で信州にも出かけました。一泊二日の旅は、加賀・能登と同じように行く先々で大歓迎を受けました。中山道の馬(ま)籠(ごめ)宿(じゅく)で泊まり、翌日は開通したばかりの恵那山トンネルを抜けて、名古屋から東海道新幹線で東京へ戻りました。

名古屋へ向かう観光バスは、前後に警護のパトカーや関係車両が何台もついていました。恵那山トンネルに入ったとき、陛下はバスの後方を振り返って、「すごいね〜、ちょっと見て」とおっしゃっていました。見ると、パトカーの回転灯や車のライトが光り、トンネル内に反射して幻想的な眺めです。黙って見つめている陛下のお顔にも赤い光が走ります。感性の豊かな方だと思った瞬間でした。

■御所に招かれて目にした、皇室の一家団欒

私たち留学生は、1976年1月10日にオーストラリアへ帰ることになっていました。日本での滞在日数が残りわずかとなり、お正月を楽しみにしていた大晦日のことです。ホームステイ先のお宅に1本の電話がありました。東宮御所の侍従さんから、私たち留学生を御所に招待してくれるという連絡です。陛下のお友だちから前もって打診があったので私はそれほど驚きませんでしたが、ホームステイ先のご家族は大騒ぎになりました。

新年が明けて、2日はそのご家族と皇居へ出かけ、一般参賀の列に並びました。昭和天皇と香淳皇后がガラスの向こうで手を振られる姿を拝見して、「あれが宮さまのお祖父さまとお祖母さまなんだ」と不思議な気持ちになりました。

東宮御所を訪ねたのは、その2日後です。私たちは、陛下へのお土産にカメラの本を持って昼過ぎにうかがいました。

御所は意外なほど静かでした。私たちは中庭に面した広い部屋に案内されました。奥にはグランドピアノがあり、ハープ、ビオラ、バイオリンなどの楽器も見えます。ご一家が演奏を楽しむ音楽室のようでした。

■ビーフステーキと陛下のバイオリン

陛下がお見えになり、3人でお茶をいただきながら話していると、上皇陛下と美智子さまがいらっしゃいました。上皇陛下はスーツ姿で、美智子さまの後ろには、中学生の秋篠宮さまと幼稚園生の清子さま(紀宮さま)もいらっしゃいました。ご家族は30分ほどで退室され、陛下と私たちは日が暮れるまで会話を楽しみました。

アンドルー・B・アークリー『陛下、今日は何を話しましょう』(すばる舎)

夜になってそろそろお暇しようと思っていたら、陛下は「夕飯を食べていきませんか?」とおっしゃり、予想外のことで感激しました。和室の食堂へ移動して、掘り炬燵式の大きなテーブルでおせち料理とビーフステーキをいただきました。

食後は音楽室に戻り、陛下はバイオリンを弾かれました。陛下のバイオリンを初めて聴き、上手なことに感心したことが当時の日記に残っています。

オーストラリアに帰国してからは、陛下と手紙や年賀状のやりとりがつづきました。私はメルボルンの高校を卒業すると、東京外国語大学に留学して、陛下との交流がふたたび始まります。20歳を過ぎてからは、陛下も私も好きなお酒をご一緒するようになりました。

初めてお会いした日から45年近くが経ち、天皇陛下は今年59歳になられました。10月22日に「即位の礼」を迎えられ、これからご公務に忙しい日々を送られることでしょう。雅子さまとともに末永く元気にお過ごしになられることをお祈りしています。

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アンドルー・B・アークリーメディカルクリニックあざみ野 事務長
1958年、オーストラリアのメルボルン生まれ。中学時代は国連に勤める父に従ってスリランカ、ジャマイカにそれぞれ一年間滞在。1975年、国際ロータリークラブの交換留学生として学習院高等科に留学。浩宮徳仁親王(現・今上天皇)と同じ地理研究会に所属。いったん帰国後、文部省(当時)の学部国費留学生として東京外国語大学に入学。日本事情を専攻し。卒業後はオーストラリアに帰り、鉱山会社のリオティントに就職。オーストラリア外務省出向などを経て現職。元日豪音楽交流協会会長、元オーストラリアビジネス協会副会長。
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(メディカルクリニックあざみ野 事務長 アンドルー・B・アークリー 構成=チームTOGENUKI)