東京オリンピックのマラソンと競歩の会場を札幌に移す検討が始まった。スポーツライターの酒井政人氏は「フルマラソンを走るには札幌でも暑すぎる。いっそのことマラソン競技を取りやめにするか、開催時期を11月以降に移動すべき」という--。
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■札幌へ開催地を変更しても「マラソン本来」の面白さは出ない

IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は10月17日、カタールのドーハで開かれたオリンピック関連の会合の演説で、東京オリンピックのマラソンと競歩の会場について、「IOC理事会と大会組織委員会は、札幌市に移すことに決めた」と述べた。

バッハ会長は、「私たちは選手の健康を常に懸案事項の中心に置いています。マラソンと競歩の(開催地)変更案は懸念を私たちが真摯に受け止めている証し。選手に最高の状態を確保する措置だ」とコメントしている。

今回の判断には、9月下旬に開かれたドーハ世界陸上マラソンと競歩で棄権者が続出したことが影響しているという。筆者はドーハ世界陸上を現地で取材している。その経験から、ひとつ主張したい。札幌は東京よりも涼しいが、これでマラソンという競技が面白くなるとはとても思えないのだ。

■織田裕二が「ここはミストサウナか!」と突っ込みを入れた

6〜8月の平均最高気温は40度以上。カタール・ドーハは灼熱の地として知られている。2年に一度行われる世界陸上は通常8月開催だが、今回は暑さを考慮して9月27日〜10月6日というスケジュールだった。

現地で取材してみると、ハリファ国際競技場は屋外スタジアムにもかかわらず気温は25度前後に管理されており、非常に過ごしやすかった。しかし、ドーハの街は暑かった。「世界陸上2019ドーハ」(TBS系)の司会を務めた俳優・織田裕二が中継で「ここはミストサウナか!」という突っ込みを入れたほどだ。

ハリファ国際競技場の外で行われたマラソンと競歩は酷暑を避けるために、前代未聞のミッドナイトレースとなった(マラソンは23時59分、競歩は23時30分スタート)。それでもドーハの夜は暑かった。

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大会初日に行われた女子マラソンは気温32.7度、湿度73.3%。現地を少し歩くだけで、汗が噴き出した。非常に不快感の強い夜になった。日本勢は女子マラソン部長の武冨豊氏(天満屋監督)が、「2時間38〜39分台を出せば入賞できる」と予想して、それが的中する。

「3人とも入賞争いをする実力はない。とにかく暑さと湿度があるなかで、3人が交代で引っ張りながら5km19分を切るくらいのペースで行き、最後は元気のある者が上げていけば入賞の可能性はあると思っていました」

日本勢は3.5kmずつ交代で引っ張り、レースを進めた。その結果、マイペースを貫いた谷本観月(天満屋)が徐々に順位を押し上げて、2時間39分09秒で7位。見事、入賞ラインに到達した。

■「日中のレースなら死人が出ていたかもしれない」

なお女子マラソンの優勝記録は2時間32分43秒で、1983年から始まった世界陸上でのワーストタイムだった。これは厳しい気象条件が大きく影響している。出走68人中28人が途中棄権しており、日本陸連のある幹部は、「日中のレースなら死人が出ていたかもしれない」と漏らしていた。

男女の50km競歩も非常に過酷なレースになった。金メダルを獲得した鈴木雄介(富士通)は終盤、徒歩のような速度に落として水分を補給したし、トップ争いを繰り広げていた女子選手は黄色い液体を走路にバラまいた。鈴木の優勝タイムは4時間4分20秒。大会記録より30分以上も遅く、過去のワースト優勝記録と比べても10分以上悪かった。

大会9日目の男子マラソンは気温29.0度、湿度49%。身体にまとわりつくような不快な湿気はなく、体感的には涼しかった。このコンディションは日本勢、特に川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)にとっては計算外だったようだ。

「女子マラソンと競歩を見ていて、湿度が高ければ、2時間17〜20分が入賞ラインになると思っていたんです。でも、今日は湿度が低かったので前が落ちてこなかった。自分は設定通りに走ったんですけど、作戦ミスでしたね」

川内が想定していたほどの高温多湿の環境にならず、レリサ・デシサ(エチオピア)が2時間10分40秒で優勝。入賞ライン(8位)は2時間11分49秒だった。日本勢は山岸宏貴(GMOアスリーツ)の25位が最高で、川内は2時間17分59秒で29位だった。

陸上競技は「勝負」と「記録」という2つの側面が観衆を沸かす大きな要因となる。しかし、夏マラソンはその1つがまったく期待できない。これは、「スポーツショー」としてファンの要望に応えることができていないのではないか。結果に茫然(ぼうぜん)とする川内を取材しながら、そんな思いが頭をよぎった。

■本当のトップランナーが「世界一決定戦」に参戦しない理由

ドーハ世界陸上の男子マラソンには世界のビッグ2というべきランナーが出場していない。5000mと1万mで世界記録を保持するケネニサ・ベケレ(エチオピア)とマラソン世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲ(ケニア)だ。

ベケレは9月29日のベルリンマラソンで世界記録に2秒差と迫る2時間1分41秒で優勝。キプチョゲは10月12日にウィーンで行われた「INEOS 1.59 Challenge」というイベントで42.195kmを1時間59分40秒で走破。非公認ながら人類で初めて“2時間の壁”を突破した。

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10月12日にウィーンで行われた「INEOS 1.59 Challenge」で「2時間の壁」を突破したケニアのエリウド・キプチョゲ選手。 - 写真=EPA/時事通信フォト

9月13日のシカゴマラソンではブリジット・コスゲイ(ケニア)が2時間14分4秒で連覇を達成。ポーラ・ラドクリフ(英国)が16年以上も保持していた女子の世界記録(2時間15分25秒)を一気に1分21秒も更新した。

世界のトップ・オブ・トップに君臨する彼らがドーハ世界選手権を回避して、別のレースを走ったのは明確な理由がある。それは「マネー」だ。

ドーハ世界陸上の場合、金メダルで6万ドル(約648万円)、銀で3万ドル(約324万円)、銅で2万ドル(約216万円)の賞金が贈られ、世界新記録を樹立した選手には10万ドル(約1080万円)が支給される。気象条件とペースメーカーがいないことを考えると世界新記録のボーナスを手にする可能性はゼロで、出場料もない。

これが東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティというメジャーレースになると、世界陸上をはるかにしのぐ金額が動く。たとえば、東京マラソンは、1位が1100万円、2位が400万円、3位が200万。加えて世界記録には3000万円というボーナスがある(金額はいずれも19年大会)。さらに目玉選手には数百万円の出場料が支払われている。

収入を考えると、どちらに出るべきなのかは明らかだ。プロランナーである彼らは、レース後のダメージも計算しており、賞金のわりに負担がかかる夏マラソンを走る考えは持っていない。そのため2年に一度の世界選手権は近年、真の実力者から敬遠されている。

■「サブ2」切りレースは非公認だが心底ワクワクした

ドーハに滞在中だったこともあり、日程が重なったベルリンマラソンは見ていないが、前述のフルマラソン2時間切りへの挑戦「INEOS 1.59 Challenge」はネット上でチェックした。正直言って、ドーハ世界陸上マラソンよりもワクワクした。

中継が始まる20分前からスタンバイしていたが、その時点で1万人以上の視聴者がいた。そこからオーディエンスは徐々に増加。キプチョゲがスタートしたときには20万人以上が視聴していた。

このイベントにはリオ五輪1500m金メダリストのマシュー・セントロウィッツ(米国)、同5000m銀メダリストのポール・チェリモ(ケニア)ら世界トップクラスのランナー41人がペースメーカーとしてアシスト。日本人では1万mの日本記録保持者・村山紘太(旭化成)が参加した。

フェニックスフォーメーションと呼ばれる先頭から順に「2−1−2−2」で形成された7人のペースメーカーが主役のキプチョゲを取り囲む。彼らは設定ペースで進むだけでなく、向かい風をガードする役割も担っていた。先導車は緑のレーザーを道路上に当てて走り、ペースメーカーは交代しながら、1km2分50秒前後のペースを刻み続けた。

非公認レースで、ライバルはいない。ペースメーカーが交代する以外は、レースに動きもない。それでもキプチョゲの孤独な戦いは、観るものを魅了した。それは「記録」という人類の可能性を誰もが知りたいと思っているからだろう。キプチョゲがラストスパートをした時、視聴者は80万人近くに膨れ上がっていた。

このイベントにはイギリスの石油化学企業イネオス社が1500万ユーロ(約18億円)をつぎ込んだという。「サブ2」というミッションを達成したキプチョゲにはメジャーレースで世界記録を樹立した以上のマネーが支払われたことだろう。

■フルマラソンの適温は10度前後。20度でも暑い

フルマラソンは、トップ選手がタイムを狙うには気温10度前後が望ましいといわれている。20度でも暑い。30度は言わずもがなだ。夏マラソンは42.195kmを速く走るという能力ではなく、別の要素が求められてくる。暑さ対策がポイントとなるレースが、「世界一決定戦」にふさわしいだろうか。

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真夏の東京と札幌の気温を比較すると、最低気温・最高気温ともに札幌のほうが4〜6度低い。だが、マラソンに不適な気温20度台には到達してしまうだろう。開催地が東京から札幌へ変更となったところで、タイムへの興味はほとんど失われてしまう。

それならば、いっそオリンピックや世界陸上からマラソンという競技そのものを除外してもいいのではないか。なぜなら、そこに“本当のチャンピオン”は誕生しないからだ。マラソン除外が難しければ、東京五輪マラソンと競歩は、開催時期を大幅にズラして、たとえば11月に行うという手もあるのではないだろうか。

過去の世界大会を振り返っても、記憶に残っているランナーは圧倒的な強さ、スピードを見せた強者だけだ。真の王者が誕生するマラソンを見たいファンは筆者だけではないだろう。

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酒井 政人(さかい・まさと)
スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)