「ムンテラ」はインフォームド・コンセントよりも強し? (後編)
(前編から続く)
「ムンテラ」とは、ドイツ語で口を意味するムント(Mund)と治療を意味するテラピー(Therapie)から生まれた「ムント・テラピー」の略称だ。患者に対する病状・治療方針の口頭説明や精神面での患者ケアを意味する語として日本の臨床現場で長年使われていた専門用語だが、実は和製ドイツ語。ドイツ語で「Mundtherapie」というと文字通り口の病気の治療を意味する。
インフォームド・コンセント文化からムンテラ文化へ
僕は大森先生の手術だけでなく診察を見学する機会も時折あった。ある時、大事故に遭い顔面が変形するほど重度の損傷を負った若い女性患者の初診に立ち会った。患者と対面した先生はひと呼吸おき、質問するのではなくまずこう語りかけた。「君、今までつらかったろうな。」
女性は想いがこみ上げ嗚咽しながら返答した。先生の診察を受け治療の説明に耳を傾けた彼女は診察後、手術を予約して「先生に手術していただければ、私、死んでも本望です。」と涙をぬぐいながら去っていった。
少し補足すると、形成外科では交通事故をはじめとする事故による外傷や火災によるやけどなどの患者が多い。その中には後遺症として顔や体の悩みを一生抱え続けることになるケースも多い。だが当時は家族や医者も含め、「命が助かっただけでも幸せ」「体の機能をある程度回復できただけでもありがたい」という空気が支配することが多かった。これは「医学界全体として形成外科に対する偏見や警戒心」と前述した、大森先生や僕たち形成外科医が当時医学界の中や医療の現場で直面していた大きな壁でもあった。
当時の僕はアメリカで最先端の医学・医療を学び、アメリカの形成外科専門医として傭兵のように日本の医療現場に舞い降りたような感覚を持っていた。今になって思い返すと何とも滑稽な話だが、まだベッドすら設置できずにいた東大の形成外科に所属し日々警察病院に通いながら、アメリカ式のレジデント制度やアメリカ式の専門医制度を導入するための改革をまず東大から起こそうと奮闘していた。その「アメリカ式」の中には今や日本の医療現場にも定着した「インフォームド・コンセント」も含まれていたが、僕は大森先生との関わりを通じて日本式の「ムンテラ」の良さも理解するようになっていた。
「ムンテラ」はインフォームド・コンセントよりも強し?
「インフォームド・コンセント」の語源は英語の「Informed Consent (情報提供を受けた上での同意)」。医療現場では「IC」と略称されることが多い。医師が情報提供し、それを受けた患者が同意することにより合意形成のプロセスが成立するという、患者主体の「知る権利」や「決定する権利」を保障するという概念にもとづいている。
契約社会で訴訟社会のアメリカでは、僕が1950年代に渡米した当時からこのプロセスやその証としての書面が当たり前のように存在していたが、日本では1990年代に入ってから医療訴訟が増えたこともあり、1997年の医療法改正により医師の努力義務として導入された。努力義務とはいえ、これにより従前は実質的に医師が決定権を持っていた治療方針の構図が「医師の裁量権」と「患者の決定権」になり、そのウェイトが患者の側に移ることになった。
だが、医師の側の知識や診察・診断の的確さ、さらに人としての誠実さはもちろん、コミュニケーション能力によっても伝達される情報の質は大きく左右される。また患者の側も同様に、基本的なコミュニケーション能力や患者なりの医学・医療リテラシーによって理解や判断が大きく左右される。医師の側ではどのような場合にどの程度の情報を患者に提供すれば充分なのか、患者の側ではどのような判断基準で何を判断すれば良いのかなど、制度導入から20年あまり経った今でもインフォームド・コンセントにはさまざまな課題が残っている。そこには日本人ならではの意識や慣習の影響も大きい。
歯車と潤滑油、そして燃料油
制度の歯車を配置して関係者に周知することは大前提で、それはスタートラインにしか過ぎない。その歯車を本来あるべき姿で機能させるために必要なものとして継続的な歯車の調整や潤滑油がある。大森先生の女性患者エピソードには昭和の浪花節的な要素が強いと感じる向きもあるかもしれないが、先生に限らず往年のムンテラ名手の中には、潤滑油どころか燃料油として患者の前向きな動力源になるような話し方や接し方ができる医師も少なくなかった。もちろん、現在でもそのような優れた能力を持つ医師は昔と同じようにいるだろう。だがその能力を発揮しにくい制度運用になっている可能性もある。
日本の医学界では歴史的に欧米、昔は特にドイツから、太平洋戦争後はアメリカから、最新の医学や医療とともにさまざまな制度が形式的・表層的に導入され、結局のところ機能不全に陥ることが多かった。その中には日本人ならではの意識や慣習に沿うような歯車配置や継続的な歯車調整ができなかったことによる機能不全も多い。さらに近年はその「日本人ならではの意識や慣習」も急速に変化している。最近の日本の若い世代の感覚は欧米的になっているとも言われるが、今のところ予備軍も含め巨大な患者グループを形成しているのは団塊の世代。この世代には古き良き昭和の価値観や慣習を持ち続けている人が多い。日本ではこの先まだしばらくの間、インフォームド・コンセントの現場にムンテラならではのメリットが力を発揮する余地を残す方が良いかもしれない。
いずれにしても最も重要なのは何か。これから日本の医療を背負う若い医師や医学生のコミュニケーション能力はもちろん、人としての基本的な心の教育が一番だ。医学知識や医療技術を詰め込むのはそのあとからでも間に合う。
[執筆/編集長 塩谷信幸 北里大学名誉教授、DAA(アンチエイジング医師団)代表]
医師・専門家が監修「Aging Style」