ほぼ1人で義父、義母、実の母親の介護と同時に子育てもしてきた香川さん。ダブルケア両立の大変さや問題点について赤裸々に語ってもらった(写真:香川さん提供)

子育てと介護が同時期に発生する状態を「ダブルケア」という。ダブルケアについて調べていると、子育てと介護の負担が、親族の中の1人に集中しているケースが散見される。なぜそのような偏りが起きるのだろう。

子育てをしながら約15年間、義母、義父、実母の介護をほとんど1人きりで行ってきたという東京都練馬区在住の女性を例に、ダブルケアを乗り越えるヒントを探ってみたい。

東京に帰れない…

損害保険会社で営業職を務めていた香川藤子さん(58歳、仮名)は、1986年、同じ職場の男性と結婚。夫のニューヨーク勤務に5年間付き添い、1996年に仕事に復帰したが、1999年1月に出産のため退職。5月に38歳で息子を出産した。

夫の両親は北海道帯広市から駆けつけ、香川さんの母とともに祝ってくれた。このとき義父が都内で迷子に。帯広に戻ってからも頻繁に行方不明になる。

義父はアルツハイマーだった。会社経営をしていた義母は、仕事で多忙なうえ、義父から目が離せない。夫は海外出張で不在がちだったため、義母は困ったことがあると香川さんに電話をしてくるように。香川さんは義母が電話口でせきをしていることが気になっていた。


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2001年1月、義母に肺がんが発覚。ステージ4にもかかわらず、「お父さんが心配で家を空けられない」と入院治療を拒んだ。その年の5月、乳がんで亡くなった夫の妹の7回忌のため、香川さんは家族で帯広へ向かった。

「行ったが最後、そのまま4カ月帰れませんでした。夫は仕事があるので帰りましたが、正直だまされたと思いました。でも、あのときは『長男の嫁の務め』と言い聞かされ、みんなに認められるいい嫁になりたくて、嫌とは言えませんでした」

法要には親族が集まった。義母には年の離れた妹がいたが、「介護で忙しいだろうから」と以降、親族からの連絡は途絶えた。

香川さんが帯広に残ると、義母は義父に付けるヘルパーを探し始める。しかし「言葉遣いがダメ」「こんな人じゃお父さんを任せられない」と一向に決まらない。2カ月後にようやくお眼鏡にかなうヘルパーが見つかると、義母は抗がん剤治療に入った。

香川さんは2歳になったばかりの息子とともに、着の身着のまま帯広にとどまり、義理の両親の介護に努めた。

義理の両親の死と息子の障害

義父は施設に入所したこともあったが、怒ると乱暴になり、ほかの入所者やスタッフが怖がるため、3日で退所する。一方、義母の抗がん剤治療は芳しくなかったが、それでも「お父さんが心配なの」と、時々家に帰ってきた。がん病棟に幼児は入れないため、義母を見舞うときはベビーシッターに預けた。

義父のヘルパーは徘徊対策に2人体制をとり、夜間も付けていたが、介護保険ではカバーしきれない。余命半年の義母にがん保険が下りたが、義父のヘルパーと息子のシッター代に消えた。

息子は6カ月検診で「フロッピーインファント」の疑いがあり、「走ることは難しいかもしれない」と告げられた。フロッピー(floppy)は「ぐにゃっとした」、インファント(infant)は「子ども」という意味で、筋緊張低下症ともいわれる。

8カ月のときには肺炎で順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院し、水頭症の可能性を指摘された。検査の結果、心臓の動きに乱れを発見。また、筋肉を作る酵素の量や脳波に異常の可能性があるなど、検査や入院が続いた。

2歳になっても歩き出さず、言葉も発しないため、区の療育相談に通い始める。2002年4月には都内の幼稚園の準備保育や幼児教室に入会したものの、帯広へ行き来していたため、ほとんど通えなかった。

「歩けないのは母親が甘やかしているからだ」「外で遊ばせなきゃダメよ」と義母やシッターから言われ、悩んだ末に遠くから見守ることを選択した結果、階段から落ちて鼻を骨折させてしまったり、シッターさんに預けている間に門の丁番に指を挟み、危うくちぎれるほどの大怪我をさせてしまったこともあった。

「今なら『子育てに専念したい』とはっきり言えますが、当時はいい嫁になりたい一心で自分を縛っていました。結局、子どもにしわ寄せがいっていたと思います」

息子に「友だちを作ってあげたい」と思い、時々お弁当を作って近くの公園などに連れて行ったが、なかなかうまくいかなかった。

「母親としてつねに罪悪感を抱えていました。私自身もママ友ができず、学生時代の友だちも、当時は介護をしている人はいません。『大変ね』と言われても、心から理解してくれているとは思えなくて、孤独でした」

2002年6月、70歳で義母が亡くなる。義父は香川さんやヘルパーの手に負えなくなっていた。その翌月、ケアマネジャーの助言により精神科病棟に入院させる。入院患者は高齢者がほとんど。1人でしゃべっている人や何かを叫んでいる人が何人もいた。

暴力や徘徊の心配はなくなったが、香川さんには義父の汚物を取りに行き、洗濯してまた届けるという仕事が残されていた。

「“介護の記憶は臭いの記憶”です。現在は改善されていると思いますが、昔の介護施設は独特の臭いがありました。義父はおむつをしていたものの、どうしても漏れて悲惨な状態でした。いちばんつらかったのは、汚物の臭いと重さですね」

香川さんが東京へ帰っている間は、義母の会社の従業員がやってくれた。夫がしたのは一度だけ。しかし下洗いをせず、おむつごと洗濯機に入れてしまったため、散乱した吸水ポリマーと臭いが取れなくなり、洗濯機を買い換えることになった。

そして2003年6月、義父は74歳で亡くなる。死因は風邪だった。

義父母が亡くなった後、今度は母の介護を

香川さんの父は、息子が生まれる2年前に心臓破裂で亡くなり、母はそれ以降、生活のリズムを崩していた。過食で急激に太り、入退院を繰り返していたが、母のことは同居する妹に任せていた。

義父を看取った4カ月後、母が骨粗鬆症による背骨圧迫骨折で入院。香川さんは3姉妹の長女だが、妹たちは仕事があるため、香川さんが川越まで食事介助に通うことになる。

その頃、夫は義母の会社を整理するため、帯広へ行き来していた。

息子は足や耳の受診と言葉の遅れについて相談のため、都内の療育センターとクリニックに通う。5歳には順天堂大学病院で耳の手術をした。

夫は義父の死から2年後、整理するはずだった会社を継ぎ、帯広へ移住。別居状態に。

「夫には『文句ばかりでちゃんと両親の面倒を見てくれなかった』と言われました。私がしてきたことを全部知っていて、本当に理解できるのは夫だけだったのに。どんなに言葉を尽くしても、もうこの距離を埋められないと思いました」

そして2006年、母と同居する上の妹から「介護に疲れた」と泣きつかれる。妹たちとの話し合いの結果、香川さんが介護のキーパーソンとなり、練馬の家の近くに母を呼び寄せることになった。翌年10月、母を呼び寄せるタイミングで下の妹も練馬に転居。

主治医と相談し、大量の薬を徐々に減らすことで、母は足の痛みが軽減。香川さんの息子の学校行事に参加できるほど元気になった。

しかし2011年、玄関での転倒をきっかけに、再び入退院を繰り返し始める。

認知症もあるため、施設への入所をケアマネジャーに相談したが、金銭的にも優先順位的にも練馬では難しいと言われる。そこで、川越の実家へ戻ることを検討。

2012年、5年ぶりに川越を訪れると、実家は住める状態ではなかった。上の妹はうつ病を発症し、5年分のゴミが天井まで積み上がっていたのだ。

おむつをしていた母は時々、粗相をすることもあり、上の妹は再同居を嫌がった。香川さんは、週5日デイサービスに通うため、ほとんど介護はいらないこと、妹のものは触らないことを約束。玄関から母の部屋までを片付け、母を実家に戻す。

母はデイサービスでリハビリに励み、歩けるところまで回復した。

だが2014年、骨粗鬆症が悪化。救急車で搬送され、そのまま入院。数日後、院内感染により熱発した。主治医は「薬が効きません。もう治療しなくてもいいですよね」と香川さんに訊ねる。

その頃妹たちは、母の介護に対する考え方の相違から疎遠になっていた。香川さんは「母の存在は自分たちの支えになっている」と思い、病院に交渉を試みる。

「院内感染は病院側の管理の問題です。『薬が効かない』『治療やめます』では納得がいきません」。すると病院側は、「できるだけの対処はしてみます」と応え、配分が難しいという薬を投与。母は持ち直し、退院することができた。

命を永らえさせ、かえって苦しませてしまった

ところがその約2週間後、様態が急変。再度入院して検査したところ、足の壊死が発覚。薬の副作用で糖尿病を発病していた。治療法はなく、「膝上から切断するしかない」と医師に告げられる。

「両足を切断して幸せかな。私なら切断してでも生きて、息子の成長を見ていたい。でも母は高齢で認知症もあり、自分では排泄も食べることもできなくなっていました。院内感染したときには、ここまで考えもしなかった。私のせいで命を永らえさせ、苦しませてしまったんです」

早く切断しないと身体中に毒素が回り、とても苦しい状態になる。妹たちに連絡しても返事はない。切断するかしないかの判断は、香川さん1人に委ねられた。

「私はその頃、片づけ支援サービスを提供するライフオーガナイザーの資格を取り、活動を始めていました。恥ずかしい話ですが、私は決断できないまま、生前整理の2級講座を受けに行ったんです」

香川さんが病院に戻ると、母は体中管だらけだった。足は切断されていない。その代わりに、痛みを緩和するモルヒネの投与や、水分や栄養を入れるための管につながれていたのだ。

母は約2カ月後、84歳で亡くなった。

香川さんは現在、片付けや生前整理のプロとして「大切なものを選ぶ片付け」を教え、「寄り添い片付けサポート」を提供している。

資格を取得したのは、自分の心や過去を整理したかったから。母が大切だからこそ、精一杯のことをしてきたつもりが、母が死に向かうことを受け入れられず、かえって苦しませてしまった。片付け講座で教える立場となり、「こんな自分に何を伝えることができるだろう」と考えた。

家族できちんと死生観を語ったほうがいい

「父は信心深い人で、家の中で死について語ることはタブーでした。でも人は100%死ぬ。本当はもっと早く死を受け入れるべきでした。家族で死生観を話し合えていたら後悔することもなかった。

私は管だらけで死ぬのは嫌なのに、母にそれをしてしまった。今でも自分が許せない。生前整理は荷物の片付けだけでなく、人生を振り返り、整理する作業。だから私はこの仕事で、お客様の気持ちに寄り添っています」

母を看取った後、死を語ることにより今をどう生きるかを考える「Deathカフェ」に参加し、意識が変わった。

「自分で自分の死に方は選べません。家族で死生観を話し合っておけば、自分の生死を選ぶ場面がきたとき、家族に負担を与えなくて済む。私は息子にはこんな思いをさせたくないので、尊厳死宣言書を作りました」

尊厳死宣言書は署名した時点で、延命処置ができなくなる。香川さんは80歳になったら署名するつもりだ。

「帯広で一度だけ、1人で車を飛ばして遠くに出かけたことがあります。何もかも投げ出して逃げた、あのときの開放感ったらなかった。私は結局『介護が嫌だ』って誰にも言えなかった。でも言わないと誰も助けてくれません。いい嫁、いい妻、いい姉、いい娘になりたかった。

でも愚痴を言うことも必要。1人で抱え込んだらダメ。今なら介護の終わりがわかるけど、当時はわからず、閉塞感に耐えられなかった。経験者が話を聞く場があるといいですね。私も力になりたいと思います」

息子は訓練や治療の末、話すことも走ることもできるようになった。

「夫は帯広に来たときは、私と息子を遊びに連れ出してくれました。介護はしてくれませんでしたが、何とかしたいとは思っていたのかな。息子は小さかったので、義理の両親の記憶はほとんどありません。それがかえってよかった。

子どもってお母さんがつらそうだったら、おじいちゃんおばあちゃんのことを嫌いになっちゃうでしょ。現在、夫は義母の会社を譲渡し、介護施設の理事を務めています。当時はしなかったのに、入所者さんの介助もしているんですよ」

今年5月、20歳になった息子は介護福祉士を志し、長期休暇には夫の介護施設へ実習に行く。