前回の原稿でも触れたが、それは話の中身と深く関係する。見出しになるような発信力のある言葉を吐けるか。森保監督を含め、日本人のほとんどの監督は話が面白くない。当たり前の話がほとんどだ。

 最後まで戦う。このやり方を継続させていく。バランスよく戦う。気持ちを切り替えて等々、そりゃそうだと言いたくなる台詞でその発言はほぼ100%占められている。意見が割れそうな話はまずしない。見出しになりそうな話と言ってもいい。炎上しそうな話なのかもしれないが、そうしたいわば反論を買いそうな話はほとんどしない。

 だが、サッカーはいろいろな意見があるスポーツだ。ブラジル式か欧州式か。その昔、進むべき方向性を語ろうとしたとき、この2択で議論が分かれたものだ。

 身近なところでは、縦に速いサッカーを唱えたハリルホジッチだ。協会の方針と合わず、前述の通り途中解任の憂き目に遭ったが、監督の在り方としてこれはきわめて標準的ナ姿になる。

 欧州では90年代後半、攻撃的サッカー対守備的サッカーかで揺れたことがあった。その結果、攻撃的サッカーが勝利を収め、現在に至っているが、その対立軸上のどこに自分はいるか、監督には説明が求められたものだ。

 あの監督は攻撃的だと言っているけど、実はそれほどでもないとか、メディアが各監督のサッカー哲学的な立ち位置について議論することで、それはより明確なものになった。

 現在のJリーグにその手の魅力は一切ない。話の中心はその結果、もっぱら「勝った、負けた」になる。選手に寄った話があるとすれば、次に日本代表入りする選手、五輪チームで活躍するのは誰かという代表話と関連づけたモノと決まっている。監督にスポットは当たらずじまいだ。これではサッカーそのものへの議論は深まっていかない。それで「代表監督は日本人監督で!」と言われても、そうですねと、素直に賛同する気になれないのだ。

 アジアカップ期間中、森保監督は「サッカーにはいろんな意見がある」と述べ、メディアに対し自由闊達な意見を促したそうだが、その場に居合わせていなかったので、それがどういうニュアンスだったか定かではないが、言葉通りに解釈すれば、それはメディアの恥に値する。

 その昔、オシムはこちらのインタビューに対し、「日本人はもっと私を叩くべきだし、私は侮辱されても全く構わない」と述べた。「ただ、私がそれで自分の信念を曲げることはない」と、不敵な笑いを浮かべることも忘れなかったが、それは自信があるからこそ言える台詞だ。

 森保監督はどうなのか。いろんな意見があることを認めるなら、まずは自分が自分の意見を明確に述べるべきだろう。オシムは独特の言い回しで自分を主張。その度に、監督に不可欠なカリスマ性を高めていった。反対意見が起きそうな、まさに見出しになりそうな哲学的な言葉を数多く述べたものだ。

 欧州では特段、珍しい存在ではない。「オシム」はそこに何十人、何百人といる。片や日本には、ほぼゼロだ。日本代表は、それでもそれなりに盛り上がるだろうが、Jリーグは苦しい。見どころは限定される。スポーツニュースの中身が、プロ野球のキャンプ一色に染まるのは、当然の帰結だと思う。サッカーは監督で決まる。普及発展、および繁栄のカギを握るキーマンに他ならない。厳しい目を向けざるを得ない理由だ。