増沢 隆太 / 株式会社RMロンドンパートナーズ

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1.兵は神速を尊ぶ
曹操の軍師・郭嘉(かくか)は「兵は神速を尊ぶ」と素早い作戦展開を主張したといいます。確かに危機対応で速さは重要な要素です。しかしただ早ければ良いのではなく、天才的軍師ではないわれわれが、単に早い行動をするだけで上手くいくものではありません。

危機、トラブル発生の場面で兎にも角にも駆けつけるというのは、誠意としては正しそうに見えますが、実際その場に行ったところで何もできない恐れがあります。というより、混乱するトラブルの現場に行ってしまえば情報収集などしている暇はありません。結果として混乱に拍車がかかるか、相手から詰問されても何も答えられずにさらに事態悪化を招くなど、自己満足な誠意になってしまうのです。

天才軍師ならば、今ある情報だけですべてを見通し、戦略を立てることができるのかも知れません。しかし私たち凡人はそうはいきません。やはりまず必要最低限の情報把握をした上で「神速」で対応することが欠かせないのです。

2.情報は6割
しかし「最低限」がどの程度のなのか、パーセンテージで示してもらわないと困るといわれることもあります。その時点でダメです。そんな正解が存在するのであれば危機対応など不要なのです。誰もがわからない中、自分で判断する以外に決め手はありません。完全に情報把握などできる訳がなく、そうしたデータ至上主義の管理者は危機対応能力はないといえます。

組織の危機が拡大する場面では、こうした正解至上主義者がリーダーになっている時がきわめて危険なのです。

では目安はあるのでしょうか?「おおむね」で良いのです。どこの誰が被害者かもわからず現場に行くなどあり得ないにしても、せめてその契機や背景など、ある程度の情報整理をした上で臨まなければ、ただの無謀でしかありません。

6割程度の概況がつかめれば、行動するには十分でしょう。もちろんそれが5割なのか7割なのかなど客観的基準はありませんから、リーダー自らの判断しかありません。このくらいにフワフワした材料で決断できることがリーダーの責任といえるでしょう。

3.戦力の逐次投入とランチェスター戦略
持てるリソースを小出しにして、少しずつ様子を見ながら展開していく戦術を「戦力の逐次投入」と呼び、最も拙劣な戦術と批判されます。1万人以上の米軍に数千人で突撃したガダルカナル戦が有名ですが、福島原発事故時に、当時の菅首相が自衛隊を小出しに展開しようと迷走した例など、巨大組織においてはいまだ見られる事象です。

しかし様子を見ながら戦力を小出しにした方が、少ない損害で済むとは考えられないのでしょうか?ちょっと出しして、相手が強ければさらに補強し、最適解を見つけることで、無駄な消耗を避けることにはならないのでしょうか?

こうした正解至上主義を否定するのはランチェスター戦略です。日本では経営戦略、特にシェア獲得の戦略としてよく知られていますが、もともとは航空戦を想定した純粋な軍事理論でした。私も日本のランチェスターの父・田岡信夫氏の本で大学生時代からゼミで勉強しました。

局地戦、一対一の戦いであれば「一騎打ちの法則」とも呼ばれるランチェスターの第一法則で、「武器効率と兵力数」で勝敗が決まるというものです。しかし近代戦は戦国時代のような一騎打ちではなく軍隊という集団戦闘が普通です。

4.第二法則
そこで第二法則では「集団戦は武器効率(第一法測と同じ)と、兵力数の二乗」で戦力が決まるとしています。集団戦では兵力数が多い方が二乗に有利になるという意味です。

このため戦力を逐次投入すれば、集団戦の場合は投入された戦力が相手より少ない以上圧倒的に不利になります。小戦力はその都度全滅の恐れがあるのですから、小出しにして様子を見るどころか、単に戦力を減耗するだけに終わってしまう可能性があるということになります。

圧倒的な物量を誇る「強者の軍」が有利という、身もフタもない結論ですが、精神論や根性論で現実を見ない組織がどうなるかは明らかです。ちなみにでは戦力の乏しい「弱者の軍」はどうすれば良いか、第一法則に帰れば良いと考えられます。強大な戦力の軍と真正面から対峙すれば確実に負けるのですから、相手を狭隘な局地戦に引っ張り込み、一対一の局地戦で戦うことにより、弱者の軍に勝機は出てくることになります。

織田信長が大平原で強大な今川軍と戦わず、桶狭間という局地戦で大将首一点に絞ったといわれる戦いは、正にこの見本のようなものといえるでしょう。(ただし歴史的には必ずしもそうではなかったという説があります)

危機対応のリーダーシップはその戦いの帰趨を決めるもの。無策も根性論も危機拡大にしかつながらないと考えるべきだと思います。戦略も道具であって、使うものです。「使われる」ものではありません。組織のリーダーは、自分が判断を下すことこそ存在意義であると自覚しなければなりません。