いま、「企業の社会的責任」の根本的な見直し確認が求められている(撮影:尾形文繁、ヒラオカスタジオ、今井康一)

このところ、企業の不祥事が相次いでいます。軽重がありますが、思いつくままに書き並べると、SUBARUの無資格検査員による検査、神戸製鋼所のアルミ・銅・鉄鋼製品などの検査データ改ざん、三菱自動車による燃費試験のデータ改ざん、日産の無資格検査員の最終検査、タカタの欠陥エアバッグ、東芝の利益水増し不正会計などは、記憶に新しいところです。

はたして「Made in Japan」は大丈夫なのか。10月17日のBBCニュースのアシュリー・ギエム記者は「日本企業にいったい何が起こっているのか」と訝(いぶか)しく論説しています。フジサンケイ危機管理室の調査によると、今年1月から9月までに、大小合わせて119件の企業などの不祥事が起こっているということです。実に2日に1回、社会的に問題になるような不祥事が起こっているということになります。

「どうした、日本企業?」


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ギエム記者の言うように、「日本は長い間、誠実さ、確実な品質、製品の信頼性において輝ける手本になっていた」はず。ところが、昨今の不祥事の報道に接すると、「どうした、日本企業?」と思っている人たちも多いと思います。

一時、CSR(Corporate Social Responsibility)、「企業の社会的責任」が話題となり、盛んにあちらこちらで議論され、コンプライアンスだ、リスクマネジメントだと騒いでいました。それがこの頃は、ほとんど深く論じられることもなくなり、CSRについて語り始めれば、「古い話ですね」と返され、法令順守が大切だと言えば、「なにを今さら、常識でしょう」と一蹴されてしまいます。しかし、言葉としてわかっていても、血肉になっていない、日本企業にしみ込んでいなかったことが、昨今の大企業による連続的不祥事で明らかになってきました。

CSRの定義は、それぞれの国で異なります。アメリカでは「利害関係者に対して、説明責任を果たし、会社の財務状況や経営の透明性を高め、環境への配慮、コミュニティへの貢献をするなどのため、適切な企業統治とコンプライアンスを実施し、リスクマネジメント、内部統制を徹底すること」をいうことのようです。

ヨーロッパにおいては、「社会的な存在としての企業が、企業の存続に必要不可欠な社会の持続的発展に対して必要なコストを払い、未来に対する投資として必要な活動を行うこと」だといわれています。

一方、日本の大企業は、マラソンやゴルフトーナメントのスポンサーになったり、あるいは大学などの講座に寄付をする、慈善団体をサポートするということを、しきりに行うようになりました。加えて、社会に対する利益還元として、法令順守や環境保護なども、大いに論じられました。それが「企業の社会的責任」と考えられていました。しかし、日本において、企業の社会的責任の本質論はほとんど論じられていなかったのではないかと思います。

昨今の「企業不祥事」を単なる「事件」として受け止めていては、やがて、「かつて、日本は、誠実な国民であり、誠実な品質、信頼できる製品をつくる誠実な国であった」と、過去形で語られるようになるでしょう。

ここで、もう一度、企業の社会的責任について、本質的に考えてみたいと思います。本質論的にいえば、およそ、企業の社会的責任は、3項目に集約されると思います。

根本にあるのは「良品の生産」

1つは、なにより「自分の会社の製品、サービスにおいて、よい製品をつくり、よいサービスを行うこと」。言い換えれば、不良品を製造し、欠陥商品を世の中に出さないこと、あるいは、自分中心のサービス、不誠実なサービスをしないことでしょう。

この根本を押さえずして、なにが「企業の社会的責任」といえるのかということです。製造業であれば、優れた商品を、しかも完璧な良品、品質においてまったく問題のない製品をつくり、出荷し販売することです。不良品で、事故を起こす。交通事故、火災、中毒の原因になる製品をつくり、商品を提供するなどは、「企業の社会的責任」のイロハもわかっていないということになります。

あるいは、流通業であれば、十分なサービス、顧客中心のサービス、円滑に商品をお客様へ提供することでしょう。お客様に不快感を与える、お客様を差別する、見下す、不良品を販売するなどは、これまた、「企業の社会的責任」を軽視している証拠。とにもかくにも、完璧な良品を製造し、完璧なサービスでお客様に提供することが、「企業の社会的責任」だと思います。

2つ目の、「企業の社会的責任は、適正な利益を生み出すということ」。利益を生み出すことが、「社会的責任」などというと奇妙に感じる人もいるかもしれません。しかし、企業が利益を生み出すことは、企業のためということもさることながら、その利益の多少に応じて、税金を支払う。そのことによって、社会のため、国民のために貢献するということになるのです。赤字であれば、特に課税所得をベースに算定される法人税などは支払わなくてもいいということになります。それでは、「企業の社会的責任」は果たしていません。

繰り返しますが、税金は、広く社会のため、国民のために使われるものです。税金を少しでも少なくという経営者の気持ちはわからないでもありませんが、やはり、「企業の社会的責任」という観点からすれば、「健全な経営を行い、適正な利益を生み出し、そして、正当な税金を納め、もって、社会のため、国民のために貢献するということ」を考え実行すべきでしょう。

かつて、銀行から借り入れをして、不動産を買いあさり、わざわざ決算を赤字にするという大企業の経営者が存在しましたが、こうした経営者などは、論外として、やはり、赤字は、社会に十分に貢献しない、いわば「罪悪」です。罪悪とまで言うと、やや言いすぎかもしれませんが、適正な利益を生み出し、国家国民のために貢献することを経営者はつねに心掛けなければならないでしょう。

3つ目は「社会に直接的還元するということ」。良品を提供し、税金も正しく納め、なお余力があれば、当然、直接的に寄付なり、あるいは社会的事業を立ち上げるなりして、社会的貢献をすることでしょう。欠陥製品は出す、適正な利益も上げない、それでいて、イベントのスポンサーになったり、寄付をしたり、慈善事業をしたりすることは、社会も求めていませんし、むしろ、反社会的だといってもいいのではないでしょうか。

企業は、いろいろと社会に貢献している面もありますが、時に環境問題、あるいは道路問題、騒音問題など、さまざまに近隣住民や社会全体に好ましからざる影響を与えている場合もあります。また、そうではなくても、社員の家族、その周辺の人たちのことも考える社会性も求められる。それが、「社会的公器」としての自覚であり責任でなければなりません。多くの企業が、そのような活動をし、事業を展開しているのは、そうした「社会の公器」としての役割を自覚しているからだと思います。

要は、「企業の社会的責任とは、完璧な製品をつくり、サービスし、適正な利益を上げ、正しく税金を納め、社会的活動を援助すること」だということです。

大事なことは、これを徹底すること。経営者には徹底する責任があります。そして、法令順守だけでは不足、「人道順守」を前提とすべきです。つねに「誠実に生きていこう」「正しく仕事をしよう」「手を抜くようなことは絶対にしてはならない」「使う人のいのちを預かっていることを自覚しよう」「細部まで配慮、気配りを徹底しよう」などと、経営者は、その責任において繰り返し社員に訴え続けるべきです。

不祥事の全責任は経営者にある

企業の不祥事の全責任は経営者にあります。決して担当者の責任ではありません。そういう「企業の社会的責任」、いや、「人間としての責任」を常々社員に語り、浸透させていなかったその責任を感じるべきです。筆者の造語ですが、大事なのは、Humaliance(ヒューマライアンス=人間順守)なのです。これをCompliance(コンプライアンス=法令順守)以上に浸透させなければならないと思います。

よく、記者会見で「そのことは、担当者がやっていたことで」という実にみっともない発言をする経営者がいますが、「正しい責任、企業の正しい社会的責任を徹底すること、人間として正しい責任を企業風土にすること」が経営者の役割であるとすれば、究極、「社長一人(いちにん)の責任」であると思います。

日本は技術大国だと自称しています。「Made in Japan」がブランドだと自慢しています。筆者は、その慢心が、このところの日本の大企業の不祥事に表れているのではないかと思います。実際に技術大国というならば、スマートフォンやアマゾン・ゴー、あるいはアマゾン・エコーなど、日本が最初でなければおかしいと思います。AIやロボット、あるいは、IoTにしても、日本が先頭に立っているとは言いがたい。シンギュラリティ2045年対応でも、日本は立ち遅れているのではないかと危惧しています。

それにもかかわらず、加えて、もともと日本人が持っていた「誠実さ、確実な品質、信頼性ある製品」が薄れていけば、早晩、日本は水平線のかなたに沈んでいくことになるでしょう。いまほど経営者、社長の果たす責任の大きさが求められているときはないと思います。

日本のすべての企業は、いま一度、「企業の社会的責任」の根本的な見直し確認を求められていることを認識すべきでしょう。