甲子園大会第1回出場校の100年の夏の歴史を振り返る 〜早稲田実業編〜
7月26日に行われた第97回全国高等学校野球選手権大会西東京大会で見事5年ぶりの優勝を果たした早稲田実業。『甲子園大会第1回出場校の100年の夏の歴史を振り返る』シリーズ第3回では、この早稲田実業の歴史を振り返っていく。
1901年、大隈 重信の教育構想の元に創立された早稲田実業高校。王 貞治を始めとする数多くのプロ野球選手を輩出し、2006年夏、伝説の引き分け再試合ののちに初優勝を果たしたことが記憶に新しい。この早稲田実業も、今から100年前、甲子園第1回大会に出場していた。時が経ち、今年100年目の節目を迎える年にスーパールーキー清宮 幸太郎が入学するなど、早稲田実業には野球界を引っ張る不思議な力が働いているのかもしれない。
今回は、早稲田実業高校の夏の甲子園100年の歴史を振り返ってみる。
1925年夏から現在までの歩み現在の早稲田実業のユニフォーム
【1925年夏】1925年、第11回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に早稲田実業は出場。この年の大会は、高松商、和歌山中(現:桐蔭)、第一神港商(現:市立神港)らに注目が集まり、早稲田実業は有力株とは見られていなかった。早稲田実業は初戦、いきなり優勝候補の和歌山中と対戦するも、1安打1得点の1対0で和歌山中を下す。優勝候補の撃破で勢いに乗った早稲田実業は、敦賀商(現:敦賀)、第一神港商を破り決勝まで駒を進める。決勝の相手は高松商。
実は、前年春に初開催となった選抜大会決勝にて、早稲田実業は惜しくも高松商に敗れ、優勝を逃す苦い経験をしていた。雪辱を果たすべく臨んだ高松商戦であったが、序盤に奪われた5点のリードをひっくり返すことができず敗戦。夏の全国大会初優勝とはならなかった。
【1980年夏】続いて早稲田実業が甲子園を沸かせたのは、約50年後の1980年であった。この年、都大会を順調に勝ち進み、決勝は二松学舎大附を10対4で破って甲子園への切符を手にした。そしてこの年、新たなヒーローが登場する。一年生ながら甲子園のマウンドを任された荒木 大輔選手である。荒木は入学してわずか4ヶ月で、甲子園のマウンドに立った。当時のエース芳賀 誠選手の故障により、都大会から投げ続け、気がつけば甲子園決勝。決勝では、横浜と戦い、結果は惜しくも4対6。早稲田実業は夏制覇という栄光をまたしても逃してしまった。
【2006年夏と現在】そして迎えた、2006年夏。1980年、荒木 大輔時代以来の甲子園決勝まで駒を進めると、南北海道代表駒大苫小牧との熱戦を繰り広げ、引き分け再試合ののちに、4対3で勝利。エース斎藤 佑樹選手が中心となり、王 貞治、荒木 大輔でも成し遂げられなかった、悲願の夏の甲子園制覇を達成した。斎藤はこの大会で、69回、948球を投げ、78奪三振。投球回数、球数は夏の甲子園歴代一位。奪三振数は板東 英二に次ぐ、歴代二位という大記録を打ち立てた。
そして、今年の早稲田実業も例年とは一味違ったチームとなっている。なんといっても一番の注目はスーパールーキー清宮 幸太郎。一年生ながら184cm97kgという高校生離れした体格に鋭いスイングが持ち味であり、春季東京都大会準々決勝ではスリーラン本塁打を放つなど、将来が楽しみでならない選手である。もちろん清宮だけではなく、捕手であり4番の加藤 雅樹にも大きな期待がかかる。いずれにせよ、チームとしても力があるため、今年の甲子園での活躍に大きく期待がかかる。
【主な出身選手】・王 貞治・荒木 大輔・大矢 明彦・斎藤 佑樹
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