為末大『諦める力』(小学館文庫プレジデントセレクト)

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マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツは、なぜ早々に引退して慈善事業家になったのか。オリンピアンの為末大氏は「勝つ必要のないことは諦めたほうがいい。恐らくビル・ゲイツはPC業界でこれ以上勝つことを諦め、慈善事業の世界に挑戦した。成功した起業家の多くは、その姿勢に憧れている」と語る。為末氏が繰り返し強調する『諦める力』の価値とは――。

※本稿は、「為末大オフィシャルブログ」のポストと、『諦める力』(小学館文庫プレジデントセレクト)のまえがきを再編集したものです。

■庭が広すぎるとメンテナンスに時間をとられる

『諦める力』が、文庫本になった。改めて考えてみるとこの本で伝えたかったことの一つがリソースの解放だったと思う。

個人として戦略的に生きることを考えてみたい。まず人生を拓いていきたい人にとっては、とにもかくにももっとも足りないリソースは時間である。どこに時間を割り振るかによって個人の人生は大きく左右される。ところがその肝心の時間がなかなかない。若いときはあったがどこに配分していいか検討がつかなかった。大人になると配分したいけれども余った時間がない。

大人になると人間関係が増える。また、自分が関わる範囲も増える。庭が広ければメンテナンスだけで大変な時間が食われる。だから庭師の方にメンテナンスをお願いするが、その庭師の方に庭のありようを説明または指示しなければならないとしたらそれにもまた時間がかかる。ましてや庭を人に見せる機会があったり、庭はこうであってほしいという理想があれば余計にこだわりは強くなる。気になりすぎて庭の剪定を自分でやりたくなってしまうこともあるかもしれない。

そうなれば庭が三つもあればもう時間は相当に食われているだろう。この三つの庭はおそらく一つの庭に集中投下したときよりは程度の低い庭になる。また、新しい庭を見つけても、そのことを考える時間が取れない。少し考えたらまた明日がやってきて庭の手入れの時間が来る。

■時間というリソースを解放するために「諦める」

どうすれば時間というリソースを解放することができるのか。自分の思う通りに生きて、余計なことをやるのをやめよう、人にどうこう思われるのをやめようということがシンプルな解になる。

一方でこのような考え方に抵抗がある人たちもいる。とくに真面目な人は、諦めないように育っている。庭を改善することをやめたり、放っておいたり捨てたりすることは諦めだと考えている。大きな意味でやりたいことを諦めないために、リソースを解放しなければならないが、今やっていることを諦められないからそれができない。このような矛盾を感じて、『諦める力』を書いた。

■レースはよそ見をしない人間が勝つ

私は8歳で陸上を始めてから、あの子より速いとか、あの子に勝った・負けたということばかりを34歳まで繰り返してきた。そのせいもあって、勝ち負けで物事を考える方がすっきりする。リソースの話を勝ち負けの言葉で説明すると、「勝つ必要のないものは負けてもいい」となる。その「負けてもいい」エリアが大きければ大きいほど、リソースが余るので、それを自由に使えるようになる。

余ったリソース、つまり時間で英気を養うのもいいし、何かをやることに集中投下してもいいし、あるいは新しい「勝てる」エリアを探すことに使ってもいい。ただし、負けてはいけないエリアで負けてしまえば自分の価値が目減りする。いったい何を負けないで、何を負けるのか。それを考える方が今やっていることで何が何でも勝とうとするより大事だと考えるようになった。

何かを「敗北エリア」に設定するのは心理的に負荷も大きい。敗北エリアで誰かが輝いているのを見るともやもやする。小さな嫉妬心が芽生える。敗北エリアを拡大するということはこれらを向き合うということにほかならない。他人の輝きを喜べるようになれば本物だが、まずは無視できるようになるだけでも相当にいい。一番無駄な時間は、自分とは関係のない他人に対していろいろ考えることだ。レースはいつもよそ見をしない人間が勝つ。

■「敗北エリア」を設定したらいいことづくめだった

私は人に尊重される人間になりたかった。そのために、どのように扱われるかを考え、自分がどう見えているかを考え、それをコントロールするためにかなりの時間を費やしていた。けれども引退間際にはそういった機会が少なくなったこともあり、一旦冷静に見てみるとなんだか膨大な意識と時間を使っていたとはたと気づいてやめることにした。「どう見られるか」を敗北エリアに設定したことになる。それを決めてから頭がぼさぼさでも、毎回服が同じでも、誰かに軽くあしらわれても気にしなくていいようになり、それで随分リソースが解放された。おかげで本を読む時間がかなり増えた。この経験から、庭が小さくて少ない方がいいと学んだ。

敗北エリアを設定する隠れたメリットは、他人にとても協力的になれるということだ。負けたくないエリアに相手が重なって来るとどうしても張り合ったり、守ろうとしたりしてしまう。ところが敗北を設定しているエリアであればいくらでも人に勝ってもらっていい。いや、むしろちょっと手伝えば自分もその勝利に関与できた気分になって心地いい。敗北エリアを設定するようになってから人に張り合うことが少なくなり、協力することが増えた。そうすると仲間が増える。飲み会が楽しくなる。いいことづくめだ。

■起業家はスティーブ・ジョブズよりビル・ゲイツになりたい

「敗北エリア」を設定するということは、何を自分の軸とするか、どこで個性を出すか、ということにもつながると思う。

あるとき、日本で成功した起業家の人たちがそんな話しているのを聞いていたら、彼らが一様に「かくありたい」と言っていたのがビル・ゲイツだった。彼はスティーブ・ジョブズと同時代、同じPCの分野で起業し、一時はジョブズよりはるかに成功したかに見えたが、そう見えているうちにさっさと引退して社会の課題解決のヒーローとなった。

つまり、ゲイツはいちはやく起業家から慈善事業家に転換することで、ジョブズがアップルに返り咲いて大スターとなった後も、その影に隠れることはなかったのだ。もちろんゲイツの実際の動機がどこからくるものだったかはわからないが。

■これまでの価値観から“脱洗脳”する

ゲイツほどではなくても一度何かの分野で成功をおさめた人が、新しいキャリアに転換するのはけっこう難しい。結果を残したアスリートであっても、セカンドキャリアは楽ではないし、会社でそれなりに出世した人の定年後も同じようなことがいえるだろう。本人は意識していなくても、活躍していたときの「残り香」のようなものがあると鼻につく。「むかしはすごかった自分」をうまく葬るにはどうしたらいいのか。

まずは、いまの自分を褒めてくれる人を探すことからだと思う。そういう人がいなければ、自分で自分を褒める。簡単なようだが、実はこれがすごく難しい。自分をいままでの価値観から脱洗脳することに等しいからだ。いままでの価値観とは別の尺度を見つけなければ、本気で褒めることはできない。場合によっては、いまの人間関係から距離をおいたり、情報を遮断したり、といったことも必要だろう。

「第一人者」とは、局所的なエリアを占領した人を呼ぶのだと私は思う。全体に散らばって少しずつ抑えている人は、第一人者とは呼ばれない。そして全体を監視しなければならない人は、ほとんどの時間を監視と管理に費やす。最近は敗北エリアをたくさん設定したので随分リソースが解放された。余ったリソースは仕事と、本と、息子に投下している。

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為末 大(ためすえ・だい)
1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダルを勝ち取る。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2013年5月現在)。2003年、大阪ガスを退社し、プロに転向。2012年、日本陸上競技選手権大会を最後に25年間の現役生活から引退。現在は、スポーツに関する事業を請け負う株式会社侍を経営している。著書に『諦める力』『逃げる自由』(ともにプレジデント社)などがある。

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(DEPORTARE PARTNERS 代表 為末 大 写真=時事通信フォト)