ニルヴァーナ『イン・ユーテロ』知られざる20の真実

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カート・コバーンが提案した仮タイトル、「ハート・シェイプド・ボックス」のインスピレーション等、ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』にまつわる知られざる20の真実とは?エディー・ヴェダーへのいたずら電話、実物のハート・シェイプド・ボックスまで、1993年発表のマスターピースにまつわるエピソードの数々を紹介。

1993年2月、ニルヴァーナはサードアルバムの制作のため、ミネソタ州キャノン・フォールズにある人里離れたスタジオ、Pachyderm Studiosでレコーディングを開始した。バンドが最後にスタジオ入りした時、まだ無名だった彼らは地元シアトルのサブ・ポップからデヴィッド・ゲフィンのDGCに移籍したばかりだった。しかし、マイケル・ジャクソンをチャートのトップの座から引きずり下ろしたアルバムがマルチ・プラチナを記録し、名実ともに世界で最も有名なロックバンドのひとつとなった彼らには、前回とは比べ物にならないほどのプレッシャーがのしかかっていた。「ロックスターの初心者講座なんてのがあったら、絶対受けたんだけどな」カート・コバーンは1993年に、ローリングストーン誌のDavid Frickeにそう語っている。「右も左もわからない俺にぴったりさ」

コバーンが掲げた目標、それはバンドのパンクロックのルーツに立ち返ることだった。彼らが新たに獲得した何百万というファンは『ネヴァーマインド』を崇拝したが、コバーンはそのサウンドが「へっぽこ」で商業的すぎると捉えていた。鬼才スティーヴ・アルビニ(ピクシーズ、ザ・ブリーダーズ、ジーザス・アンド・メリーチェイン等、コバーンのお気に入りのバンドを多数手がける)をプロデューサーに迎え、ミネソタ州郊外の森に囲まれたスタジオでのレコーディングを選んだ彼の念頭にあったのは、バンドのデビュー作『ブリーチ』の作風に近いアルバムを作ることだった。



そして誕生した41分間の不屈のロックアルバム、『イン・ユーテロ』はどこまでも生々しく、ポップス史上唯一無二のオリジナリティを誇る。私生活をメディアに晒され続け、手にした名声に幻滅していたコバーンは、抱え込んでいた感情を同作で爆発させた。「サーヴ・ザ・サーヴァンツ」の冒頭のライン(「10代の怒りは見事に報われた」)から、「オール・アポロジーズ」の胸を打つフィナーレ(「誰もがかけがえのない存在だ」)まで、同作にはコバーンの荒涼とした世界観がはっきりと現れている。『MTVアンプラグド』で聴くことができる、むき出しのアレンジが光るアコースティックバージョンの方が印象深いという声も少なくないが、ニルヴァーナの魂をありのままに映し出した『イン・ユーテロ』は、コアなファンの間で圧倒的な支持を得ている。

『イン・ユーテロ』の発売25周年を記念し、同作にまつわる知られざる20の真実を紹介する。

1. アルバムの原題は『アイ・ヘイト・マイセルフ・アンド・ウォント・トゥ・ダイ』だった

「ただのジョークさ」コバーンは本誌にそう語っている。1992年半ばにコバーンが日記帳に記したそのフレーズは、『ネヴァーマインド』の次回作の仮タイトルとなった。「俺は不機嫌でキレやすい上に、統合失調症で自殺願望を抱えてると思われてるからな。俺自身は笑えるタイトルだと思ってたけど、世間は理解しないって分かってたよ」
 
3年前にジューダス・プリーストのファン2人が銃で自殺した際に、バンドが非難に晒されたケースの二の舞を恐れたクリス・ノヴォセリックは、考え直すようコバーンを説得した。もう一つの仮タイトルとして『ヴァース・コーラス・ヴァース』が挙がっていたが、最終的にはコートニー・ラヴが書いた詩に登場するフレーズ、『イン・ユーテロ』に落ち着いた。

2. コバーンがスティーヴ・アルビニに白羽の矢を立てたのは、ピクシーズ風のレコードを作るためだった

コバーンはボストン発のオルタナロックバンド、ピクシーズの1988年作『サーファー・ローザ』を『ネヴァーマインド』のインスピレーションとして挙げており、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」については、同バンドのスタイルを意図的に模倣した曲だと認めている。「ピクシーズを初めて聞いた時、自分の何かが強烈に共鳴するのを感じた。俺はこのバンドに入るべきだと思ったし、そうじゃなかったら彼らのカバーバンドをやるべきだと思った」彼は本誌にそう語っている。文字通り世界で最もビッグなバンドとなったニルヴァーナは、当時制作における主導権を完全に握っていた。「『ネヴァーマインド』を出した後は、なんでも好きなようにやらせてもらえるようになった」ノヴォセリックはそう語っている。「それでカートは、ピクシーズ風のレコードを作ろうとしたんだよ」

3. アルビニはもともとニルヴァーナのファンではなかった

「はっきり言って、俺好みのバンドじゃなかった」当時の多くのバンドがそうだったように、ニルヴァーナについて懐疑的だったアルビニは、ビッグ・ブラックとも交流が深いジャーナリストのGillian G. Gaarにそう語っている。ニルヴァーナのことはMTVで知ったという彼は、バンドのライブを観たこともなかったという。アルビニが『イン・ユーテロ』のプロデュースを手がけるという噂が流れた時、彼はバンド側に「噂を耳にしたけど、俺は聞いちゃいない」と記したファックスを送り、ニルヴァーナは正式にオファーを出した。

4. アルビニは報酬として10万ドルを要求し、膨大な額を生んだであろう著作権契約を結ばなかった

アルビニがバンド側に提出した4ページに及ぶ提案書には、共に仕事をする上での原則に加えて、彼が著作権契約を結ばないという旨が明記されていた。「プロデューサーやエンジニアが著作権収入を受け取るというやり方は、倫理的に間違ってる。俺はやるべきことをやり、その対価を一括で受け取る。配管工と同じだ」彼の提案書にはそう記されていた。「10万ドルでも俺には多すぎるぐらいだ。金を持て余し、眠れない日々を送るのはごめんだ」 アルビニが森に囲まれたPachyderm Studiosを選んだのは、外部の人間による干渉を阻むためだった。出禁扱いとしていたゲフィン・レコーズのスタッフたちを、アルビニは「踏ん反り返った頑固者たち」と呼んでいた。
 
5. スティーヴ・アルビニはスタジオでの空き時間に、エディー・ヴェダーにいたずら電話をかけた

アルビニは電話口でデヴィッド・ボウイのプロデューサーであるトニー・ヴィスコンティを名乗り、パール・ジャムを脱退すればソロ作のプロデュースをやってもいいと申し出た。ニルヴァーナとパール・ジャムの確執はメディアの扇動による部分が大きいものの、コバーンはバンドのことを必ずしも好意的に捉えてはいなかった。「やつらと揉めたことはないよ」1993年のMTVとのインタビューで、コバーンはそう語っている。「クソみたいなバンドだとはずっと思ってるけどな」 だが1992年のMTV Video Music Awardでは、2人は一緒に悪ふざけに興じたという。「エリック・クラプトンが『ティアーズ・イン・ヘヴン』を歌ってる時に、ステージの真下にいた俺たちは一緒にふざけてた」ヴェダーは2006年に本誌にそう語っている。「ジムになってるスペースで、こんな風に体をくねらせてた。中学生みたいにさ」

6. アルバムの完成記念として、メンバーたちは履いていたズボンに火を点けた

アルバムのファイナルミックスを聴きながら、興奮したメンバーたちは履いていたズボンにシンナーをかけて火を点けた。危うくボヤ騒ぎになるところだったが、ビールで消火したという。スタジオでのこういった珍エピソードは、他にも多数残されている。デイヴ・グロールは真夜中に自身のハットを燃やし、驚いたアルビニは飛び起きたという。「彼とはウマがあったよ、どっちもいたずら好きだったからね」グロールはNPRにそう語っている。

7. 長い時間をかけて制作した『ネヴァーマインド』とは対照的に、一発録りを基本とした『イン・ユーテロ』のレコーディングはわずか14日間で終了した

直感的でスピーディな作業を心がけるアルビニが先導する形で、バンドはわずか2週間でアルバムを完成させた。「レコードの完成までに1週間以上かかる場合は、何かが機能していないということだ」アルビニの提案書にはそう記されていた。本能的でリアルなサウンドとミニマルなプロダクションを特徴とする『イン・ユーテロ』のレコーディングは、極めてクリーンで理路整然とした『ネヴァーマインド』よりも遥かにスピーディだった。「レーベルの連中とファンの大半は、『ネヴァーマインド2』を期待してたはずさ」プロデューサーのジャック・エンディーノはGoldmine誌にそう語っている。「言うまでもなく、スティーヴにそんなつもりは毛頭なかった」

8. ヒットを狙うにはプロダクションが粗すぎるという懸念を理由に、ラジオ向けのシングル曲群はR.E.M.のプロデューサーであるスコット・リットによって再ミックスされた

『ネヴァーマインド』で獲得した無数のファンが求めるものと、自身のルーツであるパンクの精神との間で、コバーンは揺れ動いていた。楽曲の大半は正真正銘のアルビニサウンドであるものの、彼はラジオ向けのシングル曲群をリットに再ミックスさせることを承諾した。しかしその事実に違和感を覚えたファンは多く、アルビニ自身も不満をあらわにした。「ビジネス的観点から言って、あれは俺にとって大打撃だった」彼はGaarにそう語っている。「俺はメインストリームのバンドと仕事ができないっていう烙印を押されたも同然だったからな」

9. カバーに使われた天使の像は、解剖学の授業に使用される人体模型にコバーンが羽をつけたものだった

子供の頃に人体模型のおもちゃを手にして以来、コバーンは解剖学に強い興味を持っていた。「医者か何かになりたいっていう願望があったのかもしれない」彼は1993年にMuchMusic誌にそう語っている。ミネアポリスで『イン・ユーテロ』のレコーディングをしていた時、彼は頻繁にMall of Americaを訪れ、医療器具販売店で人体模型や解剖図などを物色していたという。羽の生えたマネキンは、ツアーでもセットの一部として使用された。

10. 裏表紙のコラージュ写真は、コバーンが自宅の台所で作ったものだった

コバーンは自宅の台所の床に、胎児や内臓のプラスチック模型、べっ甲、カーネーション、ユリ等を、何日もかけて丁寧に並べていった。グロテスクなものと美しいものを組み合わせたそのコラージュは、コバーンの美学を端的に示している。花が萎れてしまわないうちに撮影すべく、彼は急遽フォトグラファーのCharles Petersonを自宅に呼び寄せた。Petersonが写真を撮っている間、台所のステレオからはミックス前の『イン・ユーテロ』が流れていたという。「作品に触れずに真上から撮影するのは大変だった。静止物体の撮影は僕の専門分野じゃなかったしね」彼はニルヴァーナの伝記本を執筆したEverett Trueにそう語っている。

11.「レイプ・ミー」と裏表紙のグロテスクさを理由に、ウォルマートとKマートは『イン・ユーテロ』の取り扱いを拒否した

両社の要請に応じる形で、コバーンは「レイプ・ミー」を「ウェイフ・ミー」に改題し、裏表紙をよりソフトなものに変更することに同意した。「俺が子供の頃、ウォルマートは唯一レコードを物色できる場所だった」彼はマネージャーのダニー・ゴールドバーグにそう語っている。「子供たちに、このレコードを手にとって欲しいんだ」

「レイプ・ミー」は様々な場面で物議を醸した。最も広く知られているのは1992年のMTV Video Muaic Awardsで、バンドが同曲を演奏すれば放送を中止し、コマーシャルを流すと番組側から迫られたことだろう。コバーンはプロデューサーたちを挑発しようと、パフォーマンスの冒頭で同曲を数秒間演奏してから、見事なアレンジが施された「リチウム」を披露してみせた。

12. コートニーから作曲の協力を頼まれたコバーンは、クローゼット内で「ハート・シェイプド・ボックス」を書いた

ラヴからリフを書いて欲しいと頼まれたコバーンは、ウォークイン型クローゼットの中でギターを爪弾いていた。「5分くらいそうやってたわ」彼女は本誌にそう語っている。「ノックしたら『何だ?』っていうから、『そのリフ使うの?』って聞いたの。そしたら『うるせぇ!』って言って扉をまた閉めちゃったのよ」そのリフが元となって生まれた「ハート・シェイプド・ボックス」の歌詞はラヴに捧げられており、コーラス部は彼女に贈った手紙の一部だった。「かけがえのない君の意見とアドバイスに 俺は永遠に感謝する。君の前に姿を現わすほど 俺は価値のある人間じゃないから」

13.「ハート・シェイプド・ボックス」の原題は「ハート・シェイプド・コフィン」だった

同曲の歌詞は当初、「何週間もの間 俺はハートの形をした棺桶の中に閉じ込められてた」となっていた。『アイ・ヘイト・マイセルフ・アンド・ウォント・トゥー・ダイ』というアルバムの仮タイトルと同様に、内容がダークすぎるという指摘が周囲から相次いだが、その懸念が妥当であることは明らかだった。同曲のミュージックビデオはMTVでヘヴィローテーションされ、オルタナティブ系ラジオ曲でも頻繁にプレイされたものの、世界で最も注目されているバンドの新作からのリードシングルであるにもかかわらず、同曲はHot 100にチャートインさえしなかった。「丸焦げになった君のがん細胞を食べたい」という歌詞は、郊外のキッズたちが口ずさむには暗すぎるという指摘には、誰もが同意せざるを得なかった。

14. ラヴは1990年にハートの形をした箱をコバーンに贈ったが、1994年の時点で2人はそのバリエーションを無数に所有していた

1990年にコバーンと出会った際に、ラヴはハートの形をした箱をデイヴ・グロールに手渡し、コバーンに渡してほしいと頼んだ。磁器の人形や乾燥したバラ等、コバーンの興味を惹くものが多数収められていたその箱には、ラヴが愛用する香水が振りかけられていた。2人のロマンスのシンボルとなったハート型の箱を、コバーンとラヴはそれぞれ多数所有していた。「ローラ・アシュレイとか、コートニー好みの女の子っぽいものと並んで、カートが集めてたカーネル・サンダースのフィギュアとかが置いてあったわ」ホールのドラマー、パティ・シュメルはCharles R. Crossにそう話している。「そういうちょっと悪趣味なものに、2人はユーモアのセンスを感じていたみたい」

15. 作曲は基本的にコバーンの役目だったが、「セントレス・アプレンティス」にはメンバー全員の名前がクレジットされている

作家のパトリック・ジュースキントの1985年作『香水 ある人殺しの物語』にインスパイアされたという「セントレス・アプレンティス」は、『イン・ユーテロ』において3人が作曲者としてクレジットされている唯一の曲となっている(『ネヴァーマインド』では「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」とB面曲「アニュリズム」の2曲が共同作曲扱いとなっている)。「セントレス・アプレンティス」のレコーディングは、全パートが一発録りだったという。「メンバーの誰一人として、やり直しの必要を感じなかった」グロールは本誌にそう語っている。「マジでガチのテイクだったんだ」

バンドの初期からコバーンは作曲の大半を担っていたが、当初はメンバー全員の名前がクレジットされていた。しかし多額の収入が舞い込むようになると、彼はその75パーセントを要求し、歌詞については100パーセント自分に権利があると主張した。他のメンバー2人は不満を示したが、コバーンは交渉に応じようとしなかった。

 16. コバーンは当初「ハート・シェイプド・ボックス」のミュージックビデオに、作家のウィリアム・S・バロウズを出演させようとしていた

コバーンとバロウズは、1992年に「The Priest They Called Him」と題されたスポークン・ワードのレコードでコラボレートしていたが、直に顔を合わせたことはなかった。コバーンが残した日記には、バロウズが出演する「ハート・シェイプド・ボックス」のミュージックビデオの構想が詳細に記されていた。「テーブル越しにウィリアムと俺が向かい合って座る(モノクロ)。背後の窓から目が眩むほどの太陽光が差し込み、テーブルの上で両手を組んだ2人が互いをじっと見つめる」

コバーンはバロウズに年老いた神の役で出演を打診する際に、彼の素性が視聴者に伝わるようにするつもりだと伝えたという。「俺のドラッグ癖があちこちで報じられていることを考えれば、あなたは俺が両者の人生を対比しようとしていると考えるかもしれない」コバーンがバロウズに宛てた手紙にはそう記されていた。「それが事実ではないということを、まず述べておきます」コバーンがヒーローと崇めるバロウズは出演を辞退したが、2人は同年の秋にカンザスにあるコバーンの自宅で対面を果たしている。バロウズは彼のアシスタントに、「あの青年はどこか病んでいる」と語ったという。「特に理由もなく顔をしかめたりするんだ」

17. 神の役を演じた男性は内臓癌を患っており、撮影中に倒れた

ディレクターのアントン・コービンによると、その男性はセットでのウォーキング中に突然倒れたという。現場の誰一人として、彼が癌に冒されていることを把握していなかった。「体のどこかがパックリ裂けて、一面血だらけだった」コービンはそう語っている。現場には救急車が駆けつけ、撮影は中断されたという。生誕、死、そして病というビデオに登場するテーマと皮肉にも合致したその出来事によって、現場は混乱に陥った。「彼の仕事ぶりには満足していたし、楽曲のテーマと一致する部分を多く供えた人物でもあったから、クルーはみんな心を痛めて、撮影をすぐ再開する気にはなれなかった」

18. コバーンが「ペニーロイヤル・ティー」を書いたのは1990年末だったが、出来が良くないとして『ネヴァーマインド』への収録が見送られていた

ニルヴァーナは静・動・静という構成のソングライティングを得意としたが、「ペニーロイヤル・ティー」はそのフォーミュラに沿って生まれた最初の曲のひとつだった。ワシントンのオリンピアにあったコバーンの自宅で、彼とデイヴ・グロールは同曲のデモを4トラックのレコーダーに録ったという。同曲は『イン・ユーテロ』に収録されるまでに同形を変え続け、1992年には一部がジャック・エンディノによって録り直されている。「ペニーロイヤル・ティー」と「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は共に、1991年にシアトルのO.K. Hotelで行われたライブで初披露された。
 
ペニーロイヤルミントには流産につながる成分が含まれているが(彼の日記には「あんなの嘘っぱちだ、ヒッピーの戯言にすぎない」と綴られている)、コバーンは「ペニーロイヤル・ティー」を深刻な鬱症状と病についての曲だとしている。セラピー代わりにレナード・コーエンの曲を聴いていたというコバーンは、同曲の歌詞で彼に言及している(「あの世ではレナード・コーエンを聴きたい」)。また「下剤とチェリー風味の胃薬を生暖かい牛乳で流し込む」という歌詞は、彼がヘロインで対処しようとした慢性的な腹痛を示唆している。

19. 「ペニーロイヤル・ティー」は『イン・ユーテロ』からのサードシングルとなる予定だったが、1994年のコバーンの自殺によってキャンセルされた

コバーンの死後、レコード会社が自主回収して破棄した同シングルのB面には、「アイ・ヘイト・マイセルフ・アンド・ウォント・トゥ・ダイ」と題された曲が収録されていた。しかし幾らかは既に海外に発送されており、200枚〜400枚ほどが市場に出回ったとされている。同シングルはeBayで数百ドルで取引されているが、その大半は偽物だと言われている。2014年のレコード・ストア・デイには、「ペニーロイヤル・ティー」の正規シングル盤がリリースされた。

20. 『イン・ユーテロ』には、ロックの世界における女性蔑視を正したいというコバーンの思いが込められていた

「レイプ・ミー」は強姦という行為に対する軽蔑心と、女性を支持するコバーンの真摯な思いが込められた曲だが、同曲は発表と同時に物議を醸した。「過去数年間、バンドが発しているメッセージの真意を世間が汲み取れずにいるのを目にして、俺はできるだけストレートに伝えていくことにしたんだ」彼は本誌にそう語っている。ライオット・ガール・ムーヴメントを声高に支持し、ブリーダーズやザ・レインコーツといった女性を中心としたバンドを好んだコバーンは、『イン・ユーテロ』でより多くの女性アーティストたちが活躍する状況を生み出したいと願っていた。「このレコードがきっかけで、ギターを手にとってバンドを始める女性が現れるかもしれない」コバーンは1993年にスピン誌にそう語っている。「それだけがロックに残された未来なんだ」